名古屋駅
「休暇を取って旅行に誘うなんて、どういう風の吹き回し。」
「研修の後は、休みを取って旅行へ行くのも悪くないんじゃないか、高山。」
「そうかな。」
そこへ、善子と花丸と梨子も名古屋駅に会った。
「あら、あなた達も名古屋駅で。」
「ああ実は私と高山は名古屋で研修会がありまして。」
「それで、名古屋に来ていたんですね。」
「ええ。」
「実は僕らは休暇で、せっかくシルバーウィークなので特急に乗ってでも行こうかなと思って。」
「せっかくだから、名古屋から特急「しらさぎ」に乗って福井と富山県の高岡へ行こうと。」
「まぁ、実は私たちもなの。」
「マルは、福井県の歴史を見物しようと思っていたずらよ。」
「そうですか。」
こうして、南と高山は善子と花丸と梨子と一緒に特急に乗って北陸の旅へ出発した。
今回の旅行メンバーは津島善子と国木田花丸と桜内梨子と一緒に行く事になった。
「あれ、鶴岡。」
「あっ、主任。」
「何だ、鶴岡も特急に乗るのか。」
「うん、今東京から東海道新幹線「ひかり3号」に乗って名古屋へ来たところだよ。」
「そうか。」
「ところで、歩夢ちゃん達は。」
「ああ、歩夢達は米原から特急に乗るって。」
「そうか、それで米原から乗るのか。」
「おう。」
プルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルーッ
「まもなくー、9時12分発特急「しらさぎ3号」和倉温泉行が発車します、ドアが閉まりますご注意ください。」
と、アナウンスが流れた。
今回の特急「しらさぎ」に乗って北陸旅行は、名古屋を9時12分に発車し、福井には11時17分に停車する、南達はそこから福井県の一条谷遺跡へ、明日は福井から北陸本線に乗って高岡へ向かう、次の日は高岡から氷見線に乗って万葉巡りをするのだ、今回の北陸旅行は学校で習う歴史巡りの旅ともいえるかもしれない。
日程は次の通りである。
1日目 名古屋発北陸本線特急「しらさぎ3号」に乗車 福井で下車
一条谷遺跡へ見物 1泊
2日目 福井-高岡へは北陸本線に乗る
高岡市内を観光、氷見線に乗って伏木へ
3日目 伏木から雨晴へ
の日程である。
「今回のシルバーウィークは歩夢達も来るって言ったわ。」
「そうだな、じゃああの一句やりますか。」
「まず私はね、「もろ共に 月も忘れるな糸ざくら 年の緒ながき 契りと思はば」」
「君が代の時にあひあふ糸桜 いとも かしこきけふのことの葉」
「もう、それは朝倉義景と足利義昭の句じゃない。」
そして、南は言った。
「私はこれだ「立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし」」
「あっ、私それ知ってる、大伴家持の万葉集ね。」
「おっ、梨子ちゃんよくわかったね。」
「今、学校で習ってるの。」
「そうか。」
10時09分、L特急「しらさぎ3号」は米原駅に到着した。
「あらっ、梨子ちゃんに善子ちゃん、花丸ちゃんも乗ってたの。」
「うん、丁度公安の南さんと高山さんたちも乗ってたずら。」
「丁度名古屋で一緒だったのよ。」
「そうなんだ。」
11時17分、南と高山達が乗ったL特急「しらさぎ3号」は福井に到着した、
「じゃあ私たちは、一乗谷へ行ってるから。」
「そうか。」
そう言って、花丸と善子と鶴岡達はバスに乗って一条谷遺跡へ向かった。
「僕らもバスに乗って行こうか。」
「いや、我らはローカルに乗って行くぞ。」
「列車で行くんですか。」
「そうだよ。」
そう言って、南と高山達は越美北線に乗って一乗谷駅へ向かった。
「やっと、一乗谷へ来たぞ。」
「いやー、ローカル線で行くのも悪くないですね。」
「だろ、ローカル線に乗って旅するのも、いいんじゃないか。」
「そうですね。」
一乗谷遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡(日本の城)である。戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。
遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けている。
歴史・沿革
軍記物である『朝倉始末記』には1471年(文明3年)に戦国初代朝倉敏景(孝景・教景)が黒丸館(福井市黒丸町)から本拠を移したと記されている。しかし、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」などの新資料によると、朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようである。文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、また、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。このため北ノ京とも呼ばれた。戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えていた。
1499年(明応8年)には足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪する。1567年(永禄10年)11月21日には戦国5代朝倉義景が足利義昭(1568年(永禄11年)4月一乗谷で義昭に改名)を安養寺に迎える。義景は義昭を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため織田信長を頼って美濃国に出国する。
1573年(天正元年)8月16日、刀禰坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れる。翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。この戦の功績により信長から守護代職を与えられた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が一乗谷に館を構え、越前を統治していた。しかし、同じ旧臣である富田長繁ら国人は長俊に反感を抱いており、民衆に一揆を起こさせるべく画策した。1575年(天正3年)1月18日、吉田郡志比庄で一揆勢が蜂起、翌日には長繁を先頭に坂井郡、吉田郡、足羽郡の一揆勢3万3千人が一乗谷に攻め入り、長俊は一族もろとも討ち取られた(越前一向一揆)。信長が一揆を平定した後、越前八郡を与えられた柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため、辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれていった。優れた造りの庭園も堆積する土砂に埋もれたが、1967年(昭和42年)に発掘が開始され注目されるようになった
君が代の時にあひあふ糸桜 いとも かしこきけふのことの葉
「これは朝倉義景が足利義昭氏が、義景に向けて、長い付き合いを望むといった意味で作ったんだ。」
「へぇー、そうなんだ。」
「凄く勉強になったわ。」
「そうね。」
「じゃあ、そろそろ温泉に行きますか。」
「そうね。」
歩夢達も、温泉へ向かうと南と高山と鶴岡に会った。
「まぁ、南さん達も来てたの。」
「ああ、越美北線に乗って芦原温泉へ来たんだよ。」
「そうか。」
そう言って、温泉で1泊した。
そして、米原から歩夢達と合流。
どんな、北陸旅行になるのかは楽しみです。