Blank Paper 〜凡人サイクリストのオレが天才メカニックに恋してしまった結果〜 作:fuyu_plus
公貴と言い争いになってしまった。空になった洗濯かごを運んで廊下を歩きながら、さっきまでのことを思い出す。
金城さんの代わりにエースとして走ると言うあいつを止めたけど、オレの話なんか聞きやしない。総合優勝は無理でも、少しでもいい順位まで先輩たちを連れて行く。そう宣言してる。公貴はそんな目をしていた。
王者と呼ばれる者たちにあんな形でチームを壊されて悔しい気持ちも、今年で引退する三年生のために頑張りたいって気持ちも、間違っているとは思わない。それはわかる。けど、あの脚でやるべきことじゃないはずだ。箱根駅伝みたいに総合上位に入ったからといってシード権を得られるわけでもないのだから、無理をしてまでやる意味は薄い。
オレは公貴が羨ましい。だからこそ思う。あんなに恵まれた才能ってやつを持っているあいつが、たった一回のレースで無茶をしたばっかりに潰れるようなことがあってはならない。状況が変わった今、あいつの活躍の場はこのインターハイじゃない。来年や再来年のインターハイなんだ、て。
金城さんたちが言っていたのも、そういう意味だ。
──なのに、なんだあいつ。オレの話はともかく先輩の指示すら守る気ねえとか。金城さんを尊敬してるってんなら、金城さんの指示くらい聞けよな。
吐き出すこともできない苛立ちを抱えたまま下の方を向いて進んでいると、廊下の先に人影が見えた。ハッとして顔を上げるとそこには、主将がいた。
「お疲れ様です」
「手嶋か、お疲れ。作業は順調か?」
「はい、問題ありません。……でも、別件で……古賀のことなんですけど」
「古賀のこと?」
明日のゴールは山を登り切った後、二〇キロほどの平坦が続いた先にある。そういう道での勝負ならば田所さんのようなピュアスプリンターに分があるが、その手前にある山の存在を考えれば状況は変わってくるだろう。山で生き残れるオールラウンダー、もしくは登れるスプリンターで勝負すべき局面だ。
明日の総北でそれに該当するのが唯一、公貴だ。山は巻島さんが引いてくれるにしても、その先のゴール手前までアシストできるような選手はいないし、公貴の足の具合もある。
だから先輩たちは、このレースを「棄てる」ことにした。「全員無事にゴールをしろ」というのが主将が出したオーダーだった。だけど。
「明日のオーダーのことはわかってます。でも……唯一ゴールを狙えるのが自分だって状況で、古賀が無茶をしないかと思って……」
「……」
「オレにはボトルを渡すくらいしかできません。だから……代わりに気にかけてやってくれませんか」
お願いします、と頭を下げる。これが正解かどうかはさておき、公貴自身が語ったことには触れなかった。
さっきまでバトってた相手のために頭を下げるとか、自分でも笑える。でも本当に、もうこのまま何事もなく終わって欲しい。このレースで引退になってしまう主将たちには申し訳ないけれど。
「……わかった、注意しておこう。古賀は、金城の恩に報いたいという気持ちも強いだろうからな……」
主将は静かに頷いた。
本来、強くて厳格な人だ。けど今日は、さすがに雰囲気が違う。弱々しいというわけではないけれど、いつもよりは纏う空気が柔らかいような気がする。
「配慮ありがとう。うちは後輩たちが優秀で助かってるよ。こっちが学ぶことばかりで、あんまり面倒も見てやれなかった」
「……強い人たちばかりなので、オレもいつも刺激もらってます」
「自分は違うみたいな言い方するけどなあ、オレは今おまえを褒めたつもりなんだぞ、手嶋。今日だっておまえや青八木のサポートがなけりゃ、オレたちはゴールできてない」
「あ……ありがとうございます。でも誰でもできることですし。オレたちも一応、チームの一員ですから、当然ですよ」
感謝してもらえるのは嬉しい。だけど、どうせなら走りで褒めてもらいたかった……なんて。ほんとオレって捻くれてんなあ。
「手嶋」
「はい」
主将が眉を下げて穏やかに笑う。
「おまえは人当たりがいいし、気遣いもできる。同級生から慕われることも多いだろう」
「え……?」
なに、聞き間違い? なんの脈絡もなかったし、突然すぎて半分、頭が追いついていない。オレ、今日だけで向こう一年分くらい褒められんのかな。
「いや、そんなことないですよ。どちらかといえば、いじられる方ですし」
「まあいいから聞け。先輩の言葉を遮るな」
そう言われて口を閉じる。でも主将の言葉からは、やはり厳しさは感じない。どちらかと言えば優しく諭すような口調だ。
「古賀も青八木も瀬上も、みんな真っ直ぐでいいやつだ。だけど、どいつもこいつも一人で考え込む所がある。そしてそれをあまり話さない。でもきっとおまえは、それに気が付いてやれるだろう。あいつらから自然と話してもらえるようになるだろう。──だからその時は、声をかけてやってくれ。一緒にいてやるだけでもいい。きっとそれだけで三人は救われる」
「──そう言ってもらえるのはありがたいですけど、買い被りすぎですよ。……あいつらみんな強いですし、オレが気が付ける保証なんてないです」
「どうだかな。……まあ、心の片隅にでも置いといてくれ」
「……はい」
「と、そうだ。これを瀬上に渡してきてくれ。明日に向けての整備オーダーだ」
主将から手渡されたのはメモだった。ちらりと文面を見ると、そこには自転車のパーツ変更に関する指示が書いてある。
「わかりました。すぐに渡しに行きます」
「ああ。引き続きよろしく頼む」
「はい。……お疲れ様です」
主将はすっと手をあげて、三年部屋の方へ歩いて行った。
──キャプテン。そんなこと言われたって、正直オレは、オレのことだけで精一杯です。
来年のインハイはオレも出たい。だけど今の成績じゃ足りない。一人で闘うには、ここらが限界かなって思うこともある。
だからそんな、人を気にかけてやる余裕なんて、オレには……。
*
今日はチームピットになるような場所が借りられず、メカニックの作業場は旅館の玄関先になっている。
瀬上の作業場所へと向かったオレは、その途中の廊下で足を止めていた。そこには先客がいたからだ。
「瀬上もオレを止めるか。無理だって」
純太には止められた、とその先客──公貴は言う。玄関の上がりに腰掛けて、こちらに大きな背中を向けていた。
思わぬところで自分の名前が出て、嫌な汗が出てくる。
だったらこんな所で隠れてないで出直せばいいのに、足が動かない。出直すとなると、自分の仕事をやってるうちにメモのことなんか忘れて結局渡せなくなりそうで……っていうのは建前だよな。二人がどんな話をするのか気になる。これが本音だ。
「止めないよ。私はメカニックだ。その辺りは管轄外」
瀬上の声。敷居のこちら側にいる公貴の声に比べて少し聞き取りにくくはあった。けどそのトーンから、困った顔してんだろうなってのはなんとなくわかる。
「でもまあ、友達として言うなら……怪我しないで、自転車も壊さないでね。これ以上は見たくないよ」
「大丈夫だ。キツい局面こそ集中力には自信がある。……うまくやってやるさ」
その言葉は瀬上に言っているというよりも、公貴が自分自身に言い聞かせているもののように聞こえる。さっきオレと青八木に言ったのと同じ。これは相談とかじゃなく、宣誓だ。
「次のレースのこととか、自分の体調とか、いろんなことを考えてね。それからちゃんとみんなに相談して、その上で最後は、古賀くんが自分のやりたいようにやるしかないと思う」
「……参考にさせてもらうよ」
そこで二人の会話が途切れる。静かな空間に、瀬上がチェーンクリーナーか何かを吹き付けている音が響いた。
悪い雰囲気ではない。でも穏やかとも言えないような、なんとも言えない空気。それを破ったのは瀬上だった。
「それにしても堂々とチームオーダー破る宣言は感心しないなあ。そういうのはうまくやってよね、私らが先輩にチクったら一発アウトなのわかってる?」
ゼッケン剥がされちゃうよ、といたずらっぽく瀬上が笑う。公貴もそれに釣られたのか、ふっと息をつくように笑った。
「それもそうだな」
「ひとつ貸しだからね」
「そりゃあ後が恐ろしい」
二人はどんな顔で話してるんだろう。ちらっと見てみようかと思ったところで、玄関の上がりに座っていた公貴が立ち上がる音がした。
……やっべ、公貴がこっちに来る。
「すまない瀬上、作業の邪魔したな。あとは頼む」
「はーい」
足音はどんどんと近付いて来ている。どんな顔して会えばいいんだよ。
とりあえず、今さっきここに来たというような、なんでもないって顔をする。だけどさっき言い合ったことと、ここで盗み聞きしていたのが後ろめたくて、うまくそういう顔が出来たかどうかはわからない。
公貴が角を曲がって来て、その先にいたオレと目が合った。一瞬驚いたような顔をして、それからすぐに目を逸らされる。
オレがいるとは思ってなかった、て顔だった。聞かれてたとまでは思ってないかもしれないけど、まあそうだよな。オレが近くにいるとわかっていたら、公貴だってあんな話、途中でやめていただろう。
なんて声をかけようかと迷っているうちに、公貴はばつが悪そうな顔でオレの横を通り抜けて行った。もっとうまくやりようがあったのかもしれないけど、今のオレには思いつきそうにない。
──でも明日のレースが無事に終われば、きっとまた普通に話せるようになるよな。
廊下の奥に消えて言った公貴の背中を見送って、玄関の先で巻島さんのバイクを洗う瀬上の方へ向かう。
「瀬上」
「手嶋くん。洗濯物もう終わったの?」
入り口に付けられた照明が、ちょうどスポットライトのように瀬上とバイクスタンドを照らしている。とっくに日が沈んで暗い中で、そこだけが真昼のように明るかった。
昼間のしおらしさはもうない。バイクを診ながら笑う、いつもの瀬上に戻っていた。やっぱりこの顔が一番瀬上らしいって気はする。
「まだ。あと二回は洗濯機回す」
「お互い忙しいね」
「そうだな。……これ、主将から」
預かってきたメモを瀬上に手渡す。
瀬上は右手の耐油グローブを外し、その手でメモを受け取った。中身にさらっと目を通して、なるほどと呟いて何度か頷いてみせる。
「ブレーキはウェットコンディションに強いタイプに……ディープホイールやめてロープロファイルに交換か。後半は雨の区間があるかもって予報だし、明日は横風区間も長くなりそうだもんね……納得の組み合わせ。ありがと手嶋くん」
お互い仕事頑張ろうねと言って瀬上はメモを胸ポケットにしまった。そして目線を手元に落とし、また手袋をはめてから、カシャカシャと音を立ててチェーン清掃を再開する。
「……なあ、瀬上」
「うん?」
「今の……公貴と話してたの、ちょっと聞こえちゃったんだけどさ。止めないのか?」
何が「聞こえちゃった」だよ、「聞いてた」の間違いだろ。しかも「ちょっと」て。ありゃ「かなり」の領域だわ。盗み聞きしておきながら、ほんと自分に呆れる。
「二人は仲良いし、瀬上の言うことなら公貴だってちょっとは耳貸したんじゃないの……て思ったんだけど」
ロードレースはチームスポーツだ。ましてやインターハイは全国区。高校の頂点を決めようという大会で、チームの助けなしに戦って勝てるほど甘くはないだろう。それはレース観戦好きの瀬上もよくわかっているはず。怪我のことを抜きにしても、公貴の勝ち目が薄いのは明白だ。
それについて尋ねると、瀬上は小さく息をついた。伏し目がちに笑って「そうだね」と言う。作業の手は止めなかった。
「……古賀くんの膝のこと考えたら、止めるべきだったのかもしれないけど。でもあの顔、もう決めましたって感じに見えたんだよね。何言われたって自分の考えは曲げないって言われてるみたいで」
そうだ。オレの話はおろか、先輩のアドバイスすら一切聞き入れる気なんてなさそうだった。あいつが最も尊敬しているであろう金城さんの言葉さえも、今の公貴には届いてなかった。
「ああいう時って周りが何言ってもダメでしょ。むしろ止めようとすると逆に『絶対やってやる』ってなっちゃいそうだし。だから、いろんなことを考えて、相談して、その上で最後は自分で決めてって言った」
そう言ってから、瀬上はそっとため息をついた。
なるほど、そういう考え方もあるか。オレが止めようとして言い争いになってしまったみたいになるから。
逆にここで瀬上が公貴の考えを肯定するでも否定するでもなかったのは、よかったのかもしれない。ここでまた否定されていたら、今度こそ公貴の中で決意が固まってしまったかもしれないから。
「……自分で決めろって、無責任な言い方だよね。でも自分で決めてやったことと、やらされたって意識でやったのとでは、後が全然違うと思うんだ」
「いや、無責任なんかじゃねーよ。自分のことは自分で決めるべきだ、それは間違っちゃいないと思う」
「うん……」
「けど公貴は……たぶん先輩たちに相談する気はないんだと思う。絶対に止められんの、わかってるから」
「そもそも先輩に相談する気があったら、私たちの所に来てないか……」
瀬上の言葉に、オレは頷いた。
「一応、主将には気にかけてやって下さいって言っておいたけど……まあオレが言わなくても、きっとあの人たちの方がわかってるよな。一緒にインハイ、走ってんだからな……」
「もちろん本当に逃げ切って、古賀くんが総合優勝取っちゃう可能性はゼロではないけれど……もうみんな、怪我しないで帰ってきてくれれば……順位なんてこの際、何でもいいのになあ……」
どこかここじゃない遠くを見るようなぼんやりとした目線で、瀬上はぽつりと零した。作業の手も、いつの間にか止まっている。
それから少しして、瀬上はハッとしたように頭を振った。
「……と、私は思っちゃう。やっぱりレーサーとメカニックとでは、感覚が違うんだろうね。ごめんね」
その「ごめんね」は、弱気で、とか、諦めるようなことを言って、とか。そういう意味だろう。瀬上の目に、寂しさのようなものが見えた気がした。
合宿で言っていた「出入り業者」という言葉を思い出す。聞いた時は、なんでそんな発想を、と思った。けど今、その理由がなんとなくわかった気がする。あの発言はこういうところから来るものなのかもしれない。
「でもそれは」
もしそうなんだったら、瀬上は大きな勘違いをしている。
「新人戦のこととか、来年のこととか。明日よりも可能性が高い、先々のレースでの勝利を考えてのことだろ? だったらやっぱ、瀬上はチームと同じ方向を向いてるってことだと思う。ミーティングで金城さんたちが言ってたのは、そういうことだよ」
おそらく瀬上にとって「勝利」は二の次で、「安全」にレースが終わることに彼女は最大の価値を見出している。もちろん県予選の時みたいに勝てば心底喜ぶけど、まず前提はそこなんだろう。一方で、選手は多少の危険を冒してでも「勝利」を選ぶ。
瀬上がそこに隔たりを感じているのだとすれば、そんなのは当たり前だし、メカニックとしてはきっとそれが正しい。
もっと言えば、選手が危険に飛び込んでいけるのは、そのバイクが確実に自分の制御下にあると確信しているからだ。つまりは選手自身が自分の技術を信じていることのほかに、メカニックの瀬上や寒咲さんが信頼されていなければ、それはできない。
そこまでは語らなかったが、瀬上にその半分か三分の一くらいは伝わったのかもしれない。少し落ち込んだようだった瀬上は、驚いたように何度か瞬きした後、破顔する。
「……今日は手嶋くんに教えてもらってばっかりだね」
「授業料は安くしとくぜ? 友達価格に」
片目を瞑って答えると、瀬上はノリ良く応えた。
「なるほど? そこへ更に部活割は適用されますか?」
「あいにくですが、他の割引との併用は不可となっております」
「えー、ケチだなー」
「ケチってひどいな、傷つくわ。泣くぞ」
「いいよ、私も手嶋くんにタオル貸してあげるね。乾いた洗濯物の山の中から取ったのを」
瀬上はタオルをつまむようなジェスチャーをした。
昼間のあれは、ネタにすることにしたらしい。尤もそれは「もうバレてる手嶋との間でだけは」という話かもしれないから、少なくともオレはほかのところで出すつもりはない。
「それもう一度洗濯するの誰だと思ってんだよ」
「私じゃないのは確か」
「誰かこのメカニックを止めてくれ~」
「あははっ! はー、手嶋くんほんと面白いね。元気出てくる」
特段面白いことを言ったつもりはないが、ケラケラ笑っている瀬上を見ていると、話してよかったなと思う。話のきっかけになったのが盗み聞きだったてのは複雑だけど。
「よーし、最後までしっかり仕事しよう!」
ウエスでチェーンを拭きながら、フレーム越しに瀬上が笑った。チェーンの汚れが落ちるのと一緒に、ここにあった重たい空気もいつの間にかなくなっている。
「ありがとうねっ」
眩しいまでの笑みだった。
「今日はそれよく聞くなー。これに免じて授業料はタダにしとくよ」
「本当に? やったね」
「ま、何もしてねーんだけどな。オレは」
そう、特別なことは何もしていないし、言ってもいない。ただ思ったことを、伝えようと思ったことを伝えたまでだ。そこから瀬上が、自分で何か拾い上げてくれるものがあっただけで。
主将はああ言ってくれるけど、それはオレがすごいわけでもなんでもなくて、ちょっとしたところから新しいものを見つけられる瀬上たちがすごいだけなんだ。
「……ところで、戻らなくて大丈夫? 洗濯終わらなくならない?」
「やべ、話しすぎた。すまねえ青八木……!」