ジョジョの奇妙な冒険 ロード・トゥ・オーシャンヘブン    作:ユーホー腐れ男子

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運命の一冊

 

 人間は郷愁を覚える。

 突発的かつ漠然と思い出す田舎ののどかな風景やウスバカゲロウの飛び交う夕暮れの田園などを思い起こすことは不明瞭な想像、概念レベルの想起としてある。我々はいつもそう言った自分が帰らねばならない『肉の故郷』を恋しく思い憧憬を胸に抱く。

 

 しかし、もう一つ『郷愁』には種類がある。

 

 人が安寧を求めて旅をするというのは何も肉体的、距離的な故郷を目指してだけではない。

 精神的な安らぎを求める時も人間は『郷愁』を感じるのだ。

 『向かうべき道』を人は持っているからこそ、実利精神ではない黄金の精神ともいうべき義の行動指針を取ることができる。

 どれほど暗く過酷な羇旅であろうとも、人々はその空に星や光を見出し、絶望を切り抜ける。

 それほどの試練を克服するための精神エネルギーの原点、それこそが過去の故郷を慮るのとは真逆のベクトルである未来志向のノスタルジー、赤子の如く無垢に求めるところなのだ。

 

 『神曲』――1321年完成、ダンテ・アリギエーリが書いた三篇からなるこの詩集は正しくそれを描き出した。

 

 私たちの内から溢れる『正しいところへ向かいたい』という魂の郷愁――即ち、『天国を目指すこと』をダンテは流麗なリズムに乗せて美しく詠ったのだ。

 

 天国とは何もローマ・カトリックの修道士や宗教学者が定義づける楽園や千年王国のことだけではない。人の精神エネルギーが究極の進化を遂げるための通過点だったり、或いは特異点と言われる場所のことだ。

 人が天国や神に辿り着くには途方もない研鑽と地獄を下る『覚悟』が必要だ。

 

 彼のキリストも一度は磔刑の苦痛を浴びせられ、神よ、我を見捨てたもうたか、と獣の如く咆哮したという。

 あの救世主が、あの最大宗派の元祖にして教祖が神に向かって斯様なことを叫んで死んでいく様は壮絶意外のなにものでもないが、しかし最後には彼は復活を遂げる。最大の絶望を超えてこそ、『覚悟』は天国への招待状に変じる。

 神曲の主人公もまた偉大なる詩人に連れられて地獄と煉獄の旅路の間に覚悟を決める。そして、最後には純粋なる霊の愛によって天国を見せられるのだ。

 

 地獄を見る並々ならぬ覚悟が人を天国へ押し上げてくれる。

 

 天国を求めることは特別なことではあるが希少なことではない。自らが心の底から『正しい』と思う行動をするのは至難ではあるが、それを実行できる人物はいる。ゆえに天国への到達する資格を得ようとする人物は多いのだ。その可・不可によらず。

 

 

 『天国』には死と絶望を超越する試練が必要なのだ。

 だが、私はダンテがそうしたように天国を見てみたい。

 

「――そんな風にあの一冊を読んでから私は強く思ったのだ」

 

 早春の小川のように、私の言葉は滔々と雪解け水のように向かいに座った彼との間を流れていった。

 大学のカフェテリアでする類の話ではなかったとは思うが、私はどうしても自分の内にある『感動』を語らずにはいられなかった。

 

 例え、眼前の友人が日本晴れで干からびた鬼瓦のようにピクリともしない退屈の表情を浮かべていてもだ。

 

「いつからお前は哲学者になったんだよォ、ダンテに憧れて天国を目指そうって『覚悟』したってェ~? オイオイ、ドラゴンボールを観てかめはめ波を撃とうとする小学生とおんなじだぜッそんな一時の『覚悟』ってのはよォ、お前よォ~」

 

 マドラーをくるくる回して角砂糖を溶かしていたコーヒーを彼はけだるげな言葉を吐いた後にずずっと啜った。そのあと深くため息をついて私のことをその垂れ眼がちな眼で見つめてきた。

 

 その目の中には私のことを憐れむ気持ちと、なんでこいつのことを俺が諭さなきゃあならねえんだ、というめんどくささが見て取れた。事実彼は言葉を紡ごうと口を開きかけている。私は彼が何を言うかを待っているが、肝心の彼は砂糖の溶け残りもないだろうにコーヒーカップの中でマドラーを遊ばせていた。

 

 だが、そのコーヒーは私から彼に奢ったものなのだ。自分以外の人間にとって『マニアック』な話が深みに嵌れば嵌るほど、つまらないことなど知っているし、反論や茶々を入れたくのもまた同じだ。そのコーヒーは『聴衆代』なのだった。

 

 彼の唇を一度閉じてやはりジロリと私を見た。

 なるほど。言葉は決まったようだ。私は彼の微細な動きからそう受け取った。

 

 蜂が飛ぶように八の字を描いていた銀のマドラーがコーヒーの中から飛び出したかと思ったら、私の方に指揮棒のように突き立てられた。その拍子でコーヒーの粒が飛び散ったが、不幸中の幸いかシャツには付着しなかった。不幸としては私のアイスティーの中に一粒入ったことだろうか。少し眉が引きつった。

 

「ダンテの知名度がイタリアとか、ヨーロッパでどれだけ高いか知らねぇが間違いなく日本人にとっては印象薄いと思うぜ。『神曲』だってカミキョクって読んじまう『学』のねェ学生だってこの大学に十人は居るだろうよ」

 

「それは嘆かわしいことだ、なんていうのは知識者ぶり過ぎてるか?」

 

「名ばかりの『文化人』が言いそうだぜ。身の毛がよだつ」

 

 そう言って震えるサインを彼は誇張する。

 

 しかし彼の言う通りだ。

 ダンテの『神曲』と言えば「誰もが知っているけど、読んだことのない本」の代名詞と言える本だ。

 地獄編、煉獄編、天国編と三部作になっているが、『神曲』に興味を持った人間でも大抵は天国編まで読み切ることはできないのではないだろうか。

 

「俺はよォ、上野美術館のアルチンボルド絵画展に行った時に入場口で地獄の門を見たが、アレも『神曲』の作品に出てくる象徴的なものだったよなぁ。でも、俺はそれより手前にあった『考える男』の方がずっと魅力的に感じけどな。地獄の門よりも『考える男』の方が何を考えているのか、ってバックストーリーを考えさせられるんだよ」

 

 そう彼は言うが『地獄の門』も『考える男』もどちらもロダンの手によって作られた地獄門の要素だ。あの禍々しい門の最上部に本来は苦悩する男の像が置かれているはずだったのだ。地獄とは何か? 天国とは何か? を考えるカトリック的善悪を考え続ける当時の哲学者の姿こそが頂点に輝いているはずだったのだ。

 

 結局彼も無意識的にダンテに魅了されていたわけだ。

 波長が合う。それはつまり私と同じ能力に目覚めることが出来る可能性がある。

 

「『考えること』には宗教的な敷居がない。そして、敷居のない普遍的な疑問に万人が魅了されることを許されてるわけだろう。対して地獄の門はそれ自身が敷居だ。この世とあの世を分かつ、正しく渓谷のように常人には超えることのできない敷居だろう。だから俺は気になるわけだ――その『敷居』の向こう側にお前は何を見たんだ? 何がお前をそうも執着させる?」

 

 何が、か。

 そう聞かれると答えずらい。私に影響を及ぼしているのは『神曲』であり、ダンテであり、その『二つ』の背景であり、詩の構成であり、それらを学ぼうとする姿勢……そういう全てだ。

 

 だが、始まりは一冊の本だった。

 我らが南陽大学の四号館にはめ込まれたようなあの図書館、その二階の奥の奥にひっそりと眠る蛇の群れの如き分厚い書物に埋もれていた『あの』一冊から私のダンテへの憧れは始まったのだ。

 

 私は背もたれに掛けていたリュックサックの中からおもむろに一冊の本を取り出した。

 一切の汚れを付着させたくなかった私はそれをテーブルの上に置かずに右手で持ち続けた。

 

「始まりは一冊からだった……これだ。これこそが私が『神曲』から『天国へ至る道』を探し出し、私に指し示してくれた聖典、バイブルだ」

 

 その声はまるで宗教に心酔した伝道者のような重厚な声だったかもしれない。雑音がバックグラウンドで騒がしいカフェテリアではありえないほど生真面目な、神学者やそれに列するものが真理への階段を上がるときの高揚感を含んだ言い方だった。

 

 その狂気じみた私の言葉に、眼前でマドラーを振っていた彼こと大学の同級生・徳永八子(とくながはっし)も訝し気に、されど丁重にその本を受け取ろうとした。

 恐る恐る何か異端のもの、或いはタブーに触れてしまうのではないかという錯覚を覚えているようにおずおずと伸びる彼の腕を見て――私は本をまるで大事な我が子のように胸に抱いてひっこめた。

 

「ハァ? なんだよ、見せてくれんじゃねぇのかァ? 甲田紀道(こうだのりみち)くんよォ」

「もちろん見せるとも。けれど、私にはまだ君の手に託せるほど安心ができない。この本のページの一片でも、汚れてしまったら私は気が狂ってしまうからな……」

 

 徳永は意味が分からないと言いたげな顔をしながら、私の意見を蔑ろにしないためか黙ってテーブルから身を乗り出して本の背表紙を見た。唯一そこにだけこの本の表には文字が刻まれている。後は裏も表も糸で編まれた朱色ののっぺりとした表紙が分厚く本を綴じているだけだ。

 

 彼が見れるように私は赤子のように持った書物の背をゆっくりと彼に見せた。

 

 『講義:神曲』

 

「講義……神曲……? 講義だってェ?」

 

 講義である。

 ここは大学だ。

 その言葉は普遍的に聞かれる。

 意外な角度から打ち込まれたボールは徳永の予想のストライクゾーンを思いっきり外れていった。

 

 一般的に文学と常識づけられている『神曲』と果たしてかみ合う言葉なのだろうか、と徳永は思ったことだろう。いや、どちらも学問的ではあるから頭の中では漠然と自然に考え付くが、思考を凝らすと意味が霧のようにぼやけて内容を予想することは難しかった。

 

 しかし、そう、この本はダンテの『神曲』についてだけを大学の講義のように連ねて纏めた講義本なのである。

 

「あぁ、これ自体は『神曲』を訳した翻訳書でも、トスカーナ地方の方言で書かれた原典の『神曲』でもない。松山一信(まつやまかずのぶ)というとある大学教授が記録した『神曲』についての講義録なのだ」

「講義録……お前は、講義録に感動して、奇妙な主義に目覚めたって言いたいのかッ? 俺のことおちょくってんじゃねぇよなァ? いやいやいやいや、奇妙すぎんだろ、それはよォ~~~!」

 

 徳永はオーバーリアクションにそう言った後またコーヒーを一口啜った。ちびちびと二、三口ずつ啜っているのは偉く動揺しているあかしだ。だが、そこにつけこむように私は畳みかけた。

 

「奇妙なことではない。ダンテだって多くのヨーロッパの詩人の影響を受けた。多くの芸術家は過去の偉大なる先人の作品を見て影響を受けるのだ。それに倣えば、それが漫画だろうが、聖書だろうが、講義録だろうが、おかしいことじゃあないだろ」

「ん~~いやぁ、おかしいとしか言えないねッ! 確かに神講義って言葉は存在する。教え方が上手いと生徒の成長も早いし、食いつきも違う。教導が人の精神を豊かにするとは思うが……その一冊はあくまで文字媒体だろォ? 文字だけでそこまでの感動を与えられるなんて名立たる文豪の顔が総潰れになるぞ」

「人生を変えた一冊は名立たる文豪によって作られるのか? それは否、だ。人生を変える一冊とはッ読み手が書物を選び、その時同時に書物も読み手を選んでいるのだよッ! 書物に選ばれることこそ人生を変えることができるのだ」

「『書物に選ばれる』だァ~~ッ?」

「あぁ、そうだ。私は運命の巡り合わせとしてこの『一冊』を手に取ることができ、そしてある『力』を得た」

 

 私の末尾の言葉にとうとう彼の顔は胡散臭い宗教勧誘者を見る目に堕ちた。彼の友人になって早くも半年は過ぎたが、ここまで下った視線を受けるのは初めてだった。

 

 この残暑が未だ続く秋も初頭に私は奇妙な体験をしたのだ。それは『講義録』に魅せられたことではない。いや、だけではないというべきか。

 

 『神曲』の創作秘話やダンテの時代、言語や口承文芸の変遷、詩の口承文化の関連としてアイヌのユーリカまでを取り上げたこの緻密な一冊に感動を覚えて読み漁った時、私の精神エネルギーは爆発した。そして、一体の奇妙な虚像と出会ったのだ。最初に『それ』と遭遇した時私は『それ』が私の精神エネルギーの塊であることを理解した。

 

「とうとうトチ狂ったか、ある『力』だとッ? 何度も言うがオメェはドラゴンボール見てかめはめ波撃とうとするガキじゃあねぇんだぜッ!」

「そんなことは分かってる。自覚しているともッ!」

「じゃあッーー!」

「黙ってくれッ! 今見せよう……百聞は一見にしかず、だ。私は君を選んだ。だから、君も俺を信じて、選んでくれ。私がこの一冊から受けた『正しい道へ導かれる力』を」

 

 私と彼はテーブルの上にお互い身を乗り出し合い、鼻先の間には指一本入らないほどの隙間しか残ってない。お互いに凄みをこめて睨み合い、表面張力ギリギリの感情の爆発をキープしていた。

 後一滴。コーヒーの一滴、紅茶の一滴、それほど小さな食い違いや気に食わないことがあったらその間隙はたちまちに爆発して、私たちの友情は取り戻せない形に破局していただろう。

 

 大学のカフェテリアの雑音さえ、ゴゴゴゴ……! と轟きそうな二人の間から弾き飛ばされ、共同の静寂が訪れた。

 

 徳永の顔は顔が紅葉のように赤く転色し、天狗の顔のように皺まみれの顔になってる。力の篭った表情筋や青筋が克明に浮かび上がってピカピカと動いていた。

 

「ぐぬ、ぬぬ……プッハァ! 良いだろう、甲田ァ……オメェの戯言乗ってやるよォ〜」

「ありがとう。ありがとう、わが友よ。約束しよう、君にも『正しい道』を切り開く『力』を与えると……」

 

 彼から猜疑心は消えなかった。

 だが、同時に席から立つという拒絶もなかった。

 私が例え殺人を犯したとしても彼は一度はテーブルについてくれるだろう。彼と私の間にある関係は実に固く結ばれた石橋だ。檻に入れるも、ほう助するも、最終的な裁量はどうでもよく彼は私の話を聞いてくれる。そこに私は友情を感じたのだった。

 

「聞いてやるってば。仰々しい言い方だなァ……但しッ!」

 

 彼は人差し指を立ててこういった。

 

「コーヒーをもう一杯、もらおうか」

 

 

 

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