どこからか、水の匂いがする。
ゆるやかに流れる風が木々の合間を縫って私の髪を揺らしている。顔にかかる髪を指でよけ、髪紐をどこにやったかと目を細めた。そこでようやく私は違和感に気づいた。
私は今、自分の足でまっすぐに立っている。かきわけた髪は黒々としており、視界に入った手には皺がない。思わず手のひらを頬にあてると、つるりとした感覚があった。
なるほど、とゆるく口角が上がる。わずかに目を伏せると、突如吹き荒れた桜吹雪。思わずきゅっと目を閉じる。閉じた瞼の暗闇の先に、親しんだ気配を覚えた。
「―――どうだ、驚いたか?」
驚いた、と笑いながら目を開けば、いやちっとも驚いてないだろう君、といささか不満そうに「かみさま」は唇を尖らせた。
若かりし頃、私の中の「力」を見いだされた先で出逢った彼ら。鋼の身に心を乗せ、ひとの身を得て私たちに手を差し伸べてくれた「かみさま」たち。うつくしく、あたたかく、烈しく、容赦のない存在だった。
そんな彼らに「主」と掲げられるのはなかなかに恐ろしかったが、おそらくは悪くない関係を築けていたと思う。務めを終えて役目を降りるときに、約束を残してくれる程度には。
長く私の傍らを守ってくれた彼、鶴丸国永は、呆れたように私の顔を見る。
「俺が来るとわかっていたって顔だな? 主」
どうだろう、と返すと鶴丸は仕方なさそうに息をつき、まあ無理もないかと気を取り直したように口角を上げる。
「約束をしたからな。ずっと君の傍に在ると」
俺たちは、確かに約束を守ったぞ。
そう挑むような視線を向けられては、私も迎え討つほかなく。何故だかこのかみさまは、時折こうして私を試したがった。これはどうだ、ではこうだ、と私の心を揺らそうとしては、何だそんなことかと返す私を見て、誇るように金色を輝かせる。
だから私は、昔と同じように小さく頷き、そしてもちろんだと笑うのだ。
「皆に恥じない私として、一生を全うした自負はあるよ」
見ていてくれると思った。私の目にはうつらなくても、確かにそばに皆を感じていた。私が見た景色、聴いた音、歩む道、それらをきっと共有できているという確信があった。私の生きる傍らには、いつも「かみさま」が在った。
私を「主」と呼んでくれた彼らがともに在るのに、どうして私が道を違えられるだろう。どうして私が、己を誇れない生き方を選べるだろうか。
光を受けて瞬く金色が、とろりと甘やかに色を変えた。もちろんそうだろう、と紡がれる音が優しい。真っ白な衣が一層純白に輝いたような気がした。
「それでこそ俺たちの主だ。―――よく、ここまで頑張った」
さあ行こう、と鶴丸は手を差し伸べた。迷わず私は、その手を取る。
「君の最期の道行きは、俺が預かろう」
他の刀にはさんざん妬まれたが、これは譲ってやれないな、と鶴丸は悪戯っぽく笑う。
水の匂いは、桜吹雪の向こうから来ているようだった。
「同じ墓には入ってやれないが、黄泉路で最期の逢瀬というのも乙だろう?」
ぎゅっと握られた手は冷たい。
しかしその冷たさが愛しく、誇らしかった。
短いですが、お気に入り。