ぼっち・ざ・ろっく! 短編集   作:星見秋

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藤沢ルーザー

 

 リクルートスーツを着ている喜多ちゃんを見た。

 

 

 酒の補充のために珍しく外出していた最中のことだった。そのとき私はギターを十何時間と弾いた直後で、朦朧とした意識を抱えながらなんとか歩いていたところだった。家のお酒が切れていなければまず外出なんてしていなかっただろう。

 もっとも仮に疲れていなかったとしても、バンド関連以外で外出すること自体が稀な私のことだ。どの道久しぶりに味わう外の空気や雰囲気に圧倒されて、幼虫のように背中を丸めながら鬱々と歩いていただろうことは想像に難くない。

 陰キャは外に出るだけで気力と体力を消費する。

 高校を卒業しても、成人しても、私は相変わらず日陰の人間だった。

 

 人はそんな簡単には変わらない。ギターを弾き始めたからといってバンドを組めるわけではない。高校生になったからといって友達ができるわけでもない。バンドを始めたからといって急に人気者になれるわけではない。高校を卒業して専業バンドマンになったからといって、途端に注目を浴びるわけではない。

 ただ肩書が変わるだけだ。女子高生ガールズバンドから単なるガールズバンド「結束バンド」のギタリスト。女子高生バンドマンからただのバンドマン。十代から二十代。子供から大人。

 けれども、インディーズバンド所属という肩書は変わらなかった。

 そりゃ、そうなのかもしれない。現実というのはそこまで甘いものではなくて、でなければ私はとっくに誰とでも話せる人気者になっている。大都会でタピオカドリンク片手にズッ友と談笑し、我ら一生友情不滅卍と自撮りをSNSに投稿し、週末はクラブで朝までパーリナイする、アニメのオープニングで何の意味もなく飛び跳ねる主人公のようなマジイケてる今時の若者。

 どう考えても私はそのような存在ではない。たった一度きりの青春をギターに費やし、就職することもなく未だにギターに魂を売り続けているニート成人女性。さっき妄想した「今時の若者」よりもよほど気持ち悪い。私は単なる社会不適合者となってしまった。

 もっとも、これは私に限ったことではない。というか、私に関しては学生の頃から社会に適合していたとは口が裂けても言えない。

 けれど、他のバンドメンバーはそうでもない。喜多ちゃんは高校のときは押しも押されぬ陽キャ様だったし、学校も学年も違うけれど、虹夏ちゃんも高いコミュ力を持っていて、私やリョウさんと比べれば陽キャの側だった。

 それが、高校を卒業したことで全員社会不適合者(バンドマン)へと堕ちてしまった。

 もともと陽キャの側に立っていなかった私やリョウさんは別にいい。高校のとき、どころかそれよりずっと前からバンドマンを志していたらしい虹夏ちゃんも何を今更、というところだろう。

 だけど、喜多ちゃんだけはそうではない。彼女は陽キャで、ギターに初めて触れたのは高校のときだった。

 勿論、始めた時期が遅かったからといってバンドマンとしての覚悟に疑問符を付けられるものではない。けれど、結束バンドでバンドに人生を賭けている度合いが一番低いのは喜多ちゃんだった。

 だって、喜多ちゃんはバンド以外にも自分の居場所がある。普通に社会人として生活していけるだけの能力がある。

 適当な大学に進学して、女子大生として学生生活を更に四年も謳歌し、適当な会社に就職した後にいい男性と付き合い、寿退社して子供を作り、円満な家庭を築いて老後は孫を愛でる、そんな「模範的な」人生を過ごすことができたはずなのだ。

 実際喜多ちゃんの友達は大学に進学した子が多い。多分、毎日合コンしてウォッカのエナドリ割りをがぶ飲みし、茶髪の男と朝までパーリナイしているのだろう。

 対して喜多ちゃんはあっさりと学生の肩書を投げ捨て、毎日のようにバイトに励んで生活費を稼ぎながらバンド活動もこなし、時折SNSも更新してはたくさんのいいねを集めている。

 そんな地道な努力を続けているにも関わらず、効果が出ているのはせいぜいSNSのフォロワー数くらいだ。所詮アルバイトで稼げるお金なんてたかが知れているし、結束バンドも女子高生という肩書を失って以降はあまり跳ねることもなく、よく言えば安定期、悪く言えば停滞期に入っている。

 喜多ちゃんは私達と違い、バンドマンに固執する必要は別になかった。だというのに、彼女はバンドマンになることを選んだのだ。

 それは嬉しいことだった。高校卒業というのは一つの節目だ。結束バンドはその節目を迎えても、一人も脱退せずに存続することができた。

 だから、このメンバーでスターダムを駆け上がれると信じていた。いつか売れて、メジャーデビューが決まって、タイアップが大バズって、武道館、ひいては紅白に呼ばれて、国民的アーティストになる──そんな未来を平然と夢見ていた。

 

 それなのに、私の視界には、リクルートスーツを着用している喜多ちゃんの姿が映っていた。

 

 〇

 

 六本の弦から放たれる電気信号が轟音となって空気を切り裂く。それを支えるはずの四弦による重低音はときどき役割を忘れたかのように暴れ散らかし、かと思えば何事もなく縁の下に戻って大人しくなる。そんなめちゃめちゃな音の群が、今にも鼓が破裂しそうなほどに力強いドラムスによって統御されていく。そうして、狭い室内の中で音楽が完成する。

 とはいえ、出来がいいとは限らない。

「ちょっとストップ」

 喜多ちゃんが両腕を上げる。すぐに虹夏ちゃんとリョウさんは指示に従い、演奏を止める。それを見て、私も右手をゆっくりと下ろす。

 その様を、三人は一様に奥歯に物が挟まっているような表情で見つめていた。喜多ちゃんはともかくとして、他の二人も停止された原因が分かっているかのようだ。

「ひとりちゃん」

 代表して、喜多ちゃんが口を開いた。

「今日、調子悪いじゃない。何かあったの?」

「えっあっそんなに私の演奏おかしかったですか?」

「ええ!」

 喜多ちゃんは勢いよく首肯した。

 視界の隅で、虹夏ちゃんとリョウさんも頷いている。

「今日はストロークのキレが悪いよね」

「音が鋭くない。いつもはもっと上手い」

「あっそうなんですか」

 私は手元を見つめる。ギターピックは未だ綺麗な三角形を保持しており、特に薄くなっているというわけでもない。

 チューニングがいつの間にか狂っていたのだろうか。でも、弾いていて違和感は感じなかった。

 自分では気が付かなかっただけなのかもしれないけれど、三人があからさまにおかしいと指摘するほど狂っているのなら、私だって気づきそうなものなんだけど。

 疑問に思いながらも、私は一応断りを入れる。

「あっ念のためチューニングし直しますね」

 しかし再チューニングの後に改めて音を合わせてみても、みんなの違和感は拭えなかったようだ。

「やっぱり変だ」「いつもはもっと上手い」「調子悪い?」

 困惑したように、少し不満げに、みんなは私を見つめてくる。

 それは程度の軽い糾弾。今日の私のギターはみんなが求めている水準に達していなくて、だから不満が噴出している。

 言っていること自体は「お前、何で今日はそんなにギター下手くそなの?」と変わらない。そこから多少の手心が加えられて優しい言い方で済んでいる。

 もっとも、五年強もバンドを続けている以上、私もそれなりに経験は詰んできた。他人に合わせることを知らなかった結成一年目よりは余程うまくなっているはずだ。

 だからこの下手くそとはあくまでも相対的に下手くそというだけ。比較対象が最近の私ではなく、一年目の私だったなら上手いと称賛されているだろう。

 逆に言えば、みんなもそれだけ演奏が上手くなっていて、求める水準も上がっている。

 今日の私の演奏は、みんなにとっては下手くそらしかった。

「やっぱり、何かあったの?」

 喜多ちゃんが直球で尋ねてくる。前髪越しに喜多ちゃんのまっすぐな瞳が見える。

 私は視線を逸らした。何かあったかなかったかで言えば、間違いなくあった。先日のリクルートスーツの件だ。

 

 あのとき、私は突然視界に飛び込んできた喜多ちゃんの恰好に困惑し、混乱し、硬直してしまった。どうしてそんな格好なのか、まさか就職しようとしているのか、──バンドをやめようとしているのか。

 いろいろな思いが隕石のように飛来しては私の脳みそを破壊していき、しばらくその場で立ち尽くすほかなくなってしまった。

 一方、喜多ちゃんは地蔵と化した私には目もくれずにすたすたと歩き続けた。何かに急かされているかのような足取りだった。私がようやく体を動かせるようになる頃には、既に姿は見えなくなっていた。

 それ以来、私の脳みそは凍ったままになっている。

 あの恰好は一体何だったのか。喜多ちゃんはどうして私に気が付かなかったのか。これから結束バンドはどうなってしまうのか。私は一体何をすればいいのだろうか。

 そう考えると、それまでは何とかなるだろうと甘く考えていたバンド道が吹雪いてくるのを感じた。悩みや不安が轟轟と音を立てて、呼吸しようものなら体内の芯から固まってしまう。

 ことによっては凍死してしまうかもしれない。この吹雪の中にいても尚、甘美な妄想に取り憑かれてやれ武道館だ紅白だと夢を見ているようでは、出来上がるのは醜い死体でしかない。雪山で寝たら死ぬことなんて、世間知らずで学歴不足のバンドマンでさえ知っている常識だ。

 今こそ現実を見なければならない。本当はずっと前から見なければいけなかったのかもしれないけれど、今更でもそれに気づいてしまった以上は立ち向かわなければならない。

 けれど、どう立ち向かえばいいというのだろうか。

 雪山で寝たら死ぬ。では寝なければ死なないのか、というとそんなことはない。結局雪山にいる以上死ぬ危険性は常にあって、それが嫌なら下山するしかない。下山したところで生きていけるかは分からないけれど、雪山より過酷な環境ではないだろう。

 それは現実的な選択だ。私達は生物、生きる物なのだから、より生存しやすい環境を求めるのは当然。過酷な環境に留まり続ける方が生物としては異常だろう。

 けれど私達は、少なくとも私は、下山したくなんかない。山から下りるより、頂上を目指して上り続けていたい。どれだけ遠かろうと、先が見えなかろうと、私はこの道で生きていたい。

 私はたぶん、生まれた時からずっと異常者だった。今更別の道に行くことなんてできない。私にはギターしかないのだから。

 でも、だからといってそれを他人に強制させることなんかできない。

 私が異常であり続けても、喜多ちゃんもそれに付き合ってくれるなんて道理はない。あっさりと下山する可能性だって十分ある。

 そして、もしもそれが現実のこととなったとき、私は彼女を引き留められないような気がしているのだ。

 何故ならそれはどうしようもないくらい正常な選択だから。正常と異常、どちらの方に理があるかなんて言うまでもない。

 正常のなんと素晴らしいことか。できることなら私だって正常な青春を送りたかった。タピオカを食べてマジ卍して夏休みに海へ行ってアクエリアスを飲みながら制服着て満面の笑顔を浮かべながら浜風と踊って汗を流し祭りに浴衣を着て奢ってもらった綿あめやりんご飴を頬張りながら金魚すくいに興じる彼ピを後方から応援して体育祭ではチアリーディングをやって校内の男子をメロメロにして彼ピを焦らせてクリスマスは彼ピと一緒に映えるイルミネーションの中を二人きりで歩いておろろろろろろろろろろろろろろろろ。

「ひ、ひとりちゃん⁉」

「いきなり吐くなんて。やっぱり調子悪いんじゃ、──いや、いつものことか」

「っていうか、この後始末は誰がやるの?」

 正常、恐ろしい。怖い。あのまま妄想を続けていたら拒絶反応で全身が干からびていたかもしれない。やはり、私は正常にはなれないみたいだ。

 だからこそ、正常へと軌道修正しようとする人を私は強く否定することができない。そりゃ、なれるならなりたい。一般に理想とされる人生の歩み方に倣いたい気持ちは私にも分かってしまうから、糾弾なんかできやしない。

 だからといって喜多ちゃんがバンドから抜けてしまったら? 結束バンドはメンバー交代を余儀なくされる。

 でも正直、新しい人と音楽できる気がしない。絶対喋れないし、音も合わせられないだろう。

 結局新規メンバーを受け入れることもできず、結束バンドはあえなく解散。私は新しい仲間を見つけることもできず(結束バンド以上の音楽ができるバンドメンバーなんてそうそう組めるわけがない!)、次第に自分の部屋に閉じこもり、暗い自意識の深層で探索に耽る。一生外に出ることはなく、誰にも見向きされなくとも、後ろ指さえ差されなくとも、やがてみんなから忘れられてしまっても、私は言葉と心の檻に囚われながら、ギターを爪弾き続けて生涯を終えるのだ。バンドやってたときは輝いていたなあ、あの頃は楽しかったなあって、懐かしい思い出に浸りながら、それを一生大事に抱えて年を取る。中年になっても、老婆になっても、思い出を更新することなく、精神を二十代の頃に置いてきたまま、誰にも連絡を取ることなく、最終的に孤独死する。そんな人生が待っている、かもしれない。

 そう考えると吐きそうになる。苦しくて辛くて、妄想しているだけなのに心臓を鷲掴みにされたかのような不快な感覚に陥る。頭痛、腹痛。胸のうちがむかむかしてきて、自己嫌悪が体中を巡り巡って、狂う。

「うわあああああああああ」

「ぼっちちゃん、ギター持ったままのたうち回らないの。ギター痛んじゃうよ」

「痛むのはギターだけじゃないですよね⁉ もう、大丈夫なの?」

 喜多ちゃんが半ば呆れた顔をして、床に横たわる私を見下ろす。

「あっ大丈夫です」

 私は即答した。本当は大丈夫なわけがないのだが、正直に答えたら会話が広がってしまうかもしれないと考えたらこう答えるしかなかった。

 私の場合、会話が続けば続くほどボロが出る。楽しいコミュニケーションをしたいのはやまやまだけども、対面していると緊張しかり口どもりしかり、いろいろな要素が絡まってやる気を失い、最終的に会話が途切れるのを一刻も早く待つ石像になってしまう。

 しかしいざ会話が途切れてみると、そこには気まずい空気が醸成される。それで、自己嫌悪の念は一層深くなる。私と会話を始めた時点で、気まずくなるのは避けられないのだ。

「本当に?」

 喜多ちゃんはじとっとした目で私の顔を見てきた。私は二の句が継げず、寝転がったまま顔を背けた。

 本当ではないのだから、まっすぐ視線を返せるわけがない。

「ねえひとりちゃん。本当に、何があったの?」

 喜多ちゃんは先ほどまでの呆れたような声色とは打って変わって心配するような声色で尋ねてきた。

 吐いたりのたうち回ったりしたせいか、最初に聞いてきたときより幾分か、深刻な病気を憂慮しているかのような響きが含まれていた。

 私は、どうしようと思った。リクルートスーツを着ていた喜多ちゃんのことを話していいものかと悩んだ。

 分かってはいる。本来ならここで正直に、腹を割って自分の不調を打ち明けることがバンドに対して誠実な態度だ。

 けれども、仮に、喜多ちゃんが本当に就職する気で、バンドを辞めてしまう決意を固めているのだとしたら、私がここでその話をするのは悪手でしかない。

 だって、そんなことをしたら虹夏ちゃんとリョウさんに喜多ちゃんの意思が知れ渡る。私と同じくバンドに人生を賭けていて、それでいて私と違って自分の意思を気張らなくてもちゃんと人に届けられる二人は脱退なんて認めようとしないだろう。

 行きつく先は当然、修羅場だ。口論が始まり、喧嘩に発展し、感情の爆発を経てバンドは空中分解。人生を賭けて追いかけた夢への道程が目の前で破滅を迎えようとしていて、私は何もできずそれを眺めているだけで、気づいたら全て後の祭りになっていて、それでもう、私の人生は終了を迎える。バンドを組みなおすこともなく、残りの余生を永遠に部屋の中で過ごす。

 そうなる可能性を考えたら、とても打ち明ける気なんて起きやしない。それは私の手でバンドを終わらせる行為に等しい。そんなこと、できるわけがない! だから、私は黙っていた。

 それに業を煮やしたのだろうか。

「ひとりちゃん」

 その声は硬質だった。喜多ちゃんは屈み込んで、蛇のようにぎょろりとした視線を投げかけた。

 その瞬間、私は息を呑んだ。母親に叱られることを悟ったときの小学生のような心地がした。怒気の衝撃をせめて少しでも減らせるよう、私はきゅっと目を引き結んだ。

 しかし、飛んできたのは喜多ちゃんの声ではなかった。

「ストップ。そこまでだよ喜多ちゃん」

「郁代、そこまで。ぼっちが参ってる」

「ええ?」

 喜多ちゃんは一瞬だけきょとんとして、眉根を寄せる。

「でも、このままじゃ今日は練習になりませんよ」

「だからといって話したくないことを無理に聞き出そうとするのもよくないよ。ぼっちちゃん、身を縮こまらせすぎてミジンコみたいになっちゃってるし」

「スランプなんてよくあること。詮索されるより放置してもらった方がありがたい時もある。それに、練習は三人でもできなくはない」

「はあ。お二人がそう言うんでしたら、そうしますけど……」

 私は顔を上げた。よかった。これで結束バンドの解散はひとまず先送りになった。二人が制止してくれたおかげだ。

 まるで救世主。もしくは如来様。直視すれば失明しかねない程の後光が二人から出ている気がして、私は起き上がるなり拝み始めた。

「ありがとうございますありがとうございます」

「えっ、感謝の仕方重すぎじゃない?」

 ドン引きの虹夏ちゃん。一方、リョウさんは礼拝行為を気にも留めていないのか、普段と変わらない口調で言った。

 

「そういうわけだから、ぼっちはもう帰っていいよ。ちゃんと演奏できるようになったら音を合わせに来てね」

 

 

 〇

 

 

 どうしよう、やらかした。みんなに迷惑をかけてしまった。

 スタジオからの帰り道、私は無限に湧き上がる後悔に苛まれていた。

 せっかく全員揃っての全体練習だったのに、私のせいで台無しになってしまった。みんな忙しい中、なんとか時間を捻出して練習しているのに。

 時間は有限だ。何かを為そうと思ったら何かを犠牲にしなければならない。生活費を稼ぐために労働に勤しめばその分だけ練習時間が削られるし、かといって練習を優先してしまうと暮らしていけるだけのお金がなくなってしまう。みんなにとって、練習一回分の重要度は無職でバイトもほとんどしていない私よりも段違いに高い。

 なのに、その貴重な一回を時間が余っている私が潰してしまった。これをやらかしと言わずして何と言うのだろう。

 こんなことを繰り返していけば、リクルートスーツの件を暴露しなくともバンドは崩れていく。練習していない人に音楽の神様が微笑んでくれるわけがない。練習したとて音楽の神様に見初められるとは限らないけれど。

 努力は必ずしも報われるわけではない。結局は流行や時の運によって左右される面も多いだろう。音楽というのはそういうものだ。

 なんて、たかだか五年くらいの歴史のバンドマンが知った口で語れることではないかもしれない。

 それでも、この五年の間にいろいろな人たちが音楽から足を洗う場面を見た。概ね年上だった。殆ど、夢を追う体力がなくなったという理由だった。

 それらは全て、所詮他人事の話だった。だって結束バンドが結成したのは私が高校一年生の頃で、未来や夢がどんな方向にも開かれている素晴らしい時期だ。そんな中でバンドの解散話なんか聞いてもぴんとこない。

 だけど、もう五年が経った。私は二十一歳になろうとしていて、大学に進学した同級生もそろそろ就職を本格的に考える頃合いだ。

 それなのに私は特に働きもせず、毎日ギターを爪弾いては非現実的な夢を見てきた。こんなんでいいのか、と思ったこともないではない。

 私でさえそうなのだから、喜多ちゃんはもっと感じているかもしれない。私にはギターしかないから、この疑問が襲来しても覚悟を決め直すことですぐ撃退できる。

 けれど喜多ちゃんはまだ引き返せる。何しろ二十一歳はまだ忌憚なく夢を見られるギリギリの年齢だ。大学に入った人でも就職を意識しなければならない年齢ではあるが、就職活動自体は未経験。

 高校で友達が全然できなかった私と違って、喜多ちゃんには多くの友達がいる。大学進学した友達もさぞかし多いことだろう。その人たちから進路にまつわる話を聞く機会がないとは思えない。

 そういうとき、彼女は何を思い、何を話すのだろう。私にはバンドしかないと思うのだろうか。それとも、堅実な人生に思いを馳せるのだろうか。

 堅実な人生。それは就職より始まる、会社員としての人生。

 私がその道を選んでいたらどうなっているのだろう。毎日満員電車で圧縮されながら職場へ向かい、山積みの仕事を片付けるために超過残業を繰り返し、にも関わらず仕事量に対して渡される数が多すぎて仕事の山は日に日に標高を増すばかり。限りある人生の貴重な時間は忙殺され、疲労回復もままならないまま明日を迎え、負債はどんどん増えていく。それを吹っ飛ばそうとエナジードリンクに頼ったが最後、使用量は際限なく増えていき、身体への負担は増すばかり。そうこうしているうちに月日が経ち、会社の上層部で派閥争いが起きて、社長派か専務派か、はたまた独立かを選ばなければならなくなってしまう。さながらテレビ番組の〇×クイズのよう。正解を選べば柔らかいマットに着地し汚れを追うことなくその後も道を進めるが、不正解ならば粉塵まみれ。しかもその汚れは落ちることなく、今後もずっとついて回る。私は思い切って社長派を選択したが、結果は不正解。専務派を選んだ同僚は私に目もくれず綺麗なまま進んでいき、一方の独立を選んだ同僚は全身を棘に貫かれて再起不能になった。独立に用意されていたのはマットでも粉でもなく剣山だったようだ。あれよりはましだと自分を奮い立たせ、専務派の後を追うも、リストラの死神が後ろに迫ってきていて、必死に逃亡、その先に待っているのは部長職、しかし今まさに掴もうとしたところでするりと手のひらから逃げていき、また追いかけっこが始まっていく。そんな走ってばかりの人生。自分なんて存在しない。滅私奉公。その割にご恩はあまり与えてくれない。がむしゃらに走っている間に豪邸はセレブによって買われていき、私が辿り着く頃にはもう残っていないだろう。そもそも辿り着けないかもしれない。

 私は身震いした。そんな人生なんて送れるわけない。無理。一瞬で諦める。元々就職できる自信なんかないし、する気もなかったけれど、こんな妄想をしたら猶のこと失われる。私は就職できる人間じゃない。

 でも、喜多ちゃんは違う。彼女は社会でやっていける類の人間だ。もしもバンドマンにならなかったら、今頃喜多ちゃんは会社員、例えば冷蔵庫を売りさばく営業マンになっていたかもしれない。

 脳内にはにこやかに名刺交換を行う喜多ちゃんの姿。入社当初は全然成果を上げられなくて上司から怒られたりもしたけれど、次第に売上を伸ばしていき、会社員として軌道に乗っていくのだ。

 なんて盤石な人生だろう。いつ地盤沈下するかわかったものじゃないバンドマンとは雲泥の差だ。もし街頭アンケートでどちらの人生を送りたいかと尋ねたら一〇〇対〇で前者に票が集まるだろう。

 でも喜多ちゃんは後者を希望した。名刺ではなくギターを手に取り、社会の荒波に揉まれながら生活費を稼ぎ、音を鳴らすことを選んだ。

 一般的な視点で見れば、それは馬鹿な選択なのかもしれない。折角普通に生きていけるのに、その素質を犠牲にして社会不適合者の集まりにわざわざ飛び込んできているのだから。でも逆に考えてみたら、それは最高にロックでいかした選択だった。

 愛おしくて、素晴らしくて、私は嬉しかった。喜多ちゃんがロックになっていること、私たちの仲間でいることに弾けるほどの喜びを感じた。

 それなのに、喜多ちゃんはリクルートスーツを着ていた。

 就職活動したからといって必ず合格するわけではない。もしかしたら落ちるかもしれないし、仮に合格したとしても即バンドをやめることになるかはわからない。会社員とバンドマンという二足のわらじをしばらくは履き続けてくれるかもしれない。

 しかし所詮は二足のわらじだから、いずれはどちらかに専心しなければならなくなるときが来る。そうなったとき、喜多ちゃんがどちらを選ぶのか。もう一度結束バンドを選んでくれるのか。

 脳内には会社員の喜多ちゃん。さっきの妄想の延長線上、ただし二足のわらじの世界線。既に同期トップの成績を叩き出している喜多ちゃんは上層部から出世頭として見込まれていて、生活の比重はバンドよりも会社員の方に偏っている。仕事帰り、私たちが練習しているスタジオにギターすら持たずに現れて缶ビールを煽って帰宅したり、昼間にバンドの連絡を入れたら「今、冷蔵庫売ってるんだけど」と怒られたりしてしまうようになる。そんなことが続くうちに、バンド内には「喜多ちゃん、やめちゃうんだろうな」という雰囲気がなんとなく醸成されて、知らず知らずフリーのギタリストの演奏を熱心に聴くようになってしまう。喜多ちゃんがいつ辞めてもいいように──

「うわあああああ」

 私は頭を抱えてその場にうずくまった。これ以上妄想を続けると、やはり喜多ちゃんが結束バンドを脱退してしまう展開になる気がしたからだ。

 畜生。私が考える限り、どうやっても喜多ちゃんは結束バンドを脱退してしまう。それが実現したら私はおしまいなのに。

 リクルートスーツを着ていた以上、現実的に考えて喜多ちゃんが就職活動している可能性は高く、彼女がそう就職失敗するとも思えない。だから私がおしまいになる可能性は現実味を帯びる程度にはあって、その認識が私に対して容赦のない妄想を生み出させている。『このままだとこうなんだぞ』と、理性が私を追い詰めている。

『さっさと”喜多ちゃんリクルートスーツ問題”に取り組めよ。これが解決しないと練習に集中して取り組めないだろ?』

 理性はいつだって正論を吐いてくる。

『さっきだってこの問題が頭の隅で引っかかっていたから満足にギターを演奏できなかったんじゃないか。このまま未解決で放置しておくと、いずれバンドは機能停止するぞ』

 正論は鋭利な刃だ。ぶつけられても痛いだけで気持ちよくなるものではない。

『練習もままならないバンドが長く存続できるわけない。さっさと解決させろよ。それがバンドを真摯にやるってことなんじゃないの?』

「うるさいなあっ!」

 次々に襲い掛かる刃を払いのけるように私は叫んだ。

 いくら正しいからといって、配慮なくぶつけられるようでは暴力と変わりない。やるべきことが何なのかは自分でも分かっている。

 ただ、やりたくない。やろうと思った瞬間から、心臓に鉛でも載せられているかのような気だるさを感じ、動悸が激しくなり、気分がブルーになっていき、前頭葉が発熱し、全身を倦怠感がめくりめいて、何もやる気が起こらなくなる。

 先ほど喜多ちゃんに問い詰められたとき、私は何も言わなかったじゃないか。あのとき口を割っていればもう解決していたかもしれないのに。今だって、円滑に練習で来ていたかもしれないのに。今更どうしようというのだろう。

 だからこのまま放置する。打ち明けるのは次の機会が来たときにしよう。もっとも例え来たとしても今回と同じように言い出せずに先送りするのだろうけど。

 そもそも私が正しさを追求できる人間であるならば、とっくのとうに私は社会人として生活できている。正しくなさを集めた結果としての今なのだ。今更少しの間違いを重ねたところでどうってことはないだろう。そんなわけないと本当は分かってはいるけれど。

 私はゆっくり立ち上がった。周囲に人はいなかった。成人女性が道端で奇声を上げてうずくまったかと思えば、突然大声で叫んだのだ。やばい人だと思われて、逃げるように立ち去られても致し方ない。

 はあ、とため息をついた。とかく酒を飲みたくなってきた。これ以上現実に立ち向かう気が微塵も湧いてこなかった。

 

 〇

 

 大抵のバンドマンがそうであるように、成人した私はあっさりとアルコールの魔力に魅入られてしまった。

 酒はいい。飲むと認識能力が低下し、理性が息をしなくなる。感情の輪郭が曖昧になり、悩みも不安も苦しみも幸福も喜びも夢も希望も、何もかもが混濁し、最終的に根拠のない楽しさだけが残される。

『なんか知らんけど楽しい』と無職で週一しかバイトしない実質ニートのバンドマンですら思えるのだから、酒というものは素晴らしい。

 むしろ酒を飲んでいないときの世界は苦しいし辛すぎるのではないか。飲酒している間だけが生の喜びを実感していると言っても過言ではないかもしれない。廣井さんが年中飲んでいたのも頷ける。こんな嫌なことばっかりのクソな世の中で生活していくには酒に頼るのが最適解だろう。

 私は家に帰るなり冷蔵庫からストロングゼロを取り出す。プルタブを開けるとプシュッと音が鳴って、まるで産声みたいだなと思いながら喉へと流し込む。

 外出中ろくに水分摂取もせず、食事も摂っていなかった体に九パーセントのアルコール汁が染み渡っていく。

 ああ、気持ちいい。飲むだけで気持ちよくなれる物なんてストゼロを置いて他にないだろう。美味しい酒なら他にもいろいろある、どころか純粋な美味さだけであればストゼロは結構な下位に沈むだろうけれど、こと一杯でどれだけ気持ちよくなれるか競うのなら相当上位に食い込む。しかもコスパまでいい。最高じゃないか。

 なんだか楽しくなってきたので、自室に戻りギターを弾くことにする。さっきバンド錬でやったときは全然うまくなかったみたいだけど、ここでなら遠慮なく弾ける。お酒で不安が吹っ飛んでいる今ならかなり楽しく弾ける筈だ。

 まずはチューニング。六、五、四、三、二、一弦、調律して、一気にストローク。鋭くて、乾いていて、硬質で、狼の牙みたいな音が鳴り響く。

 準備完了だ。思わず私は口角を吊り上げた。さながら、獲物を前にして狩りを始めようとする猛獣のような気分だった。

 そうして私は演奏を開始した。アルコールとギターの二重奏。観客は私一人だけ。だからどこまでも暴れられる。全てをぶっ飛ばす勢いでコードを掻き毟る。

 ロックは陰キャをも輝かせるらしい。一方、酒を口にした人間は無敵と評されることがある。ならば今の私は光輝く無敵の人。スターを取ったマリオ。脳内には例のBGMが鳴り響いていて、折角だから演奏する。嗚呼、私、今ならどこへだって行ける。何でもかかってこい。なんだってぶっ飛ばしてやるよ。嘘ですごめんなさいイキってすみません……。

 多量の音と酩酊が洪水のように押し寄せ頭の中を洗浄していく。さながらオーバードーズ。さっぱりと綺麗になった思考回路は情緒の言いなりになり、ただただ快楽に身を任せることのみを命じる。

 私は思いつくままにギターフレーズを弾き倒す。偉大なロックバンド、最近人気のバンド、ちょっと前に流行ったバンド、交流のあるバンド、そして結束バンド、全てを同列に押し並べて弾き散らかす。

 洪水は私の頭に留まらず、とうとう部屋にも溢れ出す。それは質量を持った暴風だ。硬くて痛くて重くて鋭く、鼓膜をつんざいて一瞬の永遠を残す鉄風。即ち私の音だった。

 鼓膜に振動が伝わるほど、私の身体は火照っていく。興奮で高揚し、代償として理性は鈍化していく。が、気持ちいいのでどうでもいい。

 私は音を鳴らし続ける。ご飯も食べず、アルコールを水分の代わりに吸引し、なくなったのならまた新しい缶を開け、際限なくギターを引っ掻き続け──

 

 ──気づいた時には、ベッドでうつ伏せに倒れていた。

 窓の外は明るかった。カーテン越しに白んだ光が部屋の中にぽつぽつと侵入していて、寝起きの私の瞳を針のように突っついていじめてきている。

 私は目を瞑り、虹彩に安寧が訪れるのを暫し待つ。しかしながら光は瞼をも貫通し、視界が真っ赤に染まってしまう。ならばと布団の中に潜り込み、両手で顔を覆う。光はようやく遮断され、視界が温い暗闇に満ちていく。

 私は安心感を覚えた。心地よい閉塞感にくるまって、心が癒されていくのを感じた。

 一方、身体は不調だった。頭からは脳天が凍り付いたかのような不快感。全身が気だるくて、動くためのエネルギーが根こそぎ奪われてしまったかのよう。特に何かしたわけでもないのに疲れていて、自分の身体だというのに重くて動かしたくない。やる気が起こらない。目覚めた時点でこんな日は何をやってもうまくいかないだろうなあ、という諦念さえ持ってしまうほどだ。まだ何もやっていないというのに。

 昨日いつ寝たのかも分からないのだから、当然の帰結ではあるのだが。大体今は何時なのか。外が明るかった以上、最低限朝は迎えているはずではあるが。

 布団から亀のように顔を出し、目をうっすらと開けて時計を見る。

 学生の頃から使っている目覚まし時計の短針は、二と三の間を指し示していた。

 

「────」

 

 目を擦り、もう一度見る。目元をぐにぐにと揉み、更に見る。瞼が疲れるほど瞬きを繰り返し、再三見返す。動悸を噛み殺しながら、片目で恐る恐る見る。

 それでもやはり、短針の指し示す位置は変わらなかった。

「──────やば」

 口から言葉が滑り落ちたかのように呟いた。それしか私にできることはなかった。

 バンドの諸問題から逃亡しアルコールに身を任せた結果、貴重な時間を半日も無駄にした。こうしている間にも事態は刻一刻と進んでいるかもしれないのに。どんどん喜多ちゃんの就活が進んでいって、歯止めの聞かないところまで行って、私達が何を言っても社会に復帰してしまうようになるかもしれないのに。

 それを食い止めるためには早めに行動しなければならない。だというのに、この様は何だろうか。見るも無残な現実ではないか。

 眠気はもうすっかり消え去っていた。恐怖と後悔だけがあった。身体中が震えていた。どうしよう、と天を仰いだ。

 雪山には猛吹雪が吹いていた。しかし私は先ほどまで猛吹雪に目を背けてあろうことか睡眠を取っていたのだ。凍死する前に目覚められたのは幸運だったのか、不幸だったのか。

 どちらにせよ、目の前の現実は変わらない。ほんの数時間前に放棄した諸問題が更に重くなって私に襲い掛かってきた。これを解決するには更なる労力が要される。

 軽かったときですら放棄した私に、今更取り掛かろうとする気概なんてあるのだろうか。昨日の帰り道だって、何食わぬ顔で喜多ちゃんに質問のメッセージを送れば解決できたのではないか。いや、過去の自分を攻めても状況は好転しない。大事なのは今だ。今やらなければもっと重くなるのは目に見えている。

 でも、やりたくないなあ。身体がだるいし、頭は痛いし。何よりやろうとすると、いろんな色を混ぜすぎてしまった絵の具みたいな黒い粘性の液体が心の中で広がっていく感じがする。『今より軽かったはずの昨日でさえ何もしなかったんだから、今日やらなくても平気だろう』って、身体のあちこちに甘言を呈す。

 理性が正常に機能しているうちはいい。けれど甘言に耳を傾けてしまい、挙句身を任せてしまうと昨日の二の舞だ。それらを跳ね除ける理性が敵に見えてしまう。正しいことは正しいのだから、素直に従ってしまえばいいのに。

 だけど、心が疲れている。正しいことをするためには少なからず気力が必要だけど、気力が不足しているとき、甘い言葉はそれこそスイーツのように魅力的なものに思えてしまう。スイーツをほとんど食べたことがないから実際のところ魅力的かどうかわからないけれど、ともあれ軽率に身を任せてしまいたくなる。けれども、それで半日をドブに捨てるのはいくら何でもどうしようもない。

 こういうところなのではないだろうか。私でさえ閉口せざるを得ない生活なのだから、喜多ちゃんにとっては耐えられないだろう。

 しかしながら、遅くまで楽器なり酒なりやっての午後起床自体はバンドマンにとっては珍しいことではない。むしろ模範的バンドマン生活習慣だ。リョウさんはもちろん、虹夏ちゃんだって酒を飲む日は遅起きになるって話だし、他のバンドに目を向けても廣井さんをはじめダメ人間ばかりが揃っている。

 元よりこんな年齢になっても音楽が仕事だと息巻いているだけのニート、よくてもフリーターな奴らだ。ダメ人間以外の何物でもない、と言われたら否定するのは難しい。

 思うに私は学生の頃よりもダメになっている。高校生の頃から何かが悪化したわけではない。どころか、最初の頃はバンドすら組めなかったことを思えばちょっとはコミュ力もマシになってきているかもしれない。だけど、ちょっとマシになった程度だ。そんなものは微差でしかない。第一バンドに入ったのだってたまたま虹夏ちゃんから誘われたからで、あのときバンドを組めなかったら今でも私は一人でギターを弾いていた。何の意味もない仮定の話だけど、絶対にそうなっていたと確信を持っている。何せバンドを結成しているというのに、昨日の私は一人でギターを弾いていたのだ。

 高一のときから私が進んだ距離なんて、所詮アリの歩幅にも満たないのではないか。

 その一方、後退した距離は比較にもならない程大きい。何せ年を重ねている。

 学生時代、結束バンドは『女子高生ガールズバンド』との肩書を伴っていた。当時の私は女子高生という言葉の響きに「高校生にしては」というニュアンスが含まれているように感じて、あまりいい思いをしなかった。

 それは正しかったのかもしれない。今の結束バンドは『ガールズバンド』でしかない。個性派とか実力派とか、そういう分かりやすい形容詞は私達を語るときには用いられない。なまじ五年も続けているからか、フレッシュや新進気鋭といった単語も適さない。コンテストで上位に入ったことがあるから秘密兵器というのも不適切だ。

 実力がないわけでもなく、人気がないわけでもなく、知名度がないわけでもなく、売れていないわけでもない。結束バンドはいいバンドだ、とよく言われる。

 いいバンドだけどなあ、とも言われる。「いいバンド」と表現するのが結束バンドには一番似合ってしまっているのだろう。

 いいバンドなんて珍しくない。だから、その中でもひときわ目立って輝く個性が必要だ。ダイヤモンドでなくたって、磨けば光る原石はそこら中にいるだろう。だが私たちは石ではなく人間だから、光るためには自分で自分を磨かなければならない。

 ところが、自分磨きの結果光ることができたとしても見つけてもらえるかは分からない。宝石がずらりと並んでいる中に光る泥団子やアルミホイルの球が混ざっていても、わざわざそれを取ろうとは思わないだろう。

 光っているから泥団子やアルミホイルの中でなら目立つ存在ではある。しかしそれだけだ。結局、泥やアルミの価値なんてそんなもんなのだ。

 結束バンドはそういうバンドになってしまっていた。売れていないわけではない。固定客はしっかりいるし、下北沢では名前が通っている方だという自負はある。ただ、なんとなく勢いが頭打ちになってきている感じがあるだけで。

 だから、当時は嫌っていた『女子高生ガールズバンド』の肩書が今では羨ましく感じる。若いってことはそれだけ価値があることだって、卒業してからどんどん実感してきている。痛感、と言い換えてもいい。

 だからこそ女子高生であることは結束バンドの特徴だったし、それを失った今、私達の価値は当時より下がっている。バンドとしての演奏技術はここ五年でだいぶ成長してきたと思うけど、もしかしたらそれは成長ではなく成熟かもしれない。

 熟れすぎた果実は収穫の機会を失い、後は腐り果てるのを待つだけだ。せめて種が残ってくれたらいいけれど、私達にそれができるのか。

 私達は果物とは違う。腐ったとしても人生は続いていく。それはつまり、何十年以上も腐ったまま無意味に人生を消化していくということだ。毎日狂ったようにお酒を飲んで何もせず、たまに思い出したかのように音楽をやってバンドマンとしての体裁を保ち、泥酔した状態で一回り以上年下の後輩にちょっかいをかけ、若者はいいなあと酒臭い息を吐きながら金を無心し、ふとしたときに我に返って猛烈に死にたくなり、それを忘れるために酒で思考を洗い流す、そんな生活。

 なんだか、廣井さんみたいな生活だ。となるとこの妄想はちょっと失礼かもしれない。あの人にはあの人なりの生き方があって、それを腐っていると評する資格は私にはない。廣井さんは自分でそういう人生を歩むことを決めたのだ。自分から選んでそういう生活を送ることと気が付いたらそういう生活を送っていたというのは全然違う。

 ただ、廣井さんがそういう生活をしていることを承知の上で言うと、私はああはなりたくない。今日だってお酒のせいで半日無駄にしたというのに。

 学生のときはお酒を飲めなかった。しかし今、私は酒で時間を空費した。それは昔よりも廣井さんに近づいていることの根拠に他ならない。

 社交性はマシになったかもしれないけれど、ダメ人間具合はより輪をかけてひどくなっているということか。

 私は溜息をついた。やっぱり全然成長していないじゃないか。あらぬ方向に成長してはいるけれど、それを成長と言ってもいいものか。

 そんなわけないだろう。それこそ気が付いたらそうなっているというだけだ。望んだ方向の成長では断じてない。

 私がなりたかったのはステージの上でロックに輝くバンドマンであって、ダメ人間を半ば揶揄する目的で使われるような”バンドマン”ではない。

 まあ、これはこれでロックかもしれないけれど。喜多ちゃんが見たら何と言うだろう? よせばいいのに、私は想像する。

『えっ、ひとりちゃん、バンド練習を一回不意にしておいて自分はお酒を飲んで昼まで寝ていたの? いくらなんでも世の中をナメすぎなんじゃないかしら』

「返す言葉もございません……」

『こんな無神経な人とバンドなんてやってられないわ。私、普通の人生に戻ります』

「あっ、ま、待って、就職しないでください……!」

 しかし喜多ちゃんは聞く耳持たず、私の下から去ってしまう。残された私は悲嘆に暮れ、部屋の中から出ることなく──この下りはもういいか。

 私は深くため息をついた。拍子に胃袋の中身を戻してしまいかねない程深いものだった。

 ああ、もう駄目だ。これ以上現実を省みていると本当にリバースしかねない。こんなときは承認欲求を満たすに限る。

 私は床に転がっていたスマホを手に取った。現実が本当に辛く苦しいとき、私にはインターネットがある。

「後藤ひとり」としてはともかく、「ギターヒーロー」はインターネットに居場所がある。ウィーチューブのコメント欄、私を褒めてくれる声。

『ギターうまいですね!』『上手ですね!』『この曲好きなので弾いてくれて嬉しいです!』

 そういったコメントを眺めるのが、私のメンタル回復法なのだ。

 ロックを解除し、通知を確認する。真っ先に目に飛び込んできたのは、珍しいことにLINEの通知であった。

『ひとりちゃん、今時間あるかしら?』

 それが喜多ちゃんのLINEだったものだから、私はカチコチに固まってしまった。

 誉め言葉で癒されることを期待して開いたら、いの一番に現実を突きつけられた格好だ。受け入れ態勢が整っていない。殴られることをある程度予測していたうえで殴られるのはまだましなのだが、不意打ちはひどい。現実から離れて救いを求めようとした途端にこれだなんて、私が逃避することを許されていないみたいじゃないか。

 石像のように固まったまま、私は画面を見続ける。どうしよう。これ、返信したほうがいいのだろうか。いや、いいのだろうけど。

 むしろ絶対に返信しなきゃいけない類のものだと思う。だってこれ、半ば業務連絡じゃん。昨日あんなことがあって、そこから一晩明けて、状況はどうなっているのか聞こうとしているんじゃないか。

 このタイミングで連絡してきたということはそうとしか考えられない。そも、喜多ちゃんは昨日も私に何か言いたげだった。私の不調を治すため、行動を起こそうとするのは不思議じゃない。

 でも、状況確認って。今の私を赤裸々に告白したらそれこそさっきの妄想の再現になりかねない。第一、不調の原因からして打ち明けたら最後、どうなるかは分からないのに。

 やっぱり、黙っておいた方がいいかもしれない。何の解決にもならない、単なる放置でしかない選択だけど、それを嫌って告白したせいで決定的な瓦解に行きつくのなら、袋小路であると分かっていながらも現状維持を選ぶ方がいい気もする。

 でも、ここで全て打ち明けたら楽になるんだろうなあ。滞納しているタスクを抱えて息苦しい生活を送り続けるくらいならここで生産しておいた方がいいのかなあ。なんて、本来なら逡巡するようなことでもないのだろうけど。普通の人はやるべきことは先延ばしになんかせず、さっさと終わらせるのだろう。こんな悩みなんて発生しない。考えるまでもなく前者を選んだ方がいいに決まっている。

 だというのに私は悩んでいるし、何なら後者に気持ちが傾いている。それほどまでにやりたくない。普通の人ならやらなければならないことはぱっぱと終わらせるのかもしれない。けれど、どうしてもやりたくないという感情を優先してしまう。真綿で自分の首を締める行為だなんて分かっているのに。

 喜多ちゃんなら迷わず返信しているのだろう。私にこういうLINEを送ってきているように、彼女はやるべきことをきちんと行える人間だ。

 それに比べて、私という人間はあまりにもしょうもなさすぎる。こうやって悩んでいるのを知られたら、喜多ちゃんにどんな反応をされるのだろう。

 なんて、そんなことはもう考えたくない。今まで散々想像しては怯えてきた決定的な瓦解。そうならない可能性もあるけれど、ずっと瓦解する可能性に怯えた結果がこの状況だ。今更、ここでしない可能性に賭けるのはおかしい話じゃないだろうか。どうせ希望を持つのなら早めに行動したほうがよかったじゃないか。どうして今になって鞍替えするんだ。一貫性がなさすぎる。やはりここは無視を決め込むべきか。

 いや、でもなあ。そんな一貫性はそもそもいらない。どうせ先送りにしても、結局もっと辛くなるだけなのは頭では分かっている。どう考えても返信しておいた方がいい。いいんだけどなあ。

 

 私は逡巡を繰り返す。思考は葛藤の堂々巡り。先延ばしを選んでも、結局問題は私を捉えて離さない。

 いつまでこうやって同じような悩みを抱えているのだろうか。そろそろ前に進まねばならないのではないか。スマホを凝視するような格好でぐるぐると考えていた、そのときである。

 突然、スマホの画面が切り替わった。真っ白な背景に「喜多ちゃん」の名前、下部には応答と切断を表すマーク。同時に着信音が鳴り始め、バイブレーションが手に伝わって細やかな刺激を感じる。

 私は暫しぽかんとしながら画面を見ていたが、状況を理解するや否やすぐに応答のマークをタップした。いきなりのことで少し気が動転していたのかもしれない。考えるより前に既に手が動いていたのだ。

「あっ! 出てくれたのね」

 スピーカーの向こうから喜多ちゃんの声が聞こえてきた。想定よりも穏やかな声音だった。どこかほっとしているかのような雰囲気を漂わせながら、

「既読がついたから思い切ってかけてみたけど、出ないかもって思ってたわ」

 と悪びれもせずに言ってきて、私は、それはまあそう思われるだろうな、と思った。さっきまであんなに逡巡していたくせに、不満を言う資格なんて私にはない。

「あっ、ま、まあ電話には出ますよ。そりゃ、同じバンドメンバーですし」

「ふぅ~ん」

 懐疑的な声。どうやら信じられていない。実際、着信のときに落ち着いていたなら応答していたかどうかは怪しいものがあった。何なら直前まで返信するかどうかで悩んでいたことを考えると切断を選んでいた可能性はかなり高かったのではないか。そう考えるとかなりばつが悪くなってきて、私は数秒ほど黙りこくってしまった。

 しかしその沈黙こそが、私の発言が嘘であることの何よりもの証明となった。少しの沈黙の後、喜多ちゃんは若干の呆れを孕みながら。

「まあ、いいわ。それより、状況はどうかしら?」

 私は答えに窮した。馬鹿正直に答えられるわけがなかった。そんなことをしたら、ろくでもない時間の使い方をしたことがバレてしまう。打ち明けられるわけがない。

「大方、夜中までお酒を飲んだかギターを弾いたかして、今起きたところだと思うのだけど」

「えっ」

「あら、もしかしてビンゴ?」

「は、はい。大体そんなところです」

 声を震わせながら返す。嘘は言っていない。あくまで「大体」そんなところであるに過ぎない。誤差みたいなものだろう。片方だけやったのと両方やったというのは、そこまで差があることでもあるまい。

 しかしながら喜多ちゃんは沈黙。まるで全てを見透かしているかのように、のち溜息。

「ま、まあ元気そうってことは分かったわ。それで、ギターの調子はどうだったの?」

「あっ、ええっと、その」

「やっぱりあのまんまなのかしら?」

 どうだろうか。思い出せる限り、下手な演奏をしてしまった覚えはない。もちろん酔っ払っていたせいで記憶が抜け落ちている部分もあるから、絶対にしていないとは言い切れない。けれども昨晩の私は気持ちよくギターを弾けていた。でなければこんな時間まで寝こけるほど演奏してはいなかっただろう。

 でも、だからといってみんなで合わせたときにどうなるかは分からない。一人でいくら気持ちよくなったとしても、それで結束バンドのギターとしての役割が十全に果たせるのかというのはまた違う話だ。

 思考の末、私は答えた。

「わかんないです」

「そう。まあ、そうよね。みんなと合わせなきゃわかんないか」

「でも、あのままかもしれないです」

「あら?」

 喜多ちゃんは声を少し落とし、そこそこに真剣味を漂わせた。

「それは、どうして?」

 言葉に詰まる。

「えっと、満足に弾ける自信がないからです」

「そうなの? でもひとりちゃん、本当にギター上手くなったじゃない。最初から上手かったけど、その頃よりも断然上手くなってるのに、どうして自信がなくなっちゃったの?」

 どうしよう、答えられない。

 自信がない理由。それは不安が解消されていないからに他ならない。喜多ちゃんはどうしてあのときリクルートスーツを着ていたのか。喜多ちゃんはバンドを辞めてしまうのか。それが解消されない限り、練習に出たところで昨日の二の舞になるだけだろう。

 けれど、それを答えてもいいのだろうか。散々懸念してきた、決定的な瓦解が訪れないだろうか。そう考えると声帯が石化されたかのように動く気配がなくなり、私は再び黙りこくるしかできなくなってしまう。

 これでは昨日の再演だ。先ほどまで昨日ちゃんと訊いておけばと後悔していた癖に、折角の機会をまたこうして不意にしようとしている。ここで訊かなかったらいつ訊こうというのだろう。黙ったまま通話が終わってしまったら、すぐ後悔するのは目に見えている。この通話も「あのときこうしていれば」の「あのとき」の一員になる。そんな、分かり切っている未来。

 だというのに、私は口を動かさない。全くもって動かない。そうなると当然、静寂が舞い降りる。この場面で口を開くべきなのは私以外にはおらず、その私が黙っているとなると会話が進行しなくなる。だからこれは、答える気がないことの意思表示となってしまう。

 そんな意思は私にはない、と言いたい。でも、事実として口が動かないのだから、答えたくないという気持ちもどこかにはあるのだろう。

 この期に及んで何を、と私でさえ思っている。しかしながら、事実として、私の口は動かなかった。

 そうしているうちに、とうとう喜多ちゃんが口を開いた。

「そう。答えたくない、ってことね」

 まるで最後通牒のように思えた。私は大いに失望された気がして、がくりと肩を落とした。そうして、喜多ちゃんが失望したであろう私に対して、たぶん彼女以上に失望を覚えた。

 私は何をやっているのだろう。タイムリミットが訪れるまで結局何もできなかった。これでは仮に次の機会が来たとしても、同じように潰してしまうのではないか。そういうことを繰り返していくうちにいずれ本当の終わりが来て、結束バンドは解散してしまうのではないか。私が何もしなかったばかりに、全員が雪山で野垂れ死ぬ羽目になる。誰からも看取られることなく、死体すら発見されず、後藤ひとりがもっとしっかりしていたら、と未練を抱えながら、儚く命が尽きていく。

 そんな光景を幻視しながら、私は喜多ちゃんが通話を切ろうとするのを待った。

「じゃあ、直接聞きに行こうかしら」

 しかしながら、続いた言葉は予想だにしていないものであった。

「えっ?」

 思わず聞き返す。喜多ちゃんはふふっと得意げに笑い、いたずらっぽく尋ねた。

「私、今どこにいると思う?」

 私は呆然とした。

「下北沢じゃなかったんですか」

「そんなわけないじゃない。だって私、ひとりちゃんは電話に出ないと思っていたのよ? 出てくれたからよかったけど、出なかったときの可能性をケアしておくのは必然じゃない?」

「そう、ですか」

「それで、私は今どこにいると思う?」

 私はふと嫌な予感を覚えて、スマホを耳に当てたまま窓の外を見ようとした。

 しかしその瞬間、家のインターホンが鳴った。

「時間切れね。ところでひとりちゃん、玄関の様子を見に来てもらえないかしら?」

 いや、そんなまさか。下北沢からこの家までは結構な距離があるというのに? 

 私は部屋を飛び出し、慌てて玄関へと向かった。アルコールの影響で身体は未だ重かったが、そんなことは気にもならなかった。

 果たして、玄関先には喜多ちゃんがいた。

 恐らく今春の流行なのだろう、明るめの色の服に身を包んだ彼女は、私を見るなり口元をニヤリと歪ませ、挑戦的な眼差しを放ってきた。

「ごめんください、ひとりちゃん。さあ、話の続きをしましょうか」

 さながら宣戦布告である。私はあっけに取られ、腕をだらりとぶら下げた。

 その手に握られたスマホの画面には、未だ増加の一途を辿る通話時間が表示されていた。

 

 〇

 

「お邪魔します」

 と言って、喜多ちゃんは私の部屋に足を踏み入れた。物珍しそうに周りを見回しながら「久しぶりねえ」と呟き、押し入れに視線を向けたところで、慌てて私の方へと向き直る。

「こっ、腰を下ろしてもいいかしら」

 どういうわけか、その声はやたらと上ずっていた。まるで私のようである。

「あっ、えっ、どうぞ」

 ほらこのように。地蔵のように固まって喜多ちゃんの所作を眺めるだけだった私は声帯を動かす準備をしていなくて、もっとも動かす準備をしていたところで大した違いがあるわけではないけれど、どもりはせいぜい一回くらいで済んだはずだ。喜多ちゃんがどもったのは一回。私は二回。コミュ障度は私の方が上だ。

 畜生。こんなマウントを取ったところで嬉しいことなどなにもない。あるのは劣等感と敗北感。乗っかられた方が名誉まである。コミュ障バトルの勝者とは、それ即ち人生の敗北者というわけか。あ~あ。

 なんだか投げやりな気分になってきた私の前で、喜多ちゃんは落ち着きなく腰を下ろす。そうして、私をさながら凝視と言っていいくらいに見てきた。

 それは目と目を合わせてコミュニケーションを取ろうとしているというより、見たくないものから目を背けたいがために必死に私の顔を見ているように思われた。

 何かあったのだろうか。以前訪れたとき、私の部屋にて思い出したくもない衝撃的な出来事に出くわしたのだろうか。気にはなったが、私は尋ねなかった。

 喜多ちゃんが口早に本題に入ってきたからである。

「それじゃ、改めて聞かせてもらうわ」

 口早に、というのは本当に口早で、普段の口調が徒歩くらいのペースだとすると、坂道を自転車で駆け下りているときぐらいのスピード感があった。

 相手が追いきれないほどのスピードが出ていようが構うことなく、自分のペースでのみ話す。それはコミュニケーション不全に繋がりかねない喋り方だ。いつもの喜多ちゃんであればまず行わないであろう、対話にならない独善的な行為。

 先ほどから喜多ちゃんの様子がおかしい。コミュニケーション能力の程度が私付近にまで落ちてしまっている。思えば高校生の頃、虹夏ちゃんがこの部屋に入ってきたときも私のような喋り方になってしまっていた。

 もしかすると、この部屋には人をコミュ障にする何かがあるのだろうか。魔力、呪い、波動とか、そういう科学的には説明が付かないオカルトテクノロジー。それならば、いくらか気が晴れるんだけどなあ。コミュ障を始めとする私の欠点を全部呪いのせいにできるから。

 私がこんなに喋れないのは呪いのせいだ。決して私が至らないからではない。私がこんなにやるべきことを引き延ばしているのは魔力のせいだ。決して私が駄目な奴だからではない。全ては呪いが悪いのだって、言いたい。全てを周囲の環境のせいにして、自分自身は一点の瑕疵もない清廉潔白な人間だと豪語出来たらどんなに楽ちんだろうか。多分、生きていて辛いことなんて全くもって体感しなくなるだろう。

 けれども、流石に魅力的ではない。それは単に視野が狭すぎるだけだ。見たくないものを見なければ幸福にはなれるかもしれない。だけど残念ながら、この部屋は何も特別なことのない単なる一室でしかないことを知っている。私の欠点は、私が至らないが故であることを分かっている。自分を美しいと賛美できる気がしない。そして、それは、良かったと思う。

 いや良くはないのだけど。楽しいことばかりの人生には憧れる。でも、視野狭窄にはなりたくない。自己を無条件に賛美できるほど蒙昧になるくらいなら、血の滲むような思いをしてでもいろいろな事物を視界に入れたいと思う。思ってはいる。

 けれども、実際の私はスーツの件の真意を聞くことから逃げ続け、その癖に無力感に苛まれ続けている。視野狭窄の方に向かって突き進んでいる。本当は打ち明けたいのに、視野を広げたいのに、独りよがりになってしまって、閉じこもっていく。私は一人になろうとしている。

「どうしてひとりちゃんは、上手に弾けないと思うのかしら」

 答えたい。通話ではとどまらず、わざわざこうして直接会いに来てくれたのだ。そこまで労力をかけてくれたのだから、答えるのが筋というものだろう。

 しかし、そう考えた矢先に脳内を良くない妄想が占拠する。今まで幾度となく繰り返してきた、喜多ちゃんが結束バンドを辞める妄想。──私たちは雪山で散り散りになり、いずれ凍死する。そこに痕跡は残らず、看取るものも現れず、弔われることすらなく、孤独に息絶えていく。

 私はもう動けなくなっていた。身体を動かすことも、瞼を開閉することも、呼吸すらも能わない。声帯を震わせるなんてもってのほかだ。私の身体は完全に凍りついた。後は死ぬのを待つだけだ。

 死にたくはない。だが、身体が動かないのならどのみち死ぬ他はない。本当は動きたいのに、動かしたいのに、動いてくれない。だから、私は氷像だ。どういうわけか魂が宿っていて、それもいずれ尽き果てる。何故なら所詮氷像でしかなく、そこに魂が宿る価値なんてないだろうから。

 今の私にできることは固まって時間をやり過ごすことしかなく、それは喜多ちゃん、ひいては結束バンドに対して不義理を貫くことを意味していた。

 なんて奴なんだ。私はここまで心を砕いてくれた喜多ちゃんにさえも打ち明けることすらできないのか。──できない。やりたいのに、できない。私は結局ぼっちなのだ。

 自己表出に難儀し、他者とコミュニケーションを取ることができない欠陥品。バンドを何年続けようが、私という人間は変わらなかった。

 それはそうだろう。人はそんな簡単には変わらない。ギターを弾き始めたからといってバンドを組めるわけではない。高校を卒業したからといって友達ができるわけでもない。バンドが永遠に続くわけでもない。全てのバンドが永遠に続くわけではない。

 相変わらず私は日陰の人間なのである。日陰の中でも特に暗い、墨汁を垂らしたみたいに真っ暗な空間にのみ棲息しているような生物。そこに光なんて届かないから、私の周りに植物はいっぺんたりとも生えていない。自然というものは私の周りにはない。生命体も、建造物も、文明さえもない。あるのは堆積した自意識。私を引きずり込んで離さない泥濘。一度飲み込まれてしまったならば、自力で脱出できなくなる。何故なら現実が見えなくなるから。目の前に発生する事物よりも、存在しない財宝を掘り当てようと採掘することに注力する。存在しないなんてことは苦しいくらいに承知しているというのに、それでも一縷の望みに賭けて掘る。

 一縷に賭けるくらいなら現実を見た方が遥かに楽ちんだし、それで事が済む場合がほとんどだ。現実を見るということは行動すること。そして、行動すれば大抵の問題は解決する。だから採掘行為は時間の浪費でしかない。全てを解決できる圧倒的な存在が私の中から掘り当てられるわけがなくて、イメージを繰り返したところで掃きだめのスクラップしか見つからない。私ごときではすべてのイメージを原動力として音楽を成すことはできない。雪山の横道で事切れようとしている、ただの一般人だ。私なんかを一般に含めてしまっては一般人の平均値が大幅に下落してしまうだろうけれど、少なくとも、私は主人公的存在ではないのだ。そんな奴に何ができるだろうか? 

「ねえ」

 喜多ちゃんが呼びかける。私はぴくりとも動かない。

「ひとりちゃん」

 喜多ちゃんが表情を覗き見ようとしてくる。私は一言も発しない。

「おーい」

 喜多ちゃんが私の前で手を振る。私は一切反応を示さない。

「……そう」

 喜多ちゃんはとうとう立ち上がった。

 私はちっとも動けない。首を上下することも能わない。だから、喜多ちゃんが今どんな表情をしているかがわからない。愛想を尽かして帰ろうとしているのかもしれないし、私を部屋に置いていこうとしているのかもしれない。

 そうだとしたら、悲しい。仕方がないけど。わざわざ訪ねに来てくれた相手にこんな対応しかできない私なんて、見捨てられて当然の存在だろう。何しろ、対応という対応をしていない。ただ固まっているだけで歓迎すらしていない。それなのに、一丁前に悲しみを覚える権利がどこにある? 客観的に見て、至極当然の処置だと言う他ないだろう。それが分かっているのに、不相応にも私は悲しみをこさえてしまっていて、だから私は愚か者だ。本当に、どうしようもないくらいの愚か者なのだ。やはり、こんな奴にできることなど何もない。

「あのねえ、ひとりちゃん」

 喜多ちゃんの声が降り注ぎ、私の顎に指があてられる。

 

 ……指があてられている⁉

 

「話したくないなら、それはそれでしょうがないかもしれないけれど」

 私の顎が持ち上げられる。まるで深海から掬い上げるみたいに、ぐいっと指は押し上げる。

 引き上げられた視界には、少し眉を吊り上げた喜多ちゃんの、シャンパンゴールドの瞳がいっぱいに映っていた。

 そのようになるくらいまで、私は今まで彼女と接近したことがなかった。

「せめて、私を見て話してくれないかしら」

 まして顎クイされて迫られるだなんて、妄想したことすらなかった。

「言わなきゃ分からないし、伝えようとしなきゃ伝わらない。ひとりちゃんが本当は言いたくないんだってことは分かってる」

 静かな口調と裏腹に、視線は私の両目を突き刺すかのよう。瞬きすらせずじっと凝視していて、離すことを許さない迫力が放たれている。

「でも、私は寂しい。教えてくれてもいいじゃないって思うわ。だって──」

 私は言葉を発せない。発せるような余地もない。ただひたすらに、シャンパンゴールドに息を呑む。

 

「──バンドメンバーが悩んでいるんだから、力になってあげたいじゃない」

 

「──」

 

「一緒に音楽を鳴らして、一緒に売れて、一緒に凄くなってやるって誓った仲じゃない。仲間が悩んでいるなら、なんとかしてあげたいわよ」

「例え私達に言いたくないようなことだったとしても。ひとりちゃんが伝えたくなくっても、それでも私はどうにかしたい」

 

「私達は『結束バンド』なんだから」

 

 ──もしかして、私は、相当、下らないことを悩んでいたのではないだろうか。

 こんな風に臆面もなく自分を結束バンドのメンバーとして名乗ってしまえるような人に対して、辞めてしまうかもしれないだなんて。

 そんなわけないじゃないか。この目の前の、真剣そのものの表情で私の瞳を捉えて離そうとしない喜多ちゃんを、真剣に私に対して向き合っている喜多ちゃんを、抱えている不安がどのようなものかも分からないのに親身になってくれる喜多ちゃんを、どうしてそんなふうに思えよう。辞めるわけないじゃないか。喜多ちゃんを今までなんだと思っていたんだ。たかがリクルートスーツを着ていただけじゃないか。

 あれ、でも、そういえばリクルートスーツを着ていた。それって、つまり、どういうことなのだろう。リクルートスーツを着ていたということは、やっぱりそうじゃなくなろうとしている可能性があるのでは。いや、でも。つい先ほどまでは現実味があるように思えてしまっていたけれど、可能性が存在するということに怯えて動けなくなっていたけれど、喜多ちゃんは結束バンドと自称した。私のすぐ目の前、どころか目と鼻の先で。

 いくら私が視野狭窄であっても、それを見逃すほど白痴じゃない。

「だから、ひとりちゃんが何に悩んでるのか知りたい」

 静かな口調のまま、確かな質量を以て、喜多ちゃんはまっすぐ言葉をぶつける。

「結局、これは私のエゴでしかないけれど。それでも私は、ひとりちゃんの力になりたいの」

 その質量というのは感情だ。己の正直な感情がそのまま言葉に乗せられていて、だからこそ言葉に重みが乗る。この人は腹の内を割って話しているんだって、何の感情も包み隠してはいないのだと伝わってくる。

 それはこの上ないくらいに暴力的で、正しく、誠実なコミュニケーションだ。歪曲もせず取り繕うこともなく、純粋な感情をそのまま叩きつけるからこそ、心の奥底に響いてくる。迂遠なやり方では絶対に届かない心の壁を粉々に破壊して、私を感化せしめてくる。

 なんて誠実なのだろう。自分の感情を放出することも、それを相手にぶつけるのも、どこかに躊躇が挟まっていたならば行えないだろう。少しでも理屈を捏ねてしまったならば、それは心の壁を破壊する一撃たりえない。純粋でなければ、感情は暴力にまで昇華されない。フィルター越しに拳を放ったところで、それは単なるシャドーボクシングだ。相手をぶん殴ることこそが命題で、そこに罪悪感が生じてしまったら、繰り出す一撃はたちまち弱々しくなってしまう。

 つまるところ、自意識が問題なのだ。感情は本来検閲されることなく表出されるべきなのに、自意識越しにしてしまうせいで濾過されてしまう。繰り出された言葉は相手に届くこともなく地面に墜落し、拾う者すらなくスルーされてしまう。それは暴力でもないし、正しくもないし、誠実でもない。

 至近距離から感情で殴りつけられたことで、喜多ちゃんの思いは伝わっている。彼女は、悩む私を助けたい。そのために悩みの内容を聞き出そうとしている。喜多ちゃんにとって、私は同じ『結束バンド』の一員なのだから。

 ならば、私も答えよう。想いを直接届けよう。自意識に閉じこもっている場合ではない。いよいよ誠実にならなければならない。

 何故なら、喜多ちゃんは同じ『結束バンド』の一員であるからだ。

 

「喜多ちゃんは」

 私はきっと目に力を込め、獲物を前にしたライオンのように、喜多ちゃんの瞳の底をまっすぐ睥睨した。

 目を丸くした彼女の顎を、私は見上げた姿勢のまま摘んだ。これでもう、私から目は逸らさせない。もっとも彼女にそんな意思はないだろうけど。言うならば、先ほどのお返しである。

「就職するつもりなんですか」

 喜多ちゃんは目と鼻の先の距離にいるから、静かな口調にならざるを得ない。だからといって、感情が込められていない道理はない。それを行って見せたのは喜多ちゃんだから、これは餌食になってもらう他ない。

「えっ?」

 当の彼女は虚を付かれたように口をぽかんと開けた。私は続ける。

「えっ、あっ、私、見たんです。この間、喜多ちゃんがスーツを着ていたところ」

「……」

「それで、喜多ちゃん、就職活動中なのかなって。バンド辞めちゃうのかなって、思ってたん、ですけど……」

「…………」

「えっと、あの、喜多ちゃん?」

 喜多ちゃんは表情を変えない。ずっとあっけに取られたようにして、私の話を受け止めている。いや、受け止めているのかもわからない。受け流しているだけで、実のところ何も耳には入っていないのかもしれない。そう考えてしまうくらいに反応が薄い。

 感情をそのまま言葉に乗せているのに。少なくとも、自分ではそうしているつもりがあるのに。もしや、足りないのか。自分では精一杯コミュニケーションを取っているつもりでも、相手からしたらそうではないのか。

 不安が立ち上りはじめたその瞬間、喜多ちゃんが唐突に顎から手を離した。

「……そう。そういうこと」

 その声がやたらと低温だったものだから、怖気づいて、私も手を離してしまう。

「だから悩んでいたってこと? 私がバンド辞めるかもしれなくて、それで手につかなかったってこと?」

「は、はい」

 真顔。喜多ちゃんの顔面はスポイトで吸収されてしまったみたいに表情が抜け落ちていて、それはつまり無。真っ白で、何も描かれていなくて、低温で、凍り付いている。

「はあ」

 溜息。こめかみに手を当てて、やれやれとかぶりを振る。それはさながら、「処置なし」と言われているかのようで。

「ひとりちゃん」

 冷えついた声で喜多ちゃんは要求する。

「ギター、借りてもいいかしら」

「えっあっ」

「いいかしら?」

「あっはい」

 許可を取り付けると、彼女は部屋の隅に立てかけられているギターのうちの一つを手に取った。チューニングを行い、六、五、四、三、二、一弦、調律して、一気にストローク。アンプの奥から獣の咆哮のような鋼鉄音が轟いた。

 準備完了だ。喜多ちゃんは口元を引き結び、六弦に手を当て臨戦態勢。数瞬の間を置いて、一気にコードを掻き毟る。

 そうして、喜多ちゃんの手元で音が爆発した。

 水中に赤熱した金属の球をぶち込むと、周囲の水は破裂したかのように泡を吹きだす。それと同じように、喜多ちゃんは凄まじい爆心地となって、音を周囲に弾けさせた。

 それは鋭くて、硬くて、冷たくて、質量があって、とどのつまりはロックンロール。何もかもを吹き飛ばしていく鉄の風。社会に適合できない者どもが社会に傷跡を残そうとする魂の叫び。

 ただかっこいい音がロックなのではない。耳障りがいい音がロックなわけでもない。そんなものは上澄みだ。たまたま地上に這い上がれて、社会に受容されることができた勝者の歌だ。

 それはそれで悪い音楽ではないかもしれないが、私達が奏でているのはそれではない。私達は弱者の音楽を奏でている。鬱屈とした感情を推進力に、音を吹き飛ばして快楽を沸かすのだ。

 私は目を丸くして、喜多ちゃんの音を聞いていた。これは紛れもなく、私達の音だ。『結束バンド』が鳴らしている音楽に相違なかった。

 きらきらしていない。輝いてもいない。空まで飛び跳ねることはおろか、地上に這い上がることもまだできていない。しかし、薄暗い地下ではきちんと映える。

 そうだ。喜多ちゃんは社会不適合者(バンドマン)だった。鼓膜をぶん殴るこの音たちが痛いくらいに証明しているじゃないか。社会適合者にこの音は演奏できないし、しようとも思わないだろう。

 ああ、なんてことだろう! 喜多ちゃんがとっくにこっち側に堕ちてきていることなんて分かっていた筈だったのに。大学進学した友達が就職するからといって、どうしてそれに流されて安定的な人生を送ろうと志向できるのだろう。こんな音を、喜多ちゃんは鳴らせるのに! 

 結束バンドのギターボーカルは、いつもライブでやるみたいに直立しながら客席の方を真っすぐ見据えて弾いていた。ここでは客は私だけ。一対一で、お互いに前を向いて、視線が交わされる。

 

 

 目を見開いているのを確認した喜多ちゃんが微かに口角を上げるところを、私は見た。

 

 

 〇

 

「どうだったかしら」

 一通り音を鳴らし終わった喜多ちゃんは、左手でギターを支えたまま私の顔を覗き込んでくる。

「私、結束バンドを辞めちゃいそう?」

 もはやわざとらしいまでに、私の目の底を凝視してくる。私は精一杯に口角を吊り上げ、それに応じた。

「えっ、いえ。……絶対、やめそうにない、です」

 いつものようにどもりまくって震えた声。相変わらず、コミュ障丸出しの反応に、喜多ちゃんは「そう」と微笑んだ。

「伝わってよかったわ」

 本当にその通りである。私は深く頷いた。

 目を合わせようとしなければ、伝わるものも伝わらない。いくら怖がったところで、目を合わせなければ始まらない。それに、いざ目に収めてみたら、怖がっていたものは案外大したものではなかった、なんてことがあるかもしれないのだ。

 だから、私は尋ねた。

「あっあの喜多ちゃん。どうしてスーツを着ていたんですか?」

「えっ? ああ、そうねえ」

 喜多ちゃんは眉を下げ、きまりが悪そうに唸った後、こう言った。

「ひとりちゃん。スーツを着るアルバイトがあるって知ってる?」

「えっ」

「……まあ、そんな気はしていたわ」

 唖然とする私に、喜多ちゃんは肩をすくめて苦笑した。

「結構、そういうバイトってあるんだけど……。ひとりちゃん、STARRY以外でアルバイトしていないものねえ」

 動画再生数で一応の収入を得ている以上、STARRYでさえ特に働く意義が見いだせないというのに、他のバイトのことなんて調べているはずもなく。スーツなんて、社会人か就活生しか着ないものだと思っていた。

 なんということだろう。単に私が世間知らずだった、というだけの話だったのか。

「あっごめんなさい」

 刹那、私は謝罪する。私が社会とあまりに接点がなかったばかりに早とちりしてしまって、そのせいで全体練習を一回駄目にして、おまけに喜多ちゃんをわざわざこんな遠いところまで来させてしまって。

「本当よね」

 喜多ちゃんは重々しく頷いた。

「私がバンドを辞めるかもって思われていただなんて」

「あっえっ、ごめんなさい」

「私を音楽の道に進ませたのは、ひとりちゃんなのに」

「ごめんなさ──え?」

 私が、喜多ちゃんを? 

「あれ、覚えてないの? ひとりちゃん、私を引き留めてくれたじゃない」

 意外そうに、ともすれば心外そうに喜多ちゃんは口を手で覆う。

「一度逃げ出した私にバンドを続けるよう言ったのは、ひとりちゃんじゃない」

 どこか攻めるような、詰るような、糾弾するような口調。それで、思い出した。高校に入ってまだ一年目の春、喜多ちゃんをSTARRYに連れて行ったときのこと。一度ライブ直前になって逃げ出した負い目があるからと身を退こうとした喜多ちゃんを、私が引き留めたことがあった。

「あのとき、『もう一回結束バンドに入りませんか』って言ってくれたから、私はこうして今でも音楽をやってるの。あれがなかったら、私は今頃ふつうの人生を送っていたんだと思うわ」

「そっそれは」

 それは、いいことなのではないだろうか。普通とはこれから何十年も人生を過ごしていく上でこの上なく素敵な形容であるように思える。適当な大学に進学して、女子大生として学生生活を更に四年も謳歌し、適当な会社に就職した後にいい男性と付き合い、寿退社して子供を作り、円満な家庭を築いて老後は孫を愛でる。無難で安定していて幸せな人生だ。だからこそ普通となったのであり、そこからあぶれた者は普通ではなくなる。

 普通でなくなったものに待ち受けているのは過酷な生存競争の末の二者択一だ。勝者か、敗者か。特別になれるのか、あるいは路傍の石ころか。大衆に受容されて偶像めいた存在になるか、見向きもされずに小僧に蹴っ飛ばされる存在になるか。

 勝者になるのであれば構わない。しかし現実はそううまくいかない。現に私達だって、メジャーデビューの段には到達できていない。易々とスターダムを駆け上れるほど世の中は甘くない。

 私達は決して、物語の主人公なんかじゃない。世界が私を中心に回っているわけでないことくらい分かっている。成功が確約されているわけがない。この先どうなるかなんて分からない。私達は雪山の中にいる。これから山頂に到達できるか、それとも凍死して葬送すらされずに人々の記憶から消えていくか、予想だって出来やしない。普通からあぶれた者にとって、未来は不確定だ。その点に関しては、今後の展望が立てやすい普通の人生の方が安心感はある。

 しかし、喜多ちゃんは断定する。

「そんなの、つまらない人生だわ。行く末が予想できる道を歩んだところで、退屈すぎて仕方ないわよ」

 それは、どうしようもなく、どうあっても擁護できないくらい、「普通」の規定からは外れていて。

「それなら感情を、情念を音に乗せて届けていた方がいいわ。安心なんかなくても、ないからこそ、それは楽しくて、幸せで、特別なんだわ」

 故に、途方もなく、紛れもなく、ロックンロールだった。

 目の前にいる結束バンドのギターボーカルは不敵に口角を吊り上げる。

「私をこうしたのは、ひとりちゃんよ」

 唾を飲み込む私に、彼女は、

「だから、責任は取ってもらわなくちゃ」

「どっ、どうすればいいんですか」

「決まってるじゃない。演奏すればいいのよ」

 ストラップを脱いで、ギターを私に差し出して、

「ギターをかき鳴らして、好き勝手に散らして、全て吹き飛ばしてちょうだい。もう気兼ねなく演奏できるでしょう?」

 私が受け取ったのを見て、花が咲くみたいににっこりと笑った。

 

「だって、あなたはギターヒーローなんだから」

 

 

 深く、息を吸った。

 くぐもった部屋の温々しい空気が肺を刺激し、古い空気を押し流していく。しっかり換気をしているわけではないので、新鮮味も旨味も何もない空気ではあったが、己のスイッチを切り替えるのには十分だった。

 ピックを手に取り、左手をEのコードに当て、右腕を振り下ろす。

 音が鳴る。鋼鉄の音が、私の奥底の情動が増幅されて、回路をぶち破って放出される。

 その空気の振動によって神経系が興奮し、すぐに欲求不満になって右腕を動かす指令を出す。

 両目で指先を捉え、左手を捉え、右手を捉え、それからたった一人しかいない観客の表情を捉える。

 彼女は満足げに笑っていた。一方の私は、どんな表情をしていたのだろう? 自分では分からない。

 けれど、目と目が合った。ライブ会場は私の部屋、狭い中に観客と演者が二人だけ。半径五メートル。

 

 それで、今私は喜多ちゃんとコミュニケーションを取っている。心が通じている。繋いでいるのだって、確信を持つことができたのだ。

 

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