Blank Paper 〜凡人サイクリストのオレが天才メカニックに恋してしまった結果〜   作:fuyu_plus

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#005

 四日で千キロ。一日最低二五〇キロ。 

 

 それをこのハードなコースでやる。長いストレート区間に登りと下りの繰り返し、最大斜度は十五パーセント。

 どこの誰が考えたんだよ。そいつ相当ひねくれてやがる。

 

 一日十二時間稼働すると仮定して、平均時速二一キロで走り続ければどうにかなる距離ではある。

 

 だが実際はどうだ。激坂を含む登りセクションがあり、走るほどに脚を削られていく中で、達成可能なものなのか。

 

 まだ本格的な暑さじゃないとはいえ、昼間は日差しも強い。補給食だけじゃ足りなくなるのは目に見えているから、飯だってちゃんと食わねえと。オレは動くと食欲落ちるほうだから気をつけなきゃなんないし、翌日に持ち越す疲労をできるだけ少なくするためには、その日のうちのケアも重要だ。

 

 今日はまだ合宿初日だからいい。体調も万全、まだまだ走れる。けど明日は? 明後日は?

──いや、余計なことは考えるな。やるしかないんだ。失敗したときのビジョンなんていらない。

 

 額から落ちる汗と一緒に、邪魔な思考を拭い捨てる。ちょうどその時だった。

 

 後ろから、タイヤが地面を蹴る音が聞こえてきた。

 

 リズミカルなダンシング。誰かが勢いよく登って来てる。

 だけどなんだこれ。千キロ走り切るペースじゃない。まるでこの周回でゴールだとでも言うような勢いだ。

 

 次でインターバル挟むから追い上げるって? にしたってそりゃ無駄足じゃねえのかよ、とんでもねえな。

 

 独特のダンシングをする巻島さんではない、音が違う。

 タイムや周回数の差を考えると、該当する人物は限られた。トップを走ってた主将か、さっきインターバルを取っていた谷口に追いつかれたか。一体誰だ?

 

「あ。手嶋、くん、だ!」

 

 振り向くと同時、本来聞こえるはずがない声がした。

 そこにいたのは主将でも谷口でもない。

 

「瀬上?」

 

 彼女は通学の時と同じヘルメットとグローブに、いつものラレーではなく黒いジャイアントに乗っている。

 整備の仕事がない昼間は、監督と一緒にボトル交換なんかのサポート役に回っているはずだった。

 

「……それ谷口の自転車か?」

 

 息を切らせて登ってきた瀬上はオレの右に並ぶと、シッティングポジションに変えてリアギアを一枚落とした。

 あの走り方なら当然だが、オレの問いかけにまともに答える余裕はなさそうだった。ハンドルにしがみついて、うなだれて、呼吸を整えている。

 

「当たり。……は~、めっちゃ飛ばしたから疲れたー……ここ、結構傾斜……きついね」

 

 瀬上は苦笑いしながら、まだ肩で息をしていた。かなり心拍数も上がっているはずだ。でも笑えるならまだまだ大丈夫だろう。

 

「そうだな、じわじわ足削られるよ」

 

 ここはホームストレート前、最後の坂。激坂区間を含む、一キロ超のつづら折り。CSPにおける一番の山場だ。

 

「……誰か登ってくるなとは思ったけど、瀬上だとは思わなかったな。それどうしたんだ?」

 

 オレが右手で谷口の自転車を指差すと、瀬上は上がった息をよく整えてから話しだした。

 

「谷口くんがインターバルに戻ってきて……ペダルから変な音するって言うから見てたんだけど、ある程度トルクかけないと音しないみたいでね。見てもピンと来ないから本人と監督に許可とって実走しに来たんだ」

「なるほどな。で、原因はわかった?」

 

 瀬上は頷いた。

 そうだよな、瀬上に対してこれは愚問だよな。

 

「うん、リアエンドだね。登りに入る前でボルト締め直して、今はもう鳴ってないから解決」

「さすが天才メカニック様だな」

 

 オレがそう言うと、瀬上は苦笑して「ありがと」と返した。

 

 無事に問題解決したとはいえ、コース内で逆走するわけにもいかなくて走り続けているんだろう。で、谷口に早く自転車を返してやりたいからとんでもないペースで回しているってとこか。……あるいは純粋にこの状況を楽しんでいるのか、その両方かもしれない。

 

「リアエンドって割と繊細で、荒れた道走っただけでも音鳴りするようになるし……走行に支障はなくても気になるよね。ここも綺麗な道に見えて、荒れてる所あったりするのかも」

「ああ……前の周回、この先の下りで田所さんが段差見つけてサイン出してたよ。二つめのカーブのイン側。その時は谷口いなかったし、それかもな」

「そっか。谷口くんに伝えておくよ」

「瀬上も気をつけろよ。サイズ合ってない自転車なんて、ただでさえ危ないからな」

「うん」

 

 話をしているうちに視界が開けた。鈍色の路面ばかりを映していた目には眩しい空の青が飛び込んでくる。

 やっと山頂。坂が終わって、今度は下りだ。

 

「手嶋くんどうぞお先に。私は広めにマージン取って下りるよ」

「わかった。ふたつめのカーブ、気をつけてな」

「はーい」

 

 サイコンを確認する。悪くないペースだ。前の周回よりもタイムが縮まっている。

 

 ピークを過ぎ、ペダルが軽くなった瞬間にギア比を変えた。フロントをアウターにして、それからリアはトップへ。

 瀬上と寒咲さんが丁寧に整備してくれたシフターは、よく言うことを聞く。変速が思い通りにバシッと決まる音は聞いていて気持ちがいい。

 

 さて、こっからは下り。ライン取りは『アウト・イン・アウト』が基本だ。公道では中央線をまたぐことになるから普段練習できないが、ここでは思いっきりやれる。

 

 ブレーキをかけるのはコーナーに入る前だ。スピード調整は全てそこで終わらせる。コーナリング中は車体が安定してないから、途中でブレーキを握るのは却って危険だ。リアが滑る分にはまだいいが、フロントから滑ろうもんなら落車する。

 

 例のふたつ目のカーブは、さっき話題に上がったインコースの段差を避けるために寄せ過ぎないように、中央を意識してラインを取る。

 

 自転車を単なる移動手段だと思っていた頃は「下りは回さなくていいから楽だ」なんて思っていた。でもロードレースの世界に飛び込んでからは、手放しに下りは楽だとか休めるなんて言えなくなった。たしかに脚を休ませることは可能だが、下りは下りでやることがある。

 

 三つ目のカーブが終わると、ホームストレートが見えて来た。この周回で、ちょうど百キロ達成だ。

 

 まだ今日のノルマは半分以上残ってる。

 でもこのコースにも慣れて、うまく対応できるようになった気がする。もう一度サイコンを見れば、ラップタイムは確実に良くなっていた。

 

 まだ余裕はある。インターバルは挟まず、このまま百二五キロを目指すか。

 

 下り区間が終わって重くなったギアを二枚落とす。その分速度は落ちるが、足への負担がかなり変わる。意図的に軽めのギアで回して、次の登りに向けて少しでも回復させておきたい。

 

 ボトルをケージから取り出すと、また後ろから自転車の音が聞こえきた。振り返る先には、今度は満面の笑みを浮かべた瀬上がいる。

 

「あー楽しかったー!」

 

 走行距離、運動強度、補給の仕方に天候、それから走り終えた後のリカバリー。クリアしなければいけない課題が山積みになったこの合宿において、こんなに楽しそうに笑える部員は、たぶん瀬上くらいだ。

 

 でも別に、こっちがこんなに苦しんでるのに不謹慎だとか、空気が読めないとか、オレはそんな風には思わない。

 

 楽しそうに笑う瀬上を見ていると、釣られて笑ってしまう。張り詰めていた気持ちが少しだけ緩んだ。

 それで、気がついた。必要以上にブラケットを握りこんでいる。これじゃ手が痺れてしまう。

 

 指から力を抜いてブラケットに添えるだけにすると、手のひらがじわりと熱くなった。

 ストレッチするなら今のうちだ。ハンドルに逆手をついて手首を伸ばした。

 

「……そういや、そのシューズもヘルメットも瀬上の自前じゃん。こうなること見越して準備でもしてたか?」

「バレたかー」

 

 えへへ、と瀬上は笑った。

 彼女は完璧な仕事をするメカニックで普段から落ち着いているが、たまに子どもみたいに見えることがある。

 

「せっかくのCSP、私も走りたくて。誰かの自転車を明け方に借りられないかな~って密かに狙ってたんだけど、谷口くん長めにインターバル取るって言うし、いい口実だなと思って借りちゃった」

 

 そして瀬上はハンドルから両手を離し、その両腕を大きく広げた。

 

「こんな広い道の真ん中走ってても怒られないんだよ! 最高だよね!!」

 

 まるでゴールスプリントを制したロードレーサーみたいだった。

 

「でも残念ながら瀬上選手、ここで戦線離脱です」

「そうなんだよね……」

「いやー素晴らしいダウンヒルでしたねー」

 

 実況解説のアナウンスを真似れば瀬上はわざとらしく肩を落として、それからまたからからと笑った。その両手はまだハンドルに戻っていない。

 

 やっぱバランス感覚がちゃんとしてる。本当に、なんで自分で選手やらないのか不思議なくらいだ。

 

「あ、でも本当に整備用で私も乗れるように一式持って来ただけだからね。手嶋くんのならいいや勝手に借りちゃえーとか考えてなかったよ」

「ん〜、どうだかな〜」

「ひどい。私、信用されてないじゃん」

「うそうそ。わかってるって」

 

 笑うオレを見て、瀬上は不服そうに睨んで来た。でもすぐに一緒になって笑い出す。

 なんだかすごく気が抜けた。

 

 谷口がインターバルに入った分できたオレとのタイム差と、リアエンドを締め直した時間の分、瀬上は詰めてきたことになる。

 

 もちろん瀬上は千キロ完走が目的ではないし、なるべく早く谷口に自転車を返そうとしているはずだ。本人の言う通り全速力で回してきたんだろうけれど、それでもオレだってそれなりのスピードが出ている。

 

 それに一番はこの下りだ。そこまで距離が開かなかったということは、ブレーキングを最小限にして来たはずだ。人の手ではどうにもできない高速度域への恐怖から、ブレーキを握ってしまうやつが多いのに。

 

 オレは女子のレースについては不勉強だし、瀬上が長距離走った場合にどうなるかはわからない。

 でも基礎的な技術は充分そうだ。愛車のラレーに乗っている時のフォームの綺麗さはその辺のローディーじゃ到底叶わないし、悔しいけどオレだってずっと維持できてるかは怪しい。

 

 ……もしかして瀬上が『やめたこと』って、レース?

 

 そんな考えが浮かぶが、今は訊くタイミングではなかった。

 既にホームストレートに差し掛かり、ここで瀬上は自転車を降りる。第一、今は強化合宿中であって、親睦会とかじゃない。

 この話をするとしたら、また別の機会だ。

 

「──借り物での五キロ、お疲れ」

 

 オレは右手の拳を瀬上の方へそっと向けた。

 瀬上は驚いたような顔をしたが、すぐに理解したようで左の拳をオレの拳にコツンと当てる。

 

「手嶋くんもジャスト百キロお疲れ」

 

 いわゆるフィスト・バンプというやつだ。

 

「このまま走る?」

「ああ。余裕あるうちに距離稼いでおかねーと」

「そっか。千キロ走破、応援してるね。あとこれ監督から」

 

 瀬上は上着のポケットから補給食を取り出した。ゼリータイプを二つだ。

 周回稼ぐために走り続けないといけないのは当然だが、そのためにもここらで何か入れておかないといけない頃合いだった。

 

「サンキュ。じゃ、もう一周行ってくるわ」

 

 受け取った補給食の片方をバックポケットに入れて、もう片方の封を切る。

 

 それを見た瀬上がもう一度、今度は手のひらを上にして差し出して来たから、オレは一瞬迷ってから開けたキャップをその手の中に置いた。

 どうやらその意図で合っていたらしく、瀬上は嬉しそうに頷いた。

 

「自転車気になるところあれば戻って来てね」

 

 瀬上がキャップを握りしめ、その親指をグッと立てた。「健闘を祈る」、ということか。オレも同じようにして返し、ペダルを回した。

 

 ホームストレートの景色はあっという間に後ろへ飛んでいく。道幅は狭くなり、最初の下りへと差し掛かった。

 

 応援してる、か──瀬上は、「無理するな」とか「ちゃんと休め」とかって言わないんだな。オレも千キロ走り切れるって信じてくれてるみたいで心地がいい。

 

 ……でも、あーあ。めんどくせー奴だなオレって。

 

 期待はされたい。そのくせシキバみたいに面と向かって褒めてもらうのは、嬉しいけど受け取れない。買いかぶりすぎだ、まだまだオレは弱い──て思っちまう。

 

 だから、たぶんこれくらいが合ってるんだ。今のオレには。

 

 ありがとな瀬上、足動かなくなるまで走ってみるよ。

 ま、おまえに言ったらまた何のこっちゃって顔すんだろうけどな。

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