Blank Paper 〜凡人サイクリストのオレが天才メカニックに恋してしまった結果〜 作:fuyu_plus
合宿三日目、朝。
枕元に置いた携帯のアラームを止め、そのまま枕に顔を埋めた。
首、背中、腕、腹、腰、それに脚。とにかくいろんな所が地味に痛い。
昨日も寝落ち寸前の状態で、ちゃんとストレッチしてセルフマッサージまでしたはずなんだけど、気休めにしかなってない。
やべ、このまま目ぇ瞑ってたらまた眠りそう。
それだけはダメだ。遅刻したら千キロ走りきれない。観念して飛び起きると、隣で青八木が音も立てずに布団を畳んでいた。
「……おはよ、青八木」
青八木が頷いた。おそらく青八木も今起きたところだと思うが、寝癖のひとつも付いてない。羨ましい限りの髪質だ。
あくびをしながら反対隣を見ると、そこには綺麗に畳まれた布団が置いてあった。洗面所の方から水音がするから、この布団の主である公貴は顔を洗っているはず。
「今日でやっと折り返しかー。残り四四五……」
伸びをしながらぼやいていると、洗い立ての顔に爽やかな笑みを湛えた公貴が戻って来た。
「オレは残り四二〇だ」
「うるせっ」
ドヤ顔とも違うそれは、一周回って嫌味な笑顔だった。公貴の腿のあたりに、全く力を込めていないパンチをお見舞いする。
公貴おまえさ、そんな笑顔でどっか痛いとかまだ眠いとかねーのかよ。さすが体力バカだわ。
昨日も一昨日も、ノルマはちゃんと達成した。最終日に備えて走行距離の貯金もしてある。
だが昨日の夕方から、周回ペースが良くない。
寝れば回復すると言い聞かせた。現に、寝る前に比べたら随分と身体は軽い。昨日の夕方よりはいいペースに戻せるはずだ、けど……。
……いや、やるしかねえよな。今より速くなるためには、まだまだ足りない。
「二人も早く顔洗って来い。朝飯行くぞ」
公貴の言葉に青八木が頷き、タオルを持って奥へ消えていった。
「オレも公貴パパに怒られる前に支度するかー」
まだ寝ていたい気持ちに諦めをつけるために布団を畳む。
窓際に干してあったサイクルジャージをハンガーから下ろす公貴は、オレを振り返るとムスッとした顔で眼鏡のブリッジを押し上げた。
「純太みたいな捻くれた子どもはいらないぞ」
*
食堂に先輩たちが次々に集まってくる。上級生に先を譲り、一年は食事を取る列の最後尾に回った。
ふと窓の方に目をやると、瀬上が主将と何か話していた。
瀬上はこの合宿中、誰よりも遅くまで起きて作業をし、誰よりも早く起きてまた作業をしている。ここにいる全員の自転車を、一人で管理するために。
最終走者は夜の十時くらいまで走っているから、作業のボリュームを考えれば「寝る」と言っても仮眠程度のはずだ。さすがに昨日からは昼間寝ているみたいだけど、ボトル交換が増える時間帯には起きてきて監督と一緒に受け渡しをしてくれている。
そりゃオレらだってニコニコと楽しそうな女の子にボトル交換してもらえる方が嬉しい。けど、瀬上本人は大丈夫なんだろうか?
ふと隣の青八木を見ると、ものすごい量のパンや野菜、そして肉や卵などのタンパク質源を皿に盛っていた。
「青八木って意外と大食いだよな」
元から結構食べる方だなと思っていたけれど、最近はそれが輪を掛けている気がする。だが今の運動量からして、ロードレーサーとしてはこれが正しいよな、とも思う。
「……田所さんみたいに、なりたいから」
青八木は俯いて小さく微笑んだ。
「そうだな」
とはいえ、オレは田所さんや青八木ほど食えるタイプではない。ペースや走行距離に応じて補給食をこまめに取るほうが向いていると思ってる。無理せず自分が思う適正値を皿に取った。
食堂を見渡すと、二年生が使っているテーブルが空いていた。田所さんが一番奥の席で、その隣に巻島さん。田所さんの向かい側には金城さんが座っている。
金城さんの隣は公貴がいいだろう。オレは奥側、巻島さんの隣へ進んだ。オレの後にいた公貴は必然的に金城さんの隣へと流れる。青八木はオレのあとをくっついてきた。
公貴の横が不自然に空くけど、それは青八木が「瀬上の場所」として空けたんだと思う。クラスが一緒の二人は、部活でもよく話しているからだ。
「おはようございます」
隣いいですかと巻島さんに声をかけると「ショ」と返ってきた。
肯定の言葉でも否定の言葉でもないが、拒否の空気もそこにはない。肯定の意として受け取り、巻島さんの隣に座った。
「おう一年。よく眠れたか?」
田所さんは今日もアメリカンサイズのサンドイッチをつくっていた。一体どうやって食うのか、というくらいの分厚さだ。これを残さず全部食べ切ってしまうのだから恐れ入る。
「はい。でもまだ寝足りないです」
「ガハハ! でもま、とりあえず飯はよく食っとけ。じゃなきゃ千キロ走破は無理だからな」
「はい。……痛っ、」
巻島さん越しのオレの背中を叩いて喝を入れる田所さんを見て、金城さんがフッと息を吐くように穏やかに笑った。
巻き込まれて「田所っちやめろっショ」と文句を言う巻島さんも、言葉とは裏腹にどことなく楽しそうだった。
*
「おはようございまーす」
しばらくして、主将との話を終えた瀬上が朝飯を持ってやって来た。空けてあった公貴の隣に座る。テーブルのみんながおはようと返した。
トレーの中身は茶碗一杯のご飯に味噌汁、サラダに焼き鮭と理想的な朝の献立だが、オレたちが食い過ぎるせいでやけに貧相な食事に見えてしまう。
瀬上は割り箸を割り「いただきます」と目を瞑って手を合わせた。
だが、そこから一向に動かない。食前の挨拶にしては長すぎる。
5、6、7秒……いやいや流石におかしいだろ。瀬上が手を合わせるのと同時くらいに青八木が食べ始めたプレーンオムレツなんて、もうすぐなくなるところだ。
「……瀬上、寝てるのか?」
オレの問いかけで、みんなの視線が瀬上に集まった。だがやっぱり瀬上は何も答えないし、動かない。
しばらくしても反応がないから、隣の公貴が肘で瀬上の腕を軽くつついた。
ドクッと心臓が大きく跳ねて、何か嫌な音を立てたような気がした。ほんの一瞬だったが、そのたった一拍が激しく不快だった。
え……、なんかおまえら距離感近くね?
「……いや寝てませんよ! 起きてます!!」
ワンテンポ遅れて瀬上はガバッと顔を上げた。
その宣言はオレにでも公貴にでもなく、空中に投げているように見える。オレの言葉は一応聞こえていたんだろうけど、処理が追いつかないのか返答する先が認識できてない。
本人は認めたくないのかもしれないけど、間違いなく意識が飛んでいた。
「いま完全に目ェ閉じてたショ」
そう指摘する巻島さんは妙に気品ある雰囲気で、体を斜めに傾けつつサラダにオリーブオイルと塩をかけている。その隣の田所さんが豪快に食べるから、際立って優雅に見えるのかもしれない。
「いいえ、これは瞑想です。モーニングルーティーンの一環なんですよ」
答える瀬上は勝ち誇ったような顔で笑う。芝居掛かった語り口調と大袈裟な身振りだ。
「やれやれ巻島さんは。乙女心がわかってないですねぇ」
場がしんと静まり返る。その中で瀬上は1人「あれ、ウケなかった……」と絶望の表情を浮かべていた。
「……乙女心は関係ないっショ」
そんな瀬上をかわいそうに思ったのか、巻島さんが遅れて言う。
たしかに、いつもならそれで笑いが取れたはずだ。でもこの合宿中に瀬上が1人で11台の自転車を管理していることはみんな知っている。
だから当然、笑いなんて起きない。そんな薄情者はここにいない。
「後で仮眠を取るといい。メカニックも体が資本だぞ」
「そうします……」
金城さんに言われて、瀬上は珍しくしゅんとした様子を見せた。
いつも楽しそうで、仕事となれば自信満々な澄まし顔をしている瀬上のこんな顔、初めて見たかもしれない。
力になってやりたい、と思った。だがオレはオレで、やらなきゃいけないことがある。
たぶん、瀬上にとってはインターハイ本番よりも今の方がキツい状況なんだろう。
インターハイに出られるのは、この合宿に参加している人数のおよそ半分。合宿は夜も走るがレースではありえない。今この状況とは、診るべき自転車の台数も、作業に使える時間もまったく違う。
「あ、でも皆さんの自転車はバッチリですから! うとうとしながら作業とか絶対にしてないので!!」
「その心配はしていない。いつも助かってる」
「ありがとうございます金城さん……感激です!」
嬉しそうに表情を輝かせ両手で顔を覆った瀬上に、巻島さんが「またそのまま寝るなよ」と釘を刺した。二人はカンパニョーロ──巻島さんのコンポーネントの話で打ち解けて以来、お互い発言にあまり遠慮がない。後輩という立場である瀬上に度胸がありすぎるというか、なんというか。
その横にいる公貴は、尊敬する金城さんに褒められた瀬上を羨ましそうな顔で見ていた。いや公貴は普段からよく褒められてるだろ。そんな顔すんなよ。
といっても、瀬上も「じゃあこれからすぐ部屋に戻って休みます」とはならないだろう。
きっと全員が出走した後しばらくは休めないだろうから、瀬上はそこまで乗り切らないといけない。
──そういえばここ、置いてあったよな。
まだ朝飯を食べ切っていないのに席を立ったオレを、隣の青八木や巻島さんが怪訝そうな顔で見る。だが二人とも特に何も言わず、オレもすぐに戻りますって顔をして離れた。
*
「はい」
席に戻ってオレは、瀬上の前にそれを差し出した。そして自分は残していたメシを食べ始める。手にとった味噌汁は、少しぬるくなっていた。
「え?」
瀬上はパチパチと瞬きをして、オレとそれとを見比べた。
「コーヒー。そんだけ眠そうだと効くかどうかわかんねーけど」
よかったら飲めば、とオレが差し出した白いマグカップの中にはブラックコーヒーが満ちている。
コーヒーを淹れたのは、前に瀬上が部室で缶コーヒーを呷っているのを見たからだった。六時間目の授業が退屈で眠くなったと言って、眠気覚ましに飲んでいたのを覚えている。
「ありがとう……!」
驚きを浮かべていた瀬上の表情が柔らかく綻ぶ。だがそれはほんの一瞬の出来事で、すぐに曇ってしまった。
「でも部員さんに働かせてしまった……申し訳ない……」
今度はオレが驚く番だった。そりゃ一体どういう意味だ?
ほかのみんなも、口は挟まないものの何事かという顔をしていた。
「部員さん、て。瀬上も部員だろ?」
「いや私はなんというか、出入り業者的な……」
苦笑いで答える瀬上の言葉を聞いて、すぐには言葉が出てこなかった。
なんか、すげー寂しいこと言うな。大会によってはレギュレーションにもメカニックのことは明記されていて、しっかりとチームの一員として扱われるってのに。
まあでも、言いたいことはわからなくもない。瀬上を除けば部員は全員プレイヤー側で、今はマネージャーもいない。瀬上と一番立ち位置が近いのは、たぶんOBの寒咲さんだ。
「オレこういうの割と得意な方なんだ。好きでやっただけだから気にすんなよ」
ようやく出てきた言葉はありきたりで気の利いたものではなかったが、それでも瀬上はまた笑ってくれた。
控えめで、静かで、でも穏やかな笑みだった。
「……そっか。本当に、ありがとう」
「どーいたしまして」
「いただきます」
「熱いから気をつけろよ」
「うん」
瀬上は温度を確かめるように、静かにマグカップを手に取った。
オレが伝えた通り熱かったようで、それから瀬上がコーヒーの一口目を飲む頃には、オレも自分の飯を食べ切るところだった。
「手嶋くん、これすごく美味しい! ありがとう!!」
瀬上が机から身を乗り出す。すごく嬉しそうな顔で、目がキラキラと輝いて見える。窓から差し込む、朝の陽射しのせいかもしれないけど。
なんとなく初めて会った入学式のことを思い出した。あの時の表情に似ていた気がしたからだ。
「褒めすぎ。ただのドリップコーヒーだよ」
だから大したことはない。誰がやったって、ほとんど同じ味になる。そのようになっている。
だが瀬上たちは、どうもそうは思っていないらしい。先輩方も感心したようにオレを見る。
「よかったじゃねえか、瀬上」
「はい。……あ、いくら田所さんでもあげませんよ? 私がもらったものなので」
瀬上は隠すように、マグカップを先輩たちから遠く自分の肩口へと引き寄せた。もちろんこれは冗談ですって顔で。その様子を見て田所さんは笑う。
「別に取らねえよ」
さっき出入り業者なんて発言が出てきたときにはどうしようかと思ったけど、何も問題なさそうじゃん。少しホッとした。
ていうかそうだよな。別に瀬上が部活に馴染めていない様子なんて一度たりとも見かけたことはない。女の子一人なのは心細くもあるだろうけれど、先輩たちからも信頼されているし、大事にされていると思う。
「手嶋、オレにも淹れてくれないか」
そう言ったのは金城さんだった。そして田所さんも「オレも」と続ける。
金城さんが「指示」ではなく「お願い」をするのはなんとなく意外な感じがして、少し驚いた。でもだからこそ、そんな金城さんに任せてもらうのは嬉しい。たまにはこういうのもいいな、なんて思った。
「了解す。……巻島さんもどうです?」
何も言ってこないけど一応聞いておこうと思って声をかけると、巻島さんも頬をかきながら頷いた。
「おう……じゃあ頼むショ」
「はい」
それじゃあ食べ終わった食器を片付けつつ、先輩たちの分を用意しますかね。
トレーを持って立ち上がったところで、隣の青八木から強烈な視線を感じた。
「…………」
無言でオレをじっと見つめる青八木の目が「コーヒー、オレにも」と言っている。
なんだ青八木、おまえもかよ。ったく、しょーがねえなー。
了解だよ、と伝えるためにオレは片目を瞑った。青八木が嬉しそうにコクコクと頷く。
「純太」
今度は斜め向かいに座る公貴の声だ。眼鏡の位置を直しながらオレを呼ぶ。窓から差し込む太陽の光で、そのレンズがキラッと光った。
はいはい、おまえの分もね。わかったわかった。
「オレのはミルクと砂糖も入れてくれ」
「いや注文多いわ!」
大真面目な顔して誰よりも図々しい注文をつけてくる。
それを見た二年の先輩方や青八木、瀬上が声を上げて笑い出した。なかでも「ガハハ!」と笑う田所さんの声は一際大きかった。
それで隣のテーブルにいた3年生たちも、こっちで何が起きているのか気がついたようだ。こちらに背を向ける形になっていた先輩たちも肩から振り向く。
「お、なんか手嶋が美味いコーヒー淹れてくれるってよ。おーい手嶋、こっちにも頼むぞー!」
白岩さんだ。ほかの3年生たちも「頼むな」と言うような表情でオレを見る。
マジかよ。これでオーダーは全部で九件。ブラックコーヒーが八つに、公貴ご所望のカフェオレがひとつ。
たった一杯のコーヒーからここまで増えるとは思わなかった。
「はいただいま~! ……手伝え公貴!」
お気に入りのピザトーストをまだ半分残している公貴。きっと人数分のコーヒーを淹れ終えて戻る頃には冷めちまうだろうけど、容赦はしない。ほら立てよ、と手をクイッと上に向ける。
「なぜオレだけ……」
公貴は不服そうに呟く。この表情を見るのは、始まったばかりの今日すでに二回目だった。さっきサイクルジャージをハンガーから下ろす時もこんな顔をしてた。
「おまえ好みのミルクと砂糖の量知らねーからだよ。周回数オレより稼いでんだからいいだろ」
「あはは! おもしろっ……、これは目が覚めるなあ」
別にオレにも公貴にも笑わせる意図はなかったが、瀬上は楽しそうに笑っていた。
もう一度「行くぞ」と言うと、公貴は渋々と立ち上がる。その隣で瀬上がまた一口コーヒーを飲み、呟いた。
「いい朝だ」
合宿は折り返し地点。蓄積した疲労が重りのようにのしかかり、ここからは更にハードになっていくと予想される。そんな今日は、走り出す前からちょっとした仕事をすることになった。
でも瀬上は目が覚めたみたいだし、同じ条件で同じように苦しいはずのみんなも、なんかちょっと嬉しそうだから、まあいいか。