Blank Paper 〜凡人サイクリストのオレが天才メカニックに恋してしまった結果〜   作:fuyu_plus

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#009

 夏休みは終わり、九月を迎えた。

 

 総北はこの夏のインターハイを総合十八位で終えた。

 その記録を出したのは公貴じゃない。エースとして走ると言っていた公貴は、途中で落車しDNF(リタイア)……怪我の状態は悪く、金城さんよりも更に長い治療期間が必要で、来年の夏は厳しい──らしい。今日も通院で、部活には来ない。

 

 インターハイさえ終われば、また自然と話せるようになると思っていた。

 だがあんな結果になり、結局オレは公貴にかける言葉が思い付かず、公貴がオレに話しかけてくることもなく、話せないままになっている。

 

 三年の先輩たちは部活を引退し、新しい主将には金城さんが選ばれた。怪我の治療は今も続いているが、痛みも取れて完治も見えてきたから、少しなら自転車に乗ってもいいと言われているそうだ。

 

 オレは青八木とチームを組んで、来年のインターハイを目指すことにした。今は新人戦で活躍して少しでもあの舞台に近付こうと、日々練習を積み重ねている。

 

 そんな風に時は過ぎ、オレはついこの間、十六回目の誕生日を迎えた。

 

 部員一同から、と貰ったプレゼントはデュラエースのチェーンだったが、タイミングでないこともあり、まだ交換せずに新人戦シーズンに向けて取っておいてある。

 

 入学前は、十六歳になる頃にはバイトで稼いだ金も貯まり始めてて、彼女がいたりもすんのかなとか思ってた。けど現実ってやつは、やっぱり想像通りにいかないもんだ。

 去年の夏と同じ。オレは今も自転車に乗っていて、彼女もいない。

 

 だけど、すげー充実してる。目標を共有できる青八木がいて、田所さんというフィジカルもメンタルも強い師匠がいて、参考にするのは難しくてもとんでもなく速いクライマーの巻島さんがいる。部を率いるのは、エースとしてもキャプテンとしても理想的な人柄の金城さん。機材のことは寒咲さんと瀬上がすぐそばで診ていてくれて、学校は激坂の上に建っている。

 

 ロードレースやるのにこれ以上の環境があるか? 箱根学園なんて私立であの土地にあるんだから相当なものだろうけど、総北だって十分すげーとオレは思う。

 

 競技は楽しいだけじゃやってられない、悩むこともたくさんある。でもやっぱりオレは、自転車が好きだ。

 

「暑い……部室にもクーラーつかないかなあ」

 

 隣を歩く瀬上がぼやく。高い位置から照りつける太陽を嫌うように、眩しそうに目を細めていた。

 その両手を塞いでいるのは、監督の所に届いていた補給食が詰まった小さめの段ボール。オレと青八木が抱えて歩いているのは、同じく監督から引き取ったドリンクの粉だ。

 

「それいいな、練習終わったらキンキンに冷えた部室が待ってるとか最高にやる気出る」

「でしょ? 電力がどうの〜とかいうなら、ローラー台に発電機つけてさ……」

「それ得するの瀬上だけじゃね?」

「いやいや。公共の福祉ですよ」

「またこのメカニック様は適当なこと言ってる。きっとオレらのこと馬車馬のように使う気だぜ、青八木」

 

 瀬上の反対隣を向けば、青八木がコクリと頷いて「でも」と続けた。

 

「……あの壁の穴……」

「あー、あれな」

「あっち塞ぐのが先かあ」

「一体何があったんだろうな」

 

 部室の壁に貼ってあったポスター、この前その左上を留めているテープが剥がれて偶然見つけてしまった。どういうわけか、部室の壁には巨大な穴が空いている。

 元からそんなにいい造りの建物じゃないが、あの穴を塞がずに冷房をつけるのは効率が悪いだろう。

 

 そんなしょうもない話をしながら歩いていると、戻った先、部室の前に見慣れた横顔を見つけた。

 

「あ……金城さん、病院終わったんだ。今日早いね」

 

 瀬上に相槌を打とうとした時、金城さんの後ろにいるもう一人が目に入った。

 

 サイクリストだと一目でわかるような体格。目立つ明るい色の髪に、意志の強そうな目。

 オレたちはあの人を見たことがある。あのインターハイの会場で。

 

「箱学六番……福富さん?」

 

 呟くような瀬上の声と、どちらが早かっただろう。

 部室からは田所さんと巻島さんの悲鳴染みた叫び声と、何か大きなものが倒れるような音が響いてきた。

 

 

「手嶋、おまえのキャノンデール借りられるか」

「嫌です」

 

 金城さんに答えたその声は、瀬上のものだった。

 思いもよらなかった展開に反応が遅れたオレが返事をするより先に、瀬上が拒否したのだ。その声には明確な嫌悪感が滲んでいる。

 

 これほど明確に怒りを表現する瀬上を見るのは、これが初めてだった。たぶん、青八木や先輩方もそうだ。

 

「ちょ……瀬上、聞き分けないこと言うなよ」

「嫌です。私が許しません」

 

 瀬上がそう言っている相手は金城さんでもオレでもない。福富さんに言っていた。

 

 まるで猫だ。毛を逆立てて敵を威嚇する猫。

 さすがにやらないとわかってはいるけれど、いつ飛びかかるかわからないような殺気めいたものすら感じる。

 

「すみません、オレの自転車は使ってもらっていいんで……」

 

 さすがに面食らったような顔をしている金城さんにそう伝えつつ、落ち着けと瀬上の肩を掴む。

 

 その肩の薄さがやっぱり女の子だなと思えて驚いた。けどそれでもなお吠えるもんだから、どうしようかと考えるのにすぐに上書きされる。

 

「あの自転車は、OBの先輩と私が整備させて頂いているものです。故意にラフプレーをするような方にお貸しするのは反対ですよ。なぜなら、」

 

 瀬上が一歩、二歩と前に出て、軽く掴んでいただけのオレの手は自然とその肩を離れた。

 

「正式な所有者の身の安全に関わるからです」

 

 福富さんの目の前でガンとばしてやろうという気かと思えた瀬上は、意外にも彼の前を素通りした。肩で歩いてそのまま部室の外へと出て行き、自転車を守るかのように、瀬上はサイクルラックの前に立つ。

 

「私たちはたった一本のボルトだって余さず責任持って管理しています。選手の命を乗せる機材だからです。あなたが関わることで、私たちが全身全霊かけて守ろうとしているものが脅かされるのは我慢なりません」

 

 それを見て、わかった。本当はインターハイの、あの瞬間からずっと、そう思ってきたんだな。

 ただあの時は金城さんの具合やチームのことが心配で、悔しくて、悲しい方が強かった、てだけで。

 

「そうだ。君にも申し訳ないことをした。すまない」

 

 福富さんは金城さんにしたように、瀬上にも深々と頭を下げた。その真っ直ぐな姿勢に瀬上も気圧されたのか「う……」と一歩下がる。だがそれで収まる話でもないようで、瀬上は再び強硬な態度を取った。

 

「それであなたの評価が変わるわけではないので。どの自転車も貸しませんよ。必要なら駅前のレンタサイクルでも──」

「瀬上」

 

 名前を呼ぶと、瀬上が纏う攻撃的な雰囲気は、ほんの少しだけ和らいだように見えた。驚いたように見開かれた瞳が揺れる。

 

「オレはいいから。金城さんが一緒なんだぜ? そんなことにはならねーよ。それに万が一戻って来た時どっか変な所があっても、瀬上が気付いて直してくれるだろ?」

 

 だから大丈夫だ。

 言外にそう伝えようと、笑う。

 

「……、そういうことなら仕方ありませんね」

 

 さっきまでが百だとすれば、今の瀬上の怒りは四〇くらいまで減っているだろうか。

 随分と落ち着いた方ではあるけれど、それでも瀬上は心底嫌そうに顔を顰める。武器を収めるって、こういうことなのかな。

 

 いかにも不服ですって態度だが、メカニックの仕事は果たす気らしい。瀬上が「サドル高は?」とつっけんどんに福富さんへ尋ねる。

 今まで見たことがないような冷たい視線。あれが自分に向けられたものだったら心臓止まりそうだ。

 

「……七八だ」

「承知致しました」

 

 福富さんへ返すその敬語は、却って恐ろしい。

 慇懃無礼。今の瀬上には、この言葉がよく似合う。こういう時のために用意された言葉って感じ。

 

「返されたときに今と少しでも違うところがあれば、全て箱根学園に請求しますから」

 

──怖っ。

 

 サイクルラックからオレのキャノンデールを下ろし、アーレンキーを使ってテキパキとサドルの高さを変える瀬上は、福富さんの方を見もせずに言い捨てた。

 

「ああ。……そうしてくれ」

 

 福富さんは顔色を変えないけど、実際はどう感じているんだろう。表情が動かないって点では青八木も一緒だけど、よく知らない人だから全く読めない。

 

 福富さんのしたことを考えれば瀬上が怒るのもわかるけど、その当事者は金城さんなわけで……。

 

 たぶんここまで怒らせるようなことはそうそう起きないと思うけど、怒るとやばいってことは覚えておこう。

 

 目線だけを動かして隣を見ると、同じようにこちらに目線を送る青八木と目が合った。小さく頷いた青八木は、きっとオレと同じ想いでいる。

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