下北沢の松屋が、セルフサービス式になっていました。
お昼ごはんを食べようとコンビニへ向かっていた途中で、前まで改装工事中だった松屋が営業再開しているのを発見し。
せっかくですから、今日はコンビニごはんでなく牛丼にしましょうと、入店してみたところ、店内風景が大きく様変わりしていたのです。
まずU字カウンターがなくなっていました。店員さんが食券を回収したり、料理を配膳したりするためのスペースが開けられた、牛丼屋特有のカウンター。それがどこにも見当たらず、あるのは普通のカウンターやテーブル席のみ。その奥にはいかにも提供口然とした、やたらと開けっ広げな厨房があって、天井近くにはモニターが設置されています。
牛丼屋というよりは、フードコートやサービスエリアの様相です。改装工事を経て新しくなった壁や床が、よりその印象を強めてきます。
これが、新時代の松屋ということなのでしょうか。令和の世の中においては、牛丼屋ですら小綺麗であることを求められるのでしょうか。
あ~あ、松屋も変わっちゃったなあ。昔はこんなに身なりとか気にしてなかったのに。メジャーデビューした瞬間に推すのをやめるタイプのバンドファンが言いそうな字句が頭を過ぎります。あるいは、音楽性の変化についていけなくなって、あのバンドはセカンドアルバムまで、と言い出すような類の元ファンでしょうか。
まあ、そういう厄介な行動をしてしまう方々ほど、強烈な感情を松屋に対して抱いていたかと言われると、そんなことはありません。別に内装が変化しているからって、何も頼まず回れ右するほど、思い入れがあったわけではないですし。というか、そんなことをするのはそもそも気が引けます。既に一度入店しているのですから。
何事も経験です。私は券売機の前に立つと、三八〇円を投入し、牛丼の並盛を選択します。無事に食券は発行され、発券機の画面が切り替わります。
『呼び出し番号で お呼び致しますので お席でお待ち下さい』
ここは郵便局なのでしょうか。なんだか不思議な感じがしますが、郷に入っては郷に従えという言葉があります。言われた通り、席で待つことにしましょう。
私は近くのカウンター席に腰かけます。カウンターの上には、醤油やソース、フレンチドレッシングや七味、――紅生姜と、卓上調味料がずらりと並んでいて、以前の松屋と同じ取り揃え。セルフサービス式になろうが、ここは変化していないみたいです。
それで、私はようやく、松屋に来た実感が湧いてきたのです。
おかしな話です。松屋の看板を見て入店したというのに、今までここが松屋なのか疑わしく思っていたのですから。それというのも、入店してから見知らぬものばかり目に入ってきていたのが原因なのでしょうが。
内装や注文システムに大きな手が加えられていたせいで、掲げている看板こそ同じでも、本当に同じ店なのか不安になってしまっていたのです。あまり変化がなかったものは券売機くらいで、それも最後には見知らぬ画面が表示されてしまいましたし。
ですが、ここに来て、卓上調味料は変化がありませんでした。あのまろやかな酸味がすっと鼻腔を通り抜けるフレンチドレッシングも、風味を重要視しているのか刺激の欠片もない七味唐辛子も、全く変わらず、カウンターの端に押し込められています。
そして何より紅生姜。あれさえあれば、松屋の牛丼はより美味しく、楽しく食することができます。私が松屋に来店する大きな理由と言っても過言ではないくらい、あるとないとでは大違いです。
ああ、変わってなくてよかった。私は胸を撫でおろしました。もし紅生姜がなくなっていたら、恐らくセルフサービス店に多大なる失望を覚えていたことでしょう。紅生姜があるおかげで、牛丼の出来上がりを楽しみに待つことができます。
そうなると、先ほどまでは見つける度に驚いていた既存の松屋との差異も、なんだか楽しめてくるというものです。
例えば手元の食券。呼び出し番号や、つゆだくを希望の際は提供口で要望するよう書かれているなど、通常の店舗にはない印刷がなされています。
そしてなにより、食券が左右に切り分けられていません。通常の店舗なら、店員さんが注文を受理すると同時に、食券をチケットもぎりよろしく左右に切り分けるのですが。セルフサービス式松屋では、食券を購入した段階で厨房に注文が伝わっていますから、店員さんもチケットを切り分けなくていいということなのでしょう。
ということは、最初に食券をカウンターまで持っていく必要すらないということです。食券が発行されたら席に座して、料理の完成を待つのみ。お水すらもセルフですから、入店してからここまで店員さんと関わる必要は一切ありません。
そう考えると、なんだかだいぶ機械的です。実際には食券を店員さんに渡す行為が省略されているだけなのですが。
しかしそれは、食券を渡す過程で注文の確認を行ったり、店員さんが厨房に注文を伝達するというような、会話が発生する流れも一緒に省略されているということでもあります。人と人のやり取りが生まれる機会が取り上げられてしまっている以上、無機質な印象を受けるのは仕方ないのかもしれません。
それがいいのか悪いのかは、捉え方次第で変わるかもしれませんが。コミュニケーションが大好きな人であればこのシステムを悪く受け止めるでしょうし、逆に可能なら誰とも会話したくない人は大歓迎でしょう。
例えば、喜多さんと後藤さん。人とお話しするのが大好きなんです! と自称していた喜多さんは、会話の必要性が薄いことにしょんぼりするでしょうし、一方の後藤さんは猫背で席に着きながら、安堵の薄ら笑いを浮かべていることでしょう。
肯定的に受け取るか、否定的に受け取るか。人によって見解は分かれるでしょうが、どちらかが正解で、どちらかが間違っているわけではありません。
なぜなら見解ですから。前の方がよかったと思うのも、コミュニケーションが省略されて最高と思うのも個人の見解で、そこに優劣なんかなくて当然でしょう。正しいも間違いもありません。どんな感想を抱くのも自由ですから。
私はというと、比較的肯定寄りです。会話ができないと萎れてしまうほど、コミュニケーションを求めているわけでも大好きなわけでもないですし。無言が気になるような性質でもないので、会話がないならないで、別に構わないかなあというのが正直な感想です。
仮に紅生姜にまで手が加えられていたならば、私はこの変化を絶対に受け入れはしなかったでしょうが、どうやらそうではないようですから。
重要なものさえ変わらないでいてくれたなら、それ以外の変更は別段許容できるというものです。むしろ、どんどん合理化してもらっても構わないようにさえ感じます。どうせ、高級店ではないのですから。削れるところはどんどん削っていってもいいのではないでしょうか。味さえ変わらなければ。それと、紅生姜さえ保ってくれるなら。
そんなふうに考えていた、ちょうどそのとき。店内に「――番のお客様、カウンターにどうぞ」という案内音声が鳴り響きました。
案内音声の番号は、私の食券に印字された呼び出し番号と一致しています。
提供口の方に目を向けてみると、モニターには「調理ができました」の文字とともに、私の呼び出し番号が映し出されています。
やっぱり郵便局じゃないですか。心の中でツッコみつつ、食券を手に提供口へと向かいます。
提供口には、なんと、人がいました。
ベルトコンベアで料理が流れてくる可能性も考えていたのですが、流石に受け渡しは店員さんと行うようです。
なあんだ、結局コミュニケーションは行うのか。別に食券を渡して牛丼と引き換えてもらうだけですので、コミュニケーションというには希薄すぎるような気もしなくはないですが。とはいえ、本当に人と関わりたくないタイプの人は、この程度のやり取りでも拒絶反応を示してしまうかもしれません。脳内には肩を落としながら食券を渡す後藤さんの姿。まあ、あの子ほど極端に人付き合いを不得手としている人はそう多くないですし、後藤さんを引き合いに出して物事を語るのは良くないかもしれませんが。
食券を差し出し、牛丼とお味噌汁が乗せられたお盆を受け取ります。どんぶりの中に詰められたお米と、つゆに絡められて飴色になった牛肉や玉葱が、その美味しさを裏付けるように湯気を立ち昇らせていました。
私はお盆を自分の席に持ち帰り、再び腰を下ろし、お味噌汁の蓋を開けます。
それから、紅生姜が入った容器を近くに引き寄せて、蓋を開けます。
そうして、小さいトングのようなものを手に取り、紅生姜を摘んで、牛丼の上にかけていくのです。
一回、二回、三回、四回、五回、六回。まだまだ牛肉が見えています。――七回、八回。牛肉が見えなくなりました。
ですが、容器に紅生姜はまだまだ入っています。大抵の場合は、八回も紅生姜を投入してしまったら、容器内の紅生姜は残り少なくなってしまうのですが。今日はたまたま、たくさん紅生姜が入っていた容器を引き当てられたようです。
せっかくですから、キリのいいところまで投入してしまいましょう。九回、十回。
これで、紅生姜を十回牛丼に載せました。その帰結としてどんぶりは溢れ出そうなほどの赤色に覆われてしまっていて、そういう見た目の蓋なんじゃないかと思ってしまうくらいです。牛肉も米も、見えるわけがありません。もっとも、それが目標地点だったので、当然といえば当然なのですが。
変わり果ててしまった牛丼からは、もはや湯気など立ち昇りません。香るのは豊潤さの欠片もない紅生姜の香りだけ。化学薬品を想起させる、強烈な刺激臭が鼻をつんざいて、これから食するものがどれだけ酸っぱいのかを示してきます。
私は箸先で紅生姜を摘み、口元に運びます。案の定、脳みそを麻痺させるほどの酸味と塩分がすぐに広がりました。
が、それだけでした。紅生姜の味がするのは良いのですが、箸で摘めたものが紅生姜しかなかったため、紅生姜の味がするのみで終わってしまったのです。牛肉の味も、玉葱の味も、ご飯の味も、全く感じることができませんでした。
ああ、やっちゃったな、と思いました。たまにやってしまうんですよ、紅生姜がいっぱいあるからって、調子に乗って載せすぎた結果、紅生姜の層が厚くなりすぎて、最初は紅生姜しか摘めなくなることが。
これではよくありません。牛丼に紅生姜を載せるのは、紅生姜と牛丼をともに味わうためなのです。紅生姜だけを食するのは目的に反します。まあ、私は紅生姜単体だけでも普通に食べることができますけど。なんなら美味しいとも感じますけど。
でも、そうではないのです。私は牛丼と紅生姜を食べに来ているのであって、紅生姜だけを食べに来ているわけではないのです。
欲張りはよくないですね。適量を守るのが一番なのかもしれません。
私は紅生姜をほどほどに咀嚼し、飲み込むと、再び箸を動かします。今度はしっかりとお肉を摘むことができました。
口元に運ぶと、やはり、刺激的な酸味。それから、肉のジューシーな甘みを感じ取りました。
再三、箸を動かします。今度はお肉と紅生姜、そしてご飯が箸の中に納まります。口に運ぶと、酸味と肉の油にでんぷんの塊が混ざり合って、私は、ああ、これこれと思いました。
これですよ、これ。紅生姜の暴力的な酸味と、肉汁、更には肉と米の甘みが同居していて、だけど肉とか米とかの甘みはあくまでも仄かに感じられるものでしかないから、酸味を打ち消すには力不足でしかなくて、結局同居はしているけれど一番最初に印象が来るのは紅生姜の酸味と塩分というこの感じ。これを食べたくて、私は松屋に来店したんです。
箸を動かし続けます。暴力的な酸味と塩分はまるで味覚の破壊工作を行っているようで、刺激は十分です。けれども、同時に運ばれる牛肉とご飯が、舌の完全破壊を防いでくれています。そして、その防護活動の存在こそが、紅生姜丼を食べる理由です。
特に辛いものを食べているときに顕著ですが、刺激的な食べ物を食べ続けていると、だんだん舌が慣れて刺激に鈍感になってきます。ですが、一緒に牛丼を食べることでいつでも新鮮な刺激を味わえるのです。
それに、紅生姜丼は美味しい牛丼も味わうことができるのです。酸味だけじゃないんです。一緒に肉とご飯を食べることができるんです!
こんな贅沢な刺激の取り方は他に少ないです。普通に美味しいものを、刺激を取りながら味わえることができるんですよ。かといって、刺激は刺激ですので、ちゃんと脳にも快感が響いてきます。
過剰摂取している酸味と塩分が、脳みそを圧迫しているかのよう。お味噌汁に口を付けると、紅生姜よりしょっぱくないなあという印象が一番最初に来るくらい、価値基準が壊されています。刺激の賜です。
思考が、神経が、感覚が、刺激に浸されているのです!
〇
ひたひたに刺激漬けにされた私の脳みそは、その気の赴くままに刺激接種の指令を出し続け。
それに従うしかない私は、気づけば牛肉を平らげ、紅生姜を平らげ、残ったご飯も全て平らげて、無事に完食することができました。
私はふうと息を吐くと、席を立ちあがり、お盆を持ち上げました。返却口に食器を置きに行くためです。
セルフサービスを採用している、食堂ですとかフードコートですとか、そういうところではありがちなシステムです。もっとも、従来の松屋にはなかったものなのですけれど。
ですが、もうセルフサービス式に対する警戒心はありません。確かに今までの松屋とはいろいろ変化がありましたが、一番大事なものは変わっていませんでした。
紅生姜丼が楽しめる。これだけでもう、警戒を解くのには十分です。
セルフサービスだろうがなんだろうが、松屋は松屋なのです。そのことを、私は深く実感することができました。
返却口にお盆を載せます。すると、奥の方から店員さんの声が届いてきました。
「ありがとうございましたー」
私は瞬きしました。
なんだ、ちゃんとこういうやり取りはまだまだあるんじゃないですか。注文を待っている間受けていた無機質な印象は、早とちりに過ぎなかったのかもしれません。
私は笑みを作り、店員さんに返答します。
「美味しかったです、ごちそうさまでした」
「……ありがとうございます」
返却口越しに、再び感謝の声が聞こえてきました。