ぼっち・ざ・ろっく! 短編集   作:星見秋

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PAさんの不健康メシ
うどんに七味唐辛子をドバドバかけるPAさん


 ああ、労働ってかったるい! 現実ってつまらない! 人生、面白くない!

 

 ――溜息、退勤、24時。下北沢の路地を進みながら、私は秋空を見上げます。当然のように暗く、雑に輝くライブハウスの電飾のせいで星々も見えません。美しさもエモさもなく、空に広がっているのはつまらない真っ暗闇だけ。普通の人なら寝ている時間に働いているのですから、せめて満天の星空で出迎えてくれたら、少しは心身も満たされると思うのですが。残念ながら、そういう贅沢は許されないようです。

 もっとも、出勤時間はそれ相応に遅いですし、きちんとお給料は貰っていますから、労基に相談するほどの待遇というわけではないのですが。

 むしろ、今の職場――STARRYは、それなりに良い方の環境だと思います。深夜営業をやってないおかげで、残業も殆どないですし、仮に発生したとしてもケツは見えていますし。休暇だって貰えますから。

 でも、それはそれとして、こんな時間まで働かされることに関してはかなり不満です。確かに、PAというものがそもそもそういう仕事ですとか、一日トータルの労働時間はブラックだなんだと騒ぎ立てるほどではないとか、仮に朝出勤だったとしても私が起きられるわけないことですとか、深夜まで労働させられても仕方ないような理屈は揃っています。

 ですが、理屈の問題ではありません。感情の問題なのです。いかに理論武装を固めたとて、心の奥底から湧き出る純粋な感情を抑えることはできません。

 労働ってかったるい。労働ってめんどくさい。労働ってつまらない!

 PAの仕事自体は楽しいですし、やりがいも感じますけど、それはそれとしてこんな時間まで働きたくない! 何時間も労働したくない! かったるいしつまんないし、面倒くさい!!

 溜息を吐きながら、私は帰路へと歩いていきます。

 勤労によるストレスのせいか、心中はだいぶ穏やかでありません。そのせいでしょうか、私はいつもよりも大きな歩幅で、すたすたとした歩き方をしていました。競歩でもやっているのかと、自分でも思うくらいの速度です。けれど、スピードを緩める気は起きませんでした。

 もうなんでもいいから早く帰りたい。とりあえず労働のことを忘れたい。このストレスから解放されたい。

 そう希求していれば、歩幅も大きくなるというものです。

 家に着いたら何をしよう。シャワーを浴びてご飯を食べて、配信でもしようかな。それとも動画でも見ようかな。睡眠はありえないですね。こんなに労働に対して怨嗟を吐いているのに、明日に備えて睡眠を優先してしまったら、まるで私が労働するために生まれてきたみたいじゃないですか。まあ、大人ってそういう存在なのかもしれませんけど。……人生ってつまんない!

 そんなふうに考えながら歩いていた、そのときのことです。

 道端に、成人女性が倒れていました。べっこべこに凹んだ紙パックの鬼殺しを手に、緩んだ表情で目を閉じています。服装はワンピース一丁で、夜中にする格好としてはふさわしくありません。恐らく、どこかに上着を置き忘れてしまったのでしょう。

 私は固まりました。その女性がどう見ても知り合いだったからです。付け加えるなら、今一番会いたくない人でもありました。

 今は私を認識していないようですが、気づかれてしまったら最後、酒の席に付き合わされる羽目になってしまうでしょう。それだけならまだいいのですが、どうせ彼女のことです。すぐに最悪な酔い方をして、私がお世話をする羽目になるでしょう。

 せっかく労働から解放されたのに、子守りなんてしてられません。相手は子供ではなく大人なんですから、尚更です。

 触らぬ酔っ払いに祟りなし。私は気づかれないよう、彼女から一番離れているところを、忍び足で通り過ぎようとしました。

 結論から言えば、それは失敗に終わりました。

「そこの姉ちゃん! なんか見覚えあるんだけど!」

 残念ながら、私が通りすぎるよりも、廣井きくりさんが認知する方が早かったのです。

 彼女はいっそ清々しいまでに酩酊で表情をとろけさせながら、私に目を合わせてきます。そんなになるまで飲んでいたのなら、意識を失っていればよかったのに。

 もう何度目になるかわからない溜息を吐きながら、私は何食わぬ表情で言いました。

「いえ、人違いでは?」

 

 

 もちろん、そんな嘘で切り抜けられるわけがなく。

「いやー、やっぱり冷えた身体には熱燗だねぇ、身体が芯から温まるよ」

 深夜帯であるにも関わらず、廣井さんは大声で言い放ちます。仮に深夜帯でなくとも、居酒屋以外では決して許されないであろう声量です。

「さっきぶっ倒れてたのに、なんでまだ吞んでるんですか?」

「それは愚問だよ。迎え酒って言ってね、お酒で辛いときはお酒を飲むと辛くなくなるんだよ」

「最悪なスパイラルですね……」

「幸せスパイラルって呼んでよ」

「不健康スパイラルです」

「えー健康だよー。というか、そっちはお酒飲まなくていいの?」

「今日はもともと飲む予定もなかったですし」

 私はこれ見よがしにお冷を飲みます。お酒なんて飲んでしまったら、帰宅後の自由時間がアルコールのせいで台無しになってしまいます。

 ただでさえ台無しになっている気があるというのに、これ以上時間を奪われるわけにはいきません。せめてもの反抗です。

「えー、せっかくだし飲んだらいいのに~。付き合わせちゃってるんだし、奢ってあげるよ」

 廣井さんが意外なことを口にします。「えっ?」と、私は目を見開いて、

「そんなお金あったんですか? てっきり私、奢らされるものかと」

「失礼な。拾ってくれた恩人に奢ってもらおうとするほど、私クズじゃないよ。それに今日はお金あるんだよね。なんてったって稼いできたからさ。ライブって最高だよね。お金も手に入るし。酒も飲める。バンドマンやっててよかったって思える瞬間だよねえ。あー音楽って最高。ロックって最高。酒って最高~。払える金あるって最高だなあ。ほら見てよ、こんなにお金が入ったんだから。こんなに、こんなに……あれ、財布がない。どこに行ったんだろ。あ、上着のポケットの中だった。じゃあ私、一文無しじゃん! あはは! ……ごめんねえ、上着取り戻したらすぐ返すから、ちょっとここ払っといてくんない?」

 頭を掻きながら、クズが空虚に笑います。どうせお勘定をする羽目になると思っていましたので、予定調和といったところではあります。あるのですが、それはそれとして、私にはこの女を一発ぶん殴っていい権利がある気がしてなりません。

 この野郎、どうしてくれようか。お冷を握る手に力がこもります。これ以上不用意に神経を逆撫でされてしまったら、怒りにまかせて思いっきりお水をぶっかけてしまうかもしれません。そうしてそのまま、この文無し女を残して店から出ていくのです。――あれ、けっこう魅力的ですね。別に怒りに身を任せずとも、ぶっかけちゃってもいいかもしれません。

 私がコップの水面をじっと見つめていると、

「まあまあ、なんか頼んでよ。奢ってあげるわけにはいかないけれどさ、何か頼んどいたほうがいいって」

 支払ってもらう身分の癖に、ぬけぬけと廣井さんが提案してきます。

「夜中なんだしさ、お酒飲まないなら、せめて身体を温めるもの食べた方がいいって」

「はあ。……お気遣いありがとうございます」

 私はコップを静かに置きました。廣井さんは気にせず続けます。

「本当に、最近は寒くなったよねえ。そりゃ夏場だって、夜中に道端で気絶してたら体調悪くなるかもしれないけどさ、これからの季節でそういうことしてたらほんとにやばいよ。死んじゃうよねえ。あー、寒い時期って嫌いだなあ。そこらへんで酔いつぶれちゃうとくたばっちゃうかもしれないってのがさ。流石にまだ死にたくはないよねえ。お金はないし逃げ道もねえし、25なんてとっくに過ぎちゃったけど、それでも下らねー死に方だけはしたくないよねえ。下らねー生き方もしたくないけどさ。……あーでも、こうして年下の顔見知りの子を無理やり付き合わせておいて、払えるお金がなくて奢ってもらおうとするってのは、十分しょうもねえ生き方なのかもしんないなあ。あーやばい、現実認識しちゃった! ごめんお姉さん、焼酎ある? 焼酎! ロックで!」

「しれっとお酒を追加しないでくださいよ。現実から逃げないでください」

「無茶言わないでよ。酔いが覚めちゃったら、私もう生きていけないよ」

「そこはもう頑張ってくださいよ……」

 あー、やっぱり面倒くさい。どうしてこんなにローになっているんでしょうか、この人。私、この人を励ましてあげなきゃいけないんでしょうか? 全っ然相手したくないんですけど。

 傍若無人に酔って暴れられるのはもちろん大迷惑ですが、だからといって勝手に一人で落ち込まれても、それはそれで傍若無人ですし迷惑です。暴れるだけなら力で取り押さえればいい分、今の廣井さんよりはまだ対処が楽な気さえしてきます。いや、だからといって暴れられちゃったら、私はお冷をぶっかけて帰りますが。

 ああ、本当に帰りたい。面倒くさい酔っ払いの相手というのは、かかる心労を考えると労働よりもきついです。労働と違って給料は出ないですし、何ならこの女が飲む酒は私のポケットから出るわけで、むしろお金が減っていきます。つまり、自由時間とお金を引き換えに、苦痛や虚無感、憤怒を得ているような状況です。

 せっかく労働が終わったというのに、どうして追加でこんなものを体験させられなければならないのでしょうか。

 俯く私の横で、メニュー表を読んでいた廣井さんが声を上げます。

「あー、ここいいちこと博多の舞しかないじゃん! うーん、いいちこと博多の舞かあ。ロックで飲むんなら芋焼酎の方がいいよねえ。すみませーん、さっきの注文って取り替えられますー? あ、無理? じゃあ注文追加で、さつま白波お願いしまーす。もちろんロックで! いやあ、最近さつま白波置いてるところ増えたよね。昔は霧島系とかばっかりだったんだけどな。あ、なんか頼む?」

 ふやけた口調とともに差し出してきたメニュー表を奪い取り、睨みつけるように目を通します。流石に、真剣にむかつきました。やっぱりお冷をぶっかけて帰ることにしましょう。その前に、なんか食べてからで。

 憤懣のやる方を食に求め、血眼になって良さそうなメニューを探します。少しでも荒んだ心を癒してくれるような、怒りを鎮めてくれるような食べ物はないのでしょうか、と。

 そしてそれは、喜ばしいことに見つかりました。

「すみません、おうどん一人分お願いします」

 手を挙げ、私は注文します。隣から「おうどん?」と、意表を突かれたような声。

 メニュー表を返すと、彼女は「うわあ」と目を丸くします。

「本当だ。酒しか目に入ってなかったけど、この店ってうどんも置いてあるんだ。うーん、たまにあるよね、そういうとこ。うーん、うどん、うどんかあ。うどんってあんまり食べないんだよなあ。というか、うどん食いたいって思う瞬間ってないよねえ。食べると酔い覚めちゃうし、高級品だし。はなまる行くようなお金あったら鬼殺し二本買えちゃうしなあ。でもこれから寒くなってくるし、うどんみたいなあったかいものの需要ってのは増えるかもしんないね。確かにあったかいおつゆ飲んでると心が落ち着くっていうか、ほっこりするよねえ。呑みの締めにはちょうどいいっていうか。でも私、酔いがさめちゃったらおしまいなんだよなー。食いたくねー、酔い覚ますもんなんかいらねー。常に酔いてー」

 だらだらと、アル中が終わっていることを口走り続けています。もはや相手をする気も起きません。しかしこういう手合いは相手をされなかったとしても、一人で勝手に喋り続けていくものです。相手をされないことに慣れていて、それくらいでは動じないということなのでしょう。

 酔っ払いの戯言を聞き流しながら、私は薬味を探します。卓の上には、醤油、胡椒、酢、辣油、山椒、――七味唐辛子。

 あるじゃないですか。私は頬を緩めます。これがなかったら始まりません。酔っ払いの言う通り、呑みの〆としてはちょうどいいだけの、ほっこりと身体を温めるだけのものとなってしまうでしょう。そんなの、刺激が足りません。温かみをいくら摂取したところで、ほっこりはすれど気持ちよくはならないのです。

 私はお冷を口にします。氷水が喉元を通過し、食堂を通って、胃の中に入り込んでいきます。入店してから時間が経過していることもあり、水に浮かんでいた氷は既に小指の先ほどの大きさとなっていましたが、それでも流石は氷水です。キンッキンに冷えていただけはあって、身体のどこを流れているかがはっきり伝わってきます。こんなに冷たい代物を頭から浴びたら、言葉通りの意味で、頭が冷やされるに違いありません。

 コップの水を飲み干し、私はふうと一息つきます。

 ちょうどそのタイミングでうどんがやってきました。

 注文のうどんと焼酎のロックでーす、どんぶりとグラスを手にしたバイトの学生さんは私達の顔を見るなり、どちらが何を注文したのかすぐに察したようで、迷わず焼酎を廣井さん、うどんを私の方に置きました。

 どんぶりを覗き込んでみると、そこには太めの白麵に多くもなければ少なくもない葱、少量の揚げ玉。それから、芳醇な湯気。私の顔面に接触し、メイクごと表皮を蒸らしていきます。眉をひそめかけましたが、どうせ今日はこれを食べたらもう帰るだけなのです。そこまで気にすることでもないでしょう。

「あー、やばいな。気分で注文追加しちゃったけど、この焼酎すら飲めんかもしれない」

 ……隣の、後先考えない酔っ払いも気にしなくていいでしょう。この人に関しては気にしたら負けの域です。無視するに限ります。

 先ほど探した七味を手に取ります。蓋を開き、どんぶりに向かって振りかけます。

 どんぶりに向かって振りかけます。

 どんぶりに向かって振りかけます。

 どんぶりに向かって振りかけます。

 振りかけます。

 振りかけます。

 振りかけます。

 振りかけます。

 振りかけます。

 振りかけます。

 

「えっ」

 

 隣から素っ頓狂な声が聞こえてきますが、気にしたら負けです。

 私は尚も、七味唐辛子を降りかけ続けます。

 そうして、どんぶりを上から覗き込んでも、七味唐辛子しか見えなくなった辺りで、私は手を止めました。

 お出汁の匂いはどこへやら。赤黄色の粉で蓋をされていて、たち上るのは鼻をつんざく刺激臭。七味唐辛子は本来、料理のアクセントとして豊かな風味をもたらしてくれるものではありますが、それは少量しか使わなかったときの話です。そりゃ唐辛子なのですから。大量に使用したのなら、刺激臭が生じるのは自然なことです。とはいえ所詮は七味唐辛子ですので、刺激を追求しているお店のそれとは比べるべくもないのですが。普通にココイチの10辛の方が刺激ありますし。

 ですが、七味には七味のいいところがあります。何しろ七味には風味があるのです。しかも、少量でもアクセントとしては十分に活躍できるくらいには薫り高いそれをドバドバかけているのですから、香りの濃さたるや、相当なものです。相当が過ぎて、刺激臭と形容できるほどですし。それに、ちゃんと辛みがあるのです。 刺激的食品の中ではそれほどパワーを感じないとはいえ、それでも刺激的は刺激的。濃過ぎる風味と相まって、七味でしか体験できない味わいを感じることができます。今から、それを楽しむのです。

 箸を手に取り、粉まみれのおつゆに突っ込みます。真っ赤な液体が揺れて、埋まっていた麺が僅かに姿を現します。

 それを無造作に箸で持ち上げると、なんということでしょう。白かったはずの麺は赤粉が引っ付きまくっていて、さながら傷だらけ。もともとは陶器のように白かった肌が、暴行傷害を受けた結果、青痣や擦り傷まみれとなってしまった、というような様相です。

 それを、私はひと思いに、音を立てて吸い上げます。ズゾゾッ、と。

 口の中に傷の味が広がります。それはつまり引っ付いた七味の味。口に入れた瞬間にほっこりするような優しい味を、全て塗りつぶす悪魔的刺激。お出汁の風味は七味の風味に書き換えられていて、その上それが濃すぎるせいで、鼻まで馬鹿にしていくようで。そこに、うどんのもちもちとした食感。讃岐うどんのような、コシの強いタイプの麺ではなさそうです。

 私はずるずると麺を啜ります。勢いよく、かき込むように、間を置かないようにして、ずるずると啜ります。

 しょうがないことではありますが、一口のパワーという点では、七味は高くはありません。パワーの高すぎるものだと、一回口に入れただけでうわっ辛すぎ!? となってしまうのですけれど。残念ですが、その辺の七味にそこまでのスコヴィル値は望めません。もっとも、ブレンド次第で七味のスコヴィル値自体はいくらでも操作できるんですけどね。

 ですから、快楽に昇華できるほどの刺激を得るためには、矢継ぎ早に外傷を取り込んでいく必要があるわけです。一息入れる間もなく吸い続けることによって、舌の痺れはどんどん加算されていくのです。

 風味が鼻腔を突き抜けていきます。口内がぼちぼち痛みを認識し始めます。それでも構わず、私は麺を啜ります。

 一本の矢では簡単に折れてしまいますが、三本の矢ならば決して折れない。それと同じように、一口だけなら大したことはなくても、三口、四口と続けることによって、ちゃんと刺激を受け取ることができるのです。

 その刺激が脳みそまで響いて、私の全神経が躍動しているかのような高揚感を覚えます。炎が燃え盛っているのではないかと思うほど、身体の内側が熱くなっていきます。そして、その火の勢いは私が七味を取り入れる度に強まっていきます。なんだか溶鉱炉になっている気分です。これがいわゆる、人間火力発電所というやつでしょうか。

 しかし、形あるものには必ず終わりは訪れるものです。麺を掴もうとしておつゆの中に入れた箸が、何の手応えもなくただ汁の中をスイッと縦断するに留まります。たまたま麺に箸が当たらなかっただけかと思い、もう何度か箸をおつゆの中で動かしましたが、やはり感触はありません。

 おつゆが赤粉に覆い隠されているせいで、中身がどうなっているのかは分からなかったのですが、底に麺が沈んでいるということもなさそうです。

 私はふうと息を入れます。刺激を絶えず受け続けた口の中に空気が入り込み、痺れきった味覚を少しばかり癒してくれます。

 ですが、それは束の間の休息に過ぎません。私はどんぶりを持ち上げると、今なお表面が真っ赤で透明性皆無なおつゆを、口の中へと流し込みます。

 ごく、ごく、ごく、ごく。麺に引っ付くことなく、おつゆの中に留まっていた七味唐辛子が、一気に私の口へと入っていきます。

 さながら全軍突撃です。出撃せず、本部で待機していた残存兵が、全て口内になだれ込んで、味覚をめちゃめちゃに攻撃してきます。その破壊力たるや、麺に引っ付いていたやつらとは比べ物にもなりません。何しろ、全勢力がやってきているのですから。おつゆの表面に積もっていたものは勿論、おつゆの底に沈んでいた、外からは確認できなかったものまで一斉に飛び込んでくるのですから、物量が違います。これこそまさに矢継ぎ早。ただの粉に過ぎないはずの七味唐辛子が、質量を持って襲いかかってきているようにさえ感じます。刺激は最高潮、舌はしきりに辛さを訴え、それと同じだけ脳が快感を覚えます。

 ああ、これこれ。これが、七味うどんで一番気持ちいい瞬間なんですよ。

 おつゆの風味や出汁といった、本来うどんを味わうのに一番大事な要素をことごとく台無しにした、その落とし前をつけているこの瞬間! ドバドバと七味をかけた甲斐があるってもんです。七味とともに押し寄せるこの多幸感――脳汁は、そうそう味わえるものではありません。

 七味汁を最後の一滴まで飲み干し、私はどんぶりをごとんと起きます。そうして、ぷはあ、と息を吐きました。

 隣から、唖然とした声が聞こえてきます。

「いや……凄いね、その食べ方。お姉さん圧倒されちゃったよ」

 圧倒、って。その言い方はちょっと大仰すぎるような気がします。

「そんなですか? 別にそこまで珍しい食べ方でもないと思うんですけど」

「その食べ方してるからそう思ってるだけだって。実際のところ、十人に一人いるかどうかも怪しくない? それって確率的には一割未満だよ?」

「よ、酔っぱらいのくせに核心を突いてきますね……」

 まあ、確かに本来想定されているようなうどんの食べ方ではありませんけど。いくらなんでも、こういう食べ方が一般的だと言ってのけるほど、自己を正当化しようとする気はありません。

 それに、こういう食べ方してる人ってあんまり見たことはないですし。廣井さんが言った十人に一人もいないという割合は、実際正しいように感じます。

 ですが他ならぬこの人に指摘されるというのは、いささか釈然としません。異常な量のアルコールを摂取し、当然のように自分を制御できなくなって、そこらの路地でぶっ倒れているような人なのに。

 その当人は、「えー、酔っぱらいが正論口にしてもいいじゃ〜ん」と笑います。ヘラヘラと軽薄な、アルコールで浮かべる笑み。ある意味それはこの上なく空虚で、酔っているからこそ作り出せる表情です。

「別にそういうわけではないですけど」

 言いながら、私はお冷を飲もうとします。が、コップの中身は空でした。そういえば、うどんを食べる前に全部飲みきっていたんでした。仕方がないので店員さんを呼び、お冷のおかわりをお願いしてから、私は言葉を続けます。

「人のうどんの食べ方に驚く前に、自分のお酒との付き合い方を考えた方がいいんじゃないかって、思っただけです」

「うわー、手厳しいなあ」

 廣井さんは額に手を当てます。

「でもそっか、私もそうだよねえ。こんな前後不覚になるくらいまで飲みまくって、路上に放置されてる女なんて、そうそういるもんじゃないし。常に鬼殺し手放せないくらいアルコールに取り憑かれている奴も、探せばいくらでもいるかもしれないけど、そんなに多くはないよなあ」

 自分の発言に頷きながら、彼女は焼酎に口を付けます。

 まだ飲むのかよ、と思いましたが、発言ができているということは前後不覚にはまだ遠いということでもあります。前後不覚でないということは、彼女の中ではまだ飲める、ということなのでしょう。

 廣井さんは口からグラスを離し、ぷはあと息を吐いた後、ぽそっと呟きました。

「そういう意味では、私達って同じ穴の狢なのかもねえ」

「は?」

 私はぱちくりと瞬きします。

「一緒にしないでくださいよ」

「えー。変な食べ方と変な飲み方するの、そんなに違う?」

「違いますよ。だって私、無理やり酒の席に付き合わせようとはしないですから」

 露骨な嫌味に、廣井さんは頬を掻き。

「それはごめんだけどさー。けど、あの七味のかけっぷりは、相当なインパクトなあったよ。私達は知り合いだけどさ、何も接点がない人が隣で突然ああいう食べ方始めたら、悪い意味で印象に残る気がするなー」

 そうなんでしょうか。まあ、見た目にインパクトがあること自体は否定しませんが。市民権を得ている食べ方でないのは確かです。

 でも、市民権は得ていなくとも、少しは愛好家がいる食べ方ではありますし。隣の人が七味うどんを食べていたとしても、ああそういう人なんだなって、個性の一つとして受け取ってもらえるんじゃないかなって思っていたんですが……。

 そのようなことを話すと、廣井さんは笑います。先程までのアルコール由来の笑みではなく、明確に苦笑でした。

「それを言ったら、私の飲み方だって個性の一つになっちゃうしなあ」

 私ははっとして、口元を手で覆います。アル中が隣の席に座っていたとして、ああそういう人なんだなと、好意的に捉えるかと言われたら、そんなことはありません。普通に眉を潜めます。

 それと同じようなことを、私もされているということなのでしょうか。うわあ、と眉を潜められているのでしょうか。

「だけどまあ、人から何思われたところで知ったこっちゃないよねえ。そう思わないとやってられないって言う方が正しいんだけどさ。他人の目線なんて気にしてたらお酒なんか飲めないし、七味唐辛子だってぶっかけられないよ。人の目なんか気にして、気持ちよくなれるわけないのにねえ」

 廣井さんの言葉が、的を射ているように感じられます。

 しかしそれではよくありません。この酔っぱらいの弁に共感するということは、同じ狢であることの自己証明にもなってしまうじゃないですか。

 とはいえ、人の目なんか気にせず、食べたいように食べて何が悪いっていうのは、本当に思っていることですし。

 やっぱり廣井さんの言う通り、私達って同類なのでしょうか。

 ショックを受けている私の下に、先程の学生バイトさんがお冷を片手にやってきます。「お冷おかわりでーす」学生さんは私と廣井さんの顔を交互に見て、少しだけ動きを止めます。今回はどちらが注文したのか、顔を見るだけではわからなかったのでしょう。

 私は少し手を上げ、注文者であることをアピールします。無事にお水は届けられ、私はコップに触ります。

 氷水が入ってるだけあって、しっかりと冷たい感触が伝わってきます。これを身体にぶっかけられたら、風邪を引くことうけあいでしょう。

 廣井さんに目を向けてみると、自分で頼んだ焼酎を空かそうと、グラスを口へと――いや、喉へと傾けています。首を直角に曲げて、グラスの中身を喉の奥へと流し込むみたいにしています。

 私はお冷を握る手に力を込めました。うどんを注文したときは、お冷をこの人にぶっかけるつもりでした。

 思いっきり氷水を身体にかけ、さっさと会計を済ませて店から脱出しようと、廣井さんには頭を物理的に冷やしてもらおうと思っていたのですが。

 でも、今は――

 

 ――私は、お冷に口を付けました。

 首を直角に曲げ、喉の奥へと流し込むように、コップを傾けていきます。それに合わせて、水と氷がコップを滑っていきます。

 氷は上唇で受け止め、水だけを口内に入れるようにして飲みます。ごくりごくりと喉元を通っていって、そのあまりの冷たさに、食道のどの辺を流れているのかがダイレクトに伝わってきます。

 ああ、冷たい。お冷と言うのですから当然ではありますが。

 直接ぶっかけられずとも、飲むだけで身体や頭を冷やすのには十分すぎるほどです。

 

 なんだか、身体の芯で燃え盛っていた溶鉱炉の炎が、どんどん消火されていくような感覚を覚えました。

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