Blank Paper 〜凡人サイクリストのオレが天才メカニックに恋してしまった結果〜   作:fuyu_plus

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#007

 いよいよ明日、インターハイ広島大会が始まる。

 

 オレと青八木は、メンバーには選ばれなかった。

 仕方ないよな。合宿も途中リタイアで完走できなかった。そんな凡人のオレたちが先輩たちを差し置いてインハイに出るなんてさ。

 

──ゼッケン七三番。明日から三日間、この番号は公貴が背負う。

 

 完走できなかったって意味じゃ公貴もオレたちと一緒だ。けど公貴は完走まであと二〇キロってとこまで来ていたし、膝を痛めさえしなければ難なくクリアしていただろう。

 普段の練習の時からいつもあいつに千切られてばかりのオレとは、持ってるものがそもそも違う。

 

 特例でインハイメンバーに選ばれた公貴は、来年、再来年の総北を引っ張れって、先輩たちから暗にそう言われてるんだ。きっと来年、オレたちの代からキャプテンに選ばれるのは間違いなく公貴だろう。

 

 でも、オレもいつまでもうじうじしているばかりじゃない。サポートチームとして、できることを全力でやる。先輩たちや公貴を、声が枯れるまで応援するつもりだ。

 

 仲間として、友達として、公貴の力になってやりたい。

 

「ねえ知ってる? あきの宮島ってAutumnの宮島って意味じゃないんだよ」

「知ってる」

「うっそだー! 一人くらい勘違いしてた人いるでしょ」

「さすがに高校にまで来てそれはないだろ」

「いや、案外一人だけ反応ない青八木くんが知らな──」

「知ってた」

「……なんだ、つまんない。早く明日にならないかなー」

 

 予備のホイールに空気を入れつつ静かに話を聞いていた青八木は、間髪入れず瀬上の軽口にピシャリと返す。

 チームピットとして間借りしている旅館の倉庫には、瀬上のため息混じりの声が響いて消えた。

 

 瀬上、テンション高けー。

 

 心なしか、いつもよりも口数が多い。高校生にとっての最高のステージレースがそうさせるのか。それともここに並んでいる六台の自転車のせいか。

 

 見慣れたはずの選手たちのバイクだが、中にはいつもと様相の違う物も数台ある。

 練習用の「鉄下駄」なんて呼ばれるような重たいホイールから、軽くて高性能な決戦用ホイールに履き替えていたり、レース用に若干ポジションを変えていたり。もちろん、いつもと変わらないそのままの状態で挑む選手もいる。

 

 そのあたりの調整は学校で済ませてあるから、今瀬上がやっているのは最終チェックだ。サドルの高さや前後位置などが選手の指定している値かどうか、ネジやボルトは緩んでいないか、変速機の調子はどうか……そんな簡単な点検。だが手は抜かない。明日の朝、試走が終わったら選手たちの意見を聞きつつ、要望があればまた同じ工程を踏むだろう。

 

「そんなにそわそわしなくたって、あと四時間すりゃ明日だし寝て起きたら朝だよ」

「え、もう八時? さっき晩ご飯食べたばっかりなのに」

「喋りすぎて手が止まってるんじゃねえの?」

「まさか。この私に限ってそんなことはないよ、天才メカニックだからね」

「それには反論できねーわ」

 

 瀬上がふふんと満足げに笑う。

 さっきはああやって揶揄ったが、瀬上の手付きには迷いがない。喋り倒している割に、いつも通りの素早い作業だった。

 

「それにしても世界遺産に見守られてのスタートっていいよねー。ちょうどスタートの時間、満潮だよ!」

 

 今年のスタート地点は、嚴島(いつくしま)神社や弥山(みせん)を一望できる海沿いの道に設定されている。

 潮位が二五〇センチを超えると神社が海に浮かんで見えるらしいが、明日の出走時刻は満潮の時刻とほぼ重なっていた。

 

 ツール・ド・フランスも潮の満ち引きで姿を変える世界遺産モン・サン・ミッシェルからスタートした年があったし、大会側もそれを狙ってんのかなとか思ったりもする。ちなみに、オレたちの地元千葉に世界遺産はない。

 

「そうそう、それすげーよな。一週間ずれてたら干潮スタートだったらしいじゃん。海からの餞ってやつ? なあ公貴」

「かもしれないな。幸先がいい」

 

 夕飯前に選手たちが使っていた三本ローラーを片付けながら振り返る。その先では公貴が愛車メリダの手入れをしていた。

 それは本来瀬上がやる作業。だからもちろん、瀬上はそれが不満そうだった。

 

「というか古賀くん、なんでここにいるの?」

「なんだ、オレがいちゃ悪いか?」

「悪くはないけど私の仕事は盗らないでほしいかなー。大会の説明会もミーティングも終わったんだから、選手は早く歯磨いて寝なよ」

「いま純太から時間聞いただろ、いくらなんでも早すぎだ。朝飯食いながら寝る瀬上じゃあるまいし」 

「うわっ、それいつまで言うつもり? それに『食いながら』じゃなくて食べる前ですー」

 

 公貴と瀬上、本当に仲いいな。歯磨いて寝ろとか小学生ぶりに聞いた。

 クラスが一緒で、機材オタクなところも同じで。微笑ましい。けどなんか、妬けてくるわ。

 オレと青八木も多少は勉強してるけど、細かい調整のこととかはあんま分かってないから、その辺の話になるとオレらはどうにも入る余地なしって感じ。

 

「本当のところを言うと、ひとりで部屋にいると余計なことばかり考えてしまってな」

 

 オレが折りたたんだ三本ローラーをワゴンに積んで来ようとした時、公貴はそう言って作業の手を止めた。困ったように笑うその表情や語り口調から、それまでとは一転して真面目な話なんだなということが見て取れる。

 

「こうやっておまえたちと一緒にバイクを磨いてた方が落ち着くんだ」

 

 珍しいな、と思った。いつも先輩たちの期待を一身に背負っていて、練習でも余裕でオレを千切って行く公貴がこんなことを言うなんて。

 

 インハイメンバー入りを逃した三年生がいる中で、一年生から唯一、特例措置で選ばれたレギュラー。それが古賀公貴。

 

 けどもしかすると、それは輝かしいばかりじゃないのかもしれない。選ばれた者、期待される者にしかわからない重圧とか、そういうのに苦しめられるものなのかもしれない。

 

「古賀くん…………」

 

 ドラマかなにかみたいに、瀬上はしみじみと公貴の名前を口にする。……かと思ったら、次の瞬間にはオレと青八木の方を見て、ニヤリと笑った。瀬上のこの顔は、冗談を言う時のものだ。

 

「これは早く仕事終えて部屋に戻ってあげないとだねー」

「……待て瀬上、何か勘違いしてないか?」

「え、広い部屋でひとり先に寝るのが寂しくていろいろ考えちゃうんでしょ?」

「違う、そうじゃない」

「えー」

「ははっ、じゃあこれさっさと終わらせようぜ青八木。公貴が寝不足で倒れたら、オレらが先輩たちからどやされるかも」

 

 青八木も珍しく、いたずらが成功した子どもみたいな顔でコクリと頷いた。

 反対に公貴の顔からは笑みが消える。苦々しげに眼鏡のブリッジを押し上げて、レンズの奥の瞳は鋭く細められていた。

 

「おまえたち……覚えておけ、通常練習に戻ったら引きずり回してやる」

「お、インハイ経験者の走りを間近で見られんだな。いい勉強になりそうだわ」

「よかったー! 私には無害だ」

「瀬上もだ。ラレーでついて来い、女子の部で優勝できるように鍛えてやる」

「絶対に嫌……すぐ千切られるに決まってる……」

 

 

 インターハイの第二ステージ、ゴールまで残り二キロというところでエースの金城さんが落車した。

 

 単なる事故での落車ではなく、ほかの選手に引き倒されてのことだった。

 その相手は王者箱学の、金城さんと同じ二年生だったそうだ。

 

「古賀くん、あとは私がやる。……任せて」

 

 瀬上は公貴が持っているレンチに手を伸ばす。それは、渡せ、という意味だ。

 静かに、優しく、それでいて有無を言わせないような雰囲気があった。

 

 公貴は何も言わずにレンチを瀬上に預け、しばらくしてから自分の荷物を持ってテントを出て行った。その足取りが重そうなのはレースの疲れというよりも、金城さんの身を案じてのことだろう。

 

 それからは誰ともなく動き始めて、三人で撤収準備を始めた。

 

 前もって決めていた手筈通りに、オレと青八木で備品を、瀬上はそれぞれの機材をワゴンに運んで行く。

 どんな話題も、口にすることは躊躇われた。

 

 テントの内と外を行き来するたび、他校の選手やスタッフたちが讃え合ったり悔しがったりする姿が見える。けどそれはどれも、総北にはまるで関係のない、どこか遠い所の風景のように映った。

 

 スタッフのオレでさえこんな気持ちなのに、目標に向かって身を削るような走りをした選手たちの心境は、どれほどのものか。考えるほど、彼らにかけるべき言葉は見つからない。存在しない、というのが正しいように思える。

 

 最後の荷物をワゴンに積もうとした時、ポケットの中の携帯が鳴った。

 

 電話の相手が誰だかは、画面を見なくてもわかる。

 この大会でオレは連絡係を任されているから、金城さんの病院に付き添って行った先輩たちのうちの誰かに違いなかった。みんなもそれをわかっていて、オレを振り返る。

 

 良い知らせか、悪い知らせか。それがわからない少しの恐怖で、またこの場は緊張で包まれた。

 

 着信の主は、やはり主将だった。だが実際に電話に出てみれば、その話し声は明るい。

 主将はオレたちを労った後、金城さんの診察が終わったと話した。詳細を聞いて、悪い内容ではなくホッとする。

 

 レースの結果は変わらないし、エースを失ったという事実もそのままだ。それでも、絶望の底にいた総北に、一気に光が射したような気がした。

 

 通話を続けるオレを見守る先輩たちや青八木、公貴に「大丈夫です」という意味を込めて頷く。それでみんなも内容を察したらしい。張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。

 

「主将からでした。金城さん、安静にしていれば秋までには競技復帰できると診断されたそうです」

「本当か!?」

「よかった……!」

「ハア…………、心臓止まるかと思ったショ」

「これでひとまずは安心だな……起きたことは変わらねえが、金城が競技続けられるって聞けただけでもよかったよ」

 

 期待していたことが事実であると確定すると、みんなの顔から不安の色が遠退いていく。やがて安堵の表情に代わり、けれどもどうしたってやりきれない気持ちは変わらない。

 田所さんの言葉には、みんなの気持ちが集約されているような気がした。

 

「あと残ってるのは、その金城のバイクか」

 

 田所さんがワゴンの荷台やルーフを見ながら言う。あと積んでいないのは、本当にそれだけだ。

 

「瀬上だな……大丈夫か? 落ち着いてるように見えたけど、あいつだって相当堪えてるショ」

「オレらの自転車のこと、自分の飼い犬か何かみたいに扱ってるもんな、あいつは……」

 

 瀬上はどうしたんだろう。さっきまで、きびきび動いて自転車を運んでいたのに。

 金城さんの自転車は公貴が直そうとパーツを外していたから、それで手間取っているんだろうか。それとも、ほかに理由があるのか。

 

「……オレ、瀬上を呼んで来ます。今の話も伝えてやりたいし」

「ああ……頼んだぞ手嶋」

「はい」

 

 総北のテントに戻ると、入り口のシートが閉まっていた。オレが最後の荷物を持って出た時は開いていたし、青八木もわざわざ閉めてはいないだろう。

 

「瀬上、準備終わりそうか?」

 

 声をかけながらシートをめくる。

 薄暗い中、左の隅の方に瀬上はいた。

 

 ひしゃげた金城さんのバイクの前で膝をつき、じっとそれを見つめている。作業の手は完全に止まっていた。

 

 こういう風景を、映画かなんかで見たことがある。

 その姿はまるで、親しい相手の遺体を見つけてしまった主人公のようだった。

 

「ごめん。すぐ準備するね」

 

 瀬上は振り返らなかった。

 

「これ見てたら、いろんなこと考えちゃって」

 

 瀬上の隣に、同じように膝をつく。今は、瀬上の顔を見てはいけないような気がした。だから向かいでも斜めでもなく、隣にした。

 

 大きく曲がったハンドル。リアディレイラーに繋がるシフトケーブルは千切れて垂れ下がっている。

 

 オレもレースに出る中で、何度か落車の現場は見てきた。自分が集団落車に巻き込まれたこともある。

 だからこの落車の衝撃がどれほどのものだったかは、簡単に想像がついた。

 

 ゴール前で逃げていた状況での事故。登りが終わった直後で起きたのが、まだ救いだったかもしれない。これがもし下りのど真ん中だったらと思うとゾッとする。

 

「瀬上、やっぱりこのフレームって──」

「うん。シフターとホイールだけじゃない……クラック入ってる。修理で済むか……フレーム交換した方が早いか……」

 

 カチャカチャと金属音が聞こえて、瀬上の手元だけを見た。

 

 瀬上は公貴が外したペダルやクランクを、一つひとつ丁寧に拾い上げて別々の袋に入れていく。とても大切なものをしまうみたいに。

 実際に、そういうものなんだろう。彼女の目にはきっと、単なる「替えの利くパーツ」としては写っていないんだ。

 

「こんなになるほどの落車って、どんなものだったのかなって考えると……」

 

 視界の端で、瀬上がオレの方を向くのが見えた。

 つられてそっちを見ると、とても不安そうな顔をした瀬上がそこにいた。

 

「大丈夫だよね? 金城さん、また競技に戻れるよね?」

 

 お願いだからそうだと言ってくれ、とでも言われているみたいだった。

 

「ああ、大丈夫だ。さっき主将から電話あったんだよ。安静にしていれば秋までに競技復帰は十分可能だ、て」

 

 気休めの言葉じゃない。

 いつもとはまるで違う、あまりにも頼りなさげな後ろ姿を見て、忘れていたみたいだ。先にこれを教えて、早く安心させてやるべきだった。

 

 ごめんな、瀬上。

 

「よかった……本当によかった」

 

 瀬上は首にかけたタオルで目のあたりを拭った。

 それは額から落ちる汗を拭うためだったのかもしれないし、涙を拭くためだったのかもしれない。本当のところはわからない。

 

「瀬上はそっち持ってってくれ。フレームとリアホイールはオレが持ってく」

「うん」

 

 破損度合いがひどいものは、なるべく瀬上に持たせたくない。トップチューブを右肩に引っ掛けて車体を持ち上げ、空いている左手でスポークの折れたリアホイールを掴む。

 

 出走前に瀬上や青八木と一緒に磨き上げた金城さんのフレームには、今見える範囲だけでも数えきれないほどの傷がついていた。どれも今朝まではなかったものだ。

 

 ホイールやハンドルを外したロードバイクは、羽のように軽い。

 サイクリストは、こんなにも頼りなく危うい物に命を預けている。あまりの軽さに反比例して、そのことを思い知らされるようだった。

 

──危険性を認識していればこそ、ここぞって時に走れなくなる、踏めなくなるという局面が、レースにはある。勝ちたい、1秒でも速く前に進みたいという想いが強いと、そんな当たり前のことさえ忘れてしまう。

 

 だからその事実を、重さを、誰よりも受け止めているのはきっとオレたち競技者ではない。メカニックだ。

 総北自転車競技部は、それをこの小さな双肩に担われている。

 

 空っぽになったテントの外に出た。太陽は暴力的なまでの熱を伴い、ギラギラと強い光を放っている。

 

 ワゴンまでの道のりを、瀬上と二人並んで歩いた。

 オレが担いでいる自転車や瀬上が抱えるスポークの曲がったホイールを見て、すれ違う人たちは痛ましげな顔をする。

 

 近くには瀬上が興味を持ちそうな珍しい機材があちこちにあるのに、瀬上はそのどれにも無感動で、ただ暗く思い詰めたような顔をして俯き加減に歩いていた。

 

「瀬上」

「ん」

「瀬上のせいじゃねーからな」

 

 オレは視線をまっすぐ前に戻し、それから言った。隣で瀬上が、何かに弾かれたように顔を上げる。

 

 先輩たちや公貴には何も言えなかったけど、瀬上にかけるべき言葉はこれだと思った。むしろ、今ここで言っておかなきゃいけないとさえ思った。

 

 そうでないと、そのうち誰も知らないところで崩れてしまいそうに見えたからだ。

 

「……当然だよ。あの金髪ヤローのせいだ。審判も肝心な時にいなくて全っ然役に立たないし」

 

 瀬上からこんな口汚い言葉を聞くのは初めてだ。

 今にも舌打ちしそうな口調。でも同時に、その声は少し震えてもいる。

 

「あと、いつもありがとな。オレらが元気に走り回ってられんのは、きっと天才メカニック様が毎日診ててくれてるおかげだよ」

「……そうでしょ」

 

 その言葉の後はいつもみたいに、ふふんと澄まし顔をするんだと思ってた。

 

「もっと褒めて」

「マジで?」

 

 なのに瀬上の口から出たのは、思いも寄らない言葉だった。まさかそんな返しが来るとは思ってなかった。

 

 もしかすると、思った以上にやられているのかもしれない。

 

「じゃあ……ミリ単位の調整が必要なことを難なくこなすところ。部員みんなから信頼されてるところ。マジですげーよ。瀬上がどう考えてるかは別として、その根底にあるのはきっと努力だ。そう考えると『天才』って言葉で終わらせんのは失礼なのかもって思うよな。それから、いつも楽しそ──」

 

 スンと鼻をすする音が聞こえたような気がして、オレは瀬上の方を見た。見てしまった。

 

 瀬上はそんな状態なのに、何を言うでもないし、歩みを止めようともしない。

 パーツとホイールで両手が塞がっているからなのか、それを拭おうともしない。

 きゅっと口を結び、しっかり両目で前を見て、しかしその輪郭は滲んでいる。

 

「…………お客様、お口に合いませんでしたか?」

 

 泣いていた。瀬上は。

 

「オーダーと……、違うやつが出てきたので。青八木料理長に、……言い付けるっ……」

「ありゃま、作戦失敗か。オレとしては栄養満点のスペシャルコースを出したつもりだったんだけどな」

 

 オレたちが部室でよくやってるテキトーなやりとり。でもさすがに、それ以上は返して来ない。

 

 というか、オレが声をかけてしまったせいで収拾がつかなくなっちまったと言うのが正しいか。

 

 きっと、褒めてと言われたオレが話している間からもう、泣いていたんだと思う。

 それまで静かに綺麗に涙を流していたはずが、たぶんオレに返事をしようとしたのをきっかけに、どうにも嗚咽が治らなくなったんじゃないか。

 

 ゴールした選手たちに渡したタオルの余りが、サコッシュの中に入ってる。左手に持ったホイールを自分の足に立てかけて、ふかふかの真っ白いフェイスタオルを一枚取り出した。

 

「にしても暑いよな、今日は。これ被ってろよ」

 

 タオルを瀬上の頭にひょいと被せる。

 

 泣いてるところを見られて嬉しい人間なんて、たぶんそんなにいない。壊れた自転車を運ぶオレたちはただでさえ目立つ。

 でもこれで周りからは、日除けにタオルを被って歩いている一スタッフにしか見えないだろう。

 

「手嶋くん、……ごめん」

 

 瀬上はそう言って、オレが被せたタオルがかかる肩口に目元を押し当てた。

 

──オレもあんま人のこと言えねーけど、瀬上はこういう言葉選びが下手みたいだ。

 

「違うな。こういう時は『ありがとう』っていうんだ」

 

 オレは『ごめん』よりも『ありがとう』と言われる方が嬉しい。

 前者はマイナスをゼロに戻すものだけど、後者はプラスにできる言葉だと思ってる。

 

 ……つっても、いざ自分がそういう場面に出くわすと、つい「悪いな」とか言っちまうんだけどな。

 

「うん。……ありがとう」

「そうそう」

 

 瀬上は素直に頷いた。その声はか細くて、周りの喧騒に消えてしまいそうだった。

 

 左足に立てかけていたリアホイールをもう一度掴む。

 

 今日のことは、本当にやりきれない思いが募るばかりだ。

 金城さんは負わなくて良かったはずの怪我を負い、総北はエースを失って、第二ステージの今日で実質レースは終わってしまった。

 

 ボロボロだ。チームはもうプラン通りには機能しない。

 

 それでも、光は射している。

 

「大丈夫だ。金城さんはちゃんと戻ってくる」

「うん」

「荷物もいっぱいだしさ、ゆっくり歩こうぜ」

 

 この自転車の帰りを、みんなが待っている。

 でも今は、少しくらいスピードを緩めたっていいだろう。田所さんと巻島さんも、こうなることをある程度は予想していただろうから。

 

「手嶋くん」

「ん?」

 

 自分を呼ぶ声の方へ顔を向ける。タオルの陰から覗くその目にはまだ涙が浮かんでいて、悲しげな光を湛えていた。

 でも同時に、強い光が戻りつつあるようにも見えた。

 

「本当に、ありがとう。いろいろと」

「……どーいたしまして」

 

 オレが答えると、瀬上は泣き笑いを浮かべた。少し落ち着いてきたのか、綺麗に笑えている。

 

 瀬上と知り合って、大体四ヶ月。

 その間、部活でほぼ毎日顔を合わせていたはずだけど、オレは今日初めて瀬上凛の素顔を見たような気がした。

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