本作の独自設定の最たるものが明かされる回です。
震えて眠れ。
トレセン学園内に存在する選手チーム『スピカ』。
担当ウマ娘の"夢"を最優先し、同じ目標を見据えて共に歩む某トレーナーが率いていた強豪チームだが、現在は少々事情が変わっている。
3度に渡る重大な故障と、そこからの復活を遂げた奇跡のウマ娘───『スピカ』所属のトウカイテイオー。
世間一般でこそ美談として語られるトウカイテイオーの戦歴だが、彼女を支え最も近くで見ていた『スピカ』トレーナーにとって、それは葛藤と後悔に満ちた苦難の日々でもあった。
己の力不足を感じた『スピカ』トレーナーは、重賞制覇者を多数輩出した経歴も捨て、すべてを一から学び直すことを決意。
かつてあのオグリキャップを育て上げた伝説のチーム『シリウス』のトレーナー、"
オグリキャップの栄達を最後に『シリウス』を解散し、第一線を退いていた六平翁だったが、"死に往く老兵の最期の一仕事"として『スピカ』トレーナーの頼みを引き受ける。
以上の経緯をもって『スピカ』は再編され、元々は自分1人で所属ウマ娘全員を担当していたトレーナー──その筋では何故か誰も本名を知らないことで有名であり、トレセン学園七不思議の一つにも数えられている──を
所属するウマ娘とトレーナーはチーフ、六平翁の両方の流れを汲む面々となり、2代目『スピカ』は同時に2代目『シリウス』とも呼べるほどの威容と化している。
"皇帝"・シンボリルドルフや"怪鳥"・エルコンドルパサーを擁する学園最強のチーム、『リギル』にも対抗し得るほどの一大勢力だ。
集いし星が新たな時代の潮流を呼び起こし、光差す道が開けたのである。
◇ ◆ ◇ ◆
午後8時22分。
薄紫の髪を靡かせる令嬢、メジロマックイーンは夜の学園構内を歩いていた。
愛用している櫛を自身が属するチーム『スピカ』の部室に忘れてきてしまったため、担当トレーナー──かつてのチーフトレーナーから役目を引き継ぎ、今は事実上の専属となっている人物──に連絡して、部室から回収してきてもらったのだ。
「申し訳ございません、トレーナーさん。わざわざありがとうございます」
「大丈夫だよ、このくらい。すぐ見つかって良かった」
ちなみに───悪い人間ではないのだが、目の前の彼を『トレーナーさん』と呼ぶことに、メジロマックイーンはまだ少し違和感がある。
彼女にとって、『トレーナーさん』と言えばあの『変な髪型で色黒の、事ある毎にウマ娘の
実際、年単位で一緒に居たのに本名を知らないというのは大変奇妙だ。噂によれば『ニシザキ』や『オキノ』などの名字が有力候補らしいが、真相は未だ不明。
とはいえ、以前密偵として放ったメジロ家の諜報部が5人病院送りになった時点で、メジロマックイーンは追求を諦めていた。
「……? どうかした?」
「いえ、別に。ただちょっと、あなたのトレーナーバッジを見ていたらトレーナーさ……チーフのことを思い出しまして」
「あぁ───先輩のことか。そっか……もう1年近くになるもんね」
これは何か、良くない勘違いをさせてしまっただろうか……。
「あ……! その、違うのです。気に障ったならごめんなさい、あなたの指導に不満があるわけではございませんの。そもそもチーフだって、信用できない方を
「……別に君が気を遣わなくても」
「本心ですっ。大体、チーフだって完璧な人ではありませんでしたのよ? ウマ娘の
「───うん。ありがとう、マックイーン。託された側の人間として、これからも先輩に恥じないよう頑張るよ」
結果として、二人は何やら良い雰囲気になっていた。
過ごした時間こそ短いが、それでもここまでの信頼関係が築かれている辺り、彼らを各々の担当に配した『スピカ』チーフの慧眼が光っている。
「……そういえば、『スピカ』が再編される前にもこういうことがあったな。その時も先輩に呼ばれてさ、『ゴルシが釣ってきたマグロを部室に放置していったから助けてくれ』って。あれに比べたら、櫛ひとつなんてカワイイもんだよ」
「えぇ……? ど、どうしましたのそれ?」
「幸い冬だったからね。氷を買ってきて、中庭の噴水で冷やしといて───」
担当ウマ娘の"夢"を最優先する方針からか、チーム再編以前より、『スピカ』には何かしら癖の強いウマ娘が集まる傾向にあった。この手の一風変わった逸話には事欠かない。
チーフとはプライベートではあまり接点が無かったこと、現担当のトレーナーが話し上手なこともあり、メジロマックイーンはこういった『裏であったけど知らされなかった』エピソードを聞くのが案外好きだった。
尤も、メジロマックイーンもまた『スピカ』の一員であり、本人の自覚はさておき"おもしれー女"であることに違いは無かったりするが。
「……そういえば、ゴールドシップさんの容態はどうですか?」
名前を聞いたところでふと思い出し、尋ねる。
トレセン学園随一の問題児、永世名誉"いつもの大体あのへんの界隈"代表、芦毛の怪物ならぬ芦毛の怪異───ゴールドシップ。競走バとして理想的な恵体と、万人が羨むような美貌、あまり目立たないが無駄に明晰な頭脳に、夏休み中の小学生の精神を搭載した『スピカ』の
「ん? あー、昨日トレピッピから連絡来てたけど、別に心配無いってさ」
「なら安心ですわね。まったく、あの人ったら……」
そんなゴールドシップだが、彼女は今、春先に開催されたイベント『ファン感謝祭』にて怪我を負い療養中だった。
イベント内で執り行われたエキシビジョン・レースの際、『フランスパンをくわえてヘッドバンギングしつつ右手でバスケットボールをドリブル、さらに左手でけん玉の世界一周をやりながら後ろ向きに猛ダッシュする』という斜め上すぎるファンサービスを敢行した結果、どうにか完走したはいいものの全身に肉離れを発症してしまったのだ。
「びっくりしたよなぁ……。あんな重症が次の朝になったらほとんど治ってたのも異常だったけど、どうやってレース前の持ち物検査すり抜けたんだとか、そもそもよく衝突事故も起こさずに完走できたなとか」
「あれは周りの皆さんが上手く避けてくださった結果でしてよ。……
というわけで、ゴールドシップは絶賛療養中である。
肉離れ自体は何故か一晩で完治していたが、念のため1週間か2週間ほど休養を取らせることになった。
すると本人が『中国の秘境に知り合いが居て温泉を管理している』などと言い出し、その日の夕方には上海へ旅立ってしまったのだ。
ご丁寧に現地の病院に罹って正式な診断書を送りつけてくる抜け目の無さであり、そこまでされては文句も言えず今に至る。
「トレピッピ、いま青海省かぁ。バヤンカラ山脈とか聞いたことも無い場所だけど、ちゃんと辿り着けてるかな」
「あの方の奇行……チーフのイギリス行きから、さらに磨きが掛かった気がいたしますわ。何だかんだそれに適応してるトレピッピさんは凄まじいですわね」
「ゴールドシップは確か、『スピカ』が落ち目だった頃に先輩とずっと一緒に居たんだっけ。そうそう、トレピッピも僕らの仲間内じゃ一番先輩に可愛がられててさ。合うんだろうな~、フィーリングが」
なお『トレピッピ』とはお察しの通り、ゴールドシップの担当トレーナーの渾名である。
サトノダイヤモンドと並び、かの黄金の不沈艦の暴走を鎮められる希少な人材だが、たまに全員揃ってボケ始めるので油断も隙も無いというのがもっぱらの評判だ。
「おっと。もうこんな時間か、寮の門限は平気?」
「ご心配なく、寮長には既に話を通してあります。抜かりはありませんわ」
「それはよかった。じゃあまた明日、おやすみ!」
「えぇ。おやすみなさい」
◇ ◆ ◇ ◆
午後8時45分。
野暮用ついでにトレーナーさんとの雑談を終え、学生寮に戻る。
さすがにこの時間となると、構内に人影はほとんど無い。職員室や選手チームの部室から残業の灯りが消え、
「すぐ戻るはずが……思ったより話し込んでしまいましたわね」
これしきの静寂と暗がりを恐れるほどメジロマックイーンは神経が細くないが、多少は気が張るものだ。
───だから、気づいた。
トレセン学園のちょっとした名物スポット。種々の悩みを抱える生徒が訪れ、他人には言えない思いの丈を叫ぶ『大樹の
数十年前の台風で根元から折れた普通の広葉樹だが、たまたま通行の邪魔にならない位置にあったため、撤去が後回しにされ続けた結果として現代まで残ったものらしい。
そんな何の変哲もない樹木の残骸を、じっと見つめている男が居る。
日本人離れした長身と青銀の総髪。真円形の遮光眼鏡。右手には、何やら捻じくれた棒のような物体。
端的に言って、
「不審者ですわ」
それとなくスマートフォンを取り出し、警察と学園の警備部に通報すべく用意を進める。
だが、男の胸元に輝く学園認定のトレーナーバッジを認めたことで、すんでのところで思い留まった。
ちょうどその瞬間、男の方も
「君、こんな時間にどうしたんですか?」
「……お構いなく。チームの部室に忘れていた私物を、トレーナーさんから受け取ってきただけですので」
「なるほど、そうでしたか。ごめんなさい、余計なお世話でしたね」
「いえ。ご心配いただきありがとうございます」
───ふむ。
最初はどんな変人奇人かと思ったが、話してみればごく紳士的な優男だ。
胸元のトレーナーバッジを強調した後、懐から名刺を差し出して言う。
「失礼、申し遅れました。私、この春から新人トレーナーとして採用された舩坂金時と申します。以後お見知りおきを」
「これはご丁寧に、どうも。
「ははっ。実は先日まで海外に居て、少々トラブルがありましてね。そのせいで日本への到着が遅れてしまって……まったく迂闊でした」
「まぁ、それは……災難でしたわね」
「えぇ。───っと、お引き留めしてしまいましたか。では私はこれで。おやすみなさい、良い夢を」
「はい、ごきげんよう。おやすみなさい」
何だ。変人どころか、むしろ話しやすい大人ではないか。礼節というものをよく弁えている。
トレーナーとしての手腕まではわからないけれど、確か海外から来たと言っていたな。欧米で学んだことすべてが日本のトゥインクル・シリーズで通用するとは限らないにせよ、きっとその知識は強力な武器になる。彼の指導を受けられるウマ娘は幸運だろう。
願わくば、自分の後輩となる者には、彼のようなトレーナーが付いて欲しいものだ───。
感慨に浸りながら、学生寮の方に足を向ける。
◇ ◆ ◇ ◆
「─────……」
「…………。……」
「…………」
「……」
「───ゴールドシップ?」
「……、一体何のことです?」
「……体格が変わっても、
「仰っていることの意味がよく……」
「歩き方には
舩坂金時は振り向き、悪戯っぽく笑った。
○『スピカ』チーフ
沖野Tことアニメ版ウマ娘のメインヒロイン。
色々あって自分を見つめ直し、『スピカ』を後輩に任せて再出発する道を選んだ。現在はイギリス・イングランド北西部チェスターの『大英ウマ娘トレーニングセンターカレッジ』にて、最新の競バ理論を学ぶ日々を送っている。
欧州・北米の芝を荒らし回った後、一時帰国したサイレンススズカとは入れ違いの形になってしまったが、どこかの飛行機の中継地で偶然(?)会ったとか会ってないとか。
○マクトレ
日本を離れた『スピカ』チーフに代わり、メジロマックイーンの担当を引き継いだトレーナー。また、沖野Tの名代として『スピカ』全体の指揮を取る事実上のサブチーフでもある。男性。
まだ20代前半ながら能力は高く、温厚篤実な性格も相まってメジロマックイーンからの信頼は厚い。経歴上は中流階級の出身だが、風の噂によると没落した名家の末裔らしい。
チーフのイギリス行きになぞらえ、周囲からは『円卓の騎士』という二つ名を拝している。
○ゴルトレ(トレピッピ)
日本を離れた『スピカ』チーフに代わり、ゴールドシップの担当を引き継いだトレーナー。女性。
マクトレと同様、『スピカ』が落ち目だった時期に沖野Tが世話を焼いていた後輩の一人。当時荒れてた沖野T的には多少の下心もあったようだが、最終的に彼女とマクトレの若い情熱、そして現在『スピカ』に属するウマ娘たちとの出会いが再起のきっかけになったとか。
チーフのイギリス行きになぞらえ、周囲からは『円卓の騎士』という二つ名を拝しているが、本人は『シスの暗黒卿』を自称して憚らない。