うおっ乳デカいね♡ 違法建築だろ 作:珍鎮
いつの間にか、分厚い雲が夜空を覆っている。
車道と歩道を遮るガードパイプに腰を預け、そんな星の一つすら見えない灰色の曇天を見上げながら、静かに時を待ち続けている。
とはいえ、そう長くはない待機だった。
暇だなと感じ始めたタイミングで待ち人が現れたのだ。
「ごめんなさい葉月くんっ、おまたせ……っ!」
ビジネスホテルのフロントから小走りで慌ただしく現れたのは、十数分前に食事会の会場を後にしたサイレンススズカであった。
あの学生という年齢を感じさせない大人びたドレス姿から一転、学園指定である紺のコートを羽織った普通の女子高生へと戻っている。
「早かったな。……じゃあ行きますか。駅の方だっけか?」
「ええ、ここから歩いて十分くらいだからすぐ着くと思うわ」
そうして二人並んでゆっくりと出発した。
サイレンススズカが提案した場所──俺が府中へ舞い戻った夜に彼女と結んだ『一緒に映画を観る』という、あの約束を果たせる目的地へ向かって。
やよいの付き添い兼関係者への顔見せという今日のミッションは無事に終わりを迎えた。
あとの時間は秋川家の人間ではなく、ただの男子高校生としての秋川葉月の時間だ。
「……それで、サイレンス」
「うん?」
「観る映画ってもう決まってるのか」
「もちろん。席もさっき予約したから」
そう言いながら彼女が見せてくれたスマホの画面には、これから鑑賞するであろう映画の番宣ポスターが表示されていた。
派手なフォントに大袈裟な表情をした役者などからどういうタイプの映画なのかが自然と推測できた。
「コメディ映画なんだな」
「結構評判がいいみたいで……あっ、夏休みのとき二人で観た映画を覚えてる?」
「ウマ娘に追いつこうとする男子高校生のやつだったか」
個人的には好きなタイプだったが、数か月後に公開し俺が山田やアグネスデジタルと観た『恋はダービー』という作品に話題を奪われてしまい、年末の興行収入ランキングでもあまり振るわなかった映画だ。
恋愛映画というジャンルや登場人物たちの年齢も似通っており、展開自体は二つとも王道そのものだったものの、両者には明確に違う点があった。
ゴールドシチーという俺の推しの出演の有無もあるがそこではなく。
主人公がウマ娘に追いつけない自分自身を当たり前だと思うか否か、である。
個人的には甲乙付け難い作品たちだったが、結果として多くの世間一般に受け入れられたのは前者、もとい恋はダービーという作品であった。
「あの映画と脚本の人が同じなの。アレも面白かったからどうかなって」
「へぇ、いいな。そういやセリフ回しが特徴的で面白かった記憶があるわ。なんか耳が気持ちいい感じのやつ」
「ふふっ。……そうだ、予告編も見ておく?」
「迷うな……全部初見で、ってのも良さそうだし……」
白い息を立ち昇らせながら会話で映画への期待値を高めていく──その最中。
どうにも歯切れの悪そうな、まごついた表情と雰囲気を隣の少女から感じ取れてしまった。
なにか言いたいことを飲み込んだまま喋っているように見える。
それを指摘するかどうかは女子高生の考え方への理解度に依存するわけだが、悔しいことに秋川葉月は
だからせめてこの友人同士のフラットな空気を壊さないことだけは意識しながら会話を続け、十数分。
俺たちは暗い館内の中央の席に、隣同士で腰を掛けていた。
「おぉ……レイトショーって全然人がいないんだな」
「そうね。というかわたしたち以外いない……?」
サイレンスの言った通り映画が始まる前の番宣やコマーシャルが終わっても、やはり俺たち以外の観客が訪れることはなかった。
館内のわずかな照明も消灯し、まもなくスクリーンに配給会社のロゴが映し出されて本編がスタートする。
そうして始まった映画の監督の手腕は見事なもので、開幕からいきなり小笑いで上手く掴まれた俺はついつい釘付けになってしまい、少し経ってからようやく我に返った。
隣にいる少女は数瞬前の俺と同じくスクリーンに視線を吸い込まれており、チラリと横を様子見する俺に気づく様子はない。
ふと、そこで少し考えた。
確かに二人で映画を観る約束は交わした。
特に作品の指定も無かったため、選ばれるものが何であろうと不満はない。
ただ、一つだけ。
どうしてこのタイミングだったのだろうか、と。
あのサイレンスに迫っていた三人の大人たちのように、食事会の会場で彼女へ近づこうと画策した者は片手で数えるには足りないほどいたはずで、それらの応対できっと俺よりも確実に疲弊していることだろう。
こうして映画を観るという約束を果たすだけであれば後日でも可能だ。
それこそ明日なんかは高校もトレセンもバイトすらも休みで、以前の夏休みの激烈ラブラブお忍びデートの時のように昼から会えば映画の後に遊ぶことも難しくない。
だが、それを知っていて且つそれでも彼女が選んだのは今宵だった。
俺にはそこに必ず意味があると、そう思えてならないのだ。
「……面白かったな」
そして気がつけば映画は終幕し館内も明るくなった。やはりというか、誰もいない。
「ええ、ちょっと声を出して笑っちゃったし……恥ずかしい。他にお客さんがいなくてよかったかも」
そこに関しては俺も同感だ。
現在のこの状況に対して若干シリアスな懊悩こそ途中までしていたものの、後半はひたすら映画に釘付けだった。映像作品で笑ってスッキリしたなんて久しぶりだ。
「じゃ、行くか」
「うんっ」
そうして席から立ち上がり、幅の広い階段を下りていく。
「……はあ、あの会議のシーン、思い出し笑いしちゃう」
「あそこは確かに会話のテンポが良すぎたな」
映画の中盤にあったコントのような場面を思い出したらしく相も変わらず楽しそうだ。鑑賞前のハードルが低かったことも多少はあるが、確かに面白い映画だった。
残ったのは満足感と映画鑑賞後の心地よい疲労のみだ。今夜はよく眠れそう。
「ふふっ、強面なのに打たれ弱くて泣いちゃうとことか──」
そのまま映画の感想に夢中でクスクス笑いながら歩くサイレンス。
簡単に言えば
「あっ」
最後の階段の段差を少し踏み外し、バランスを崩した。
「サイレンスっ」
それを咄嗟に支えようと彼女の前に出る。
しかし体勢に無理があったせいか、ほぼ押し倒されるような形で仰向けに倒れてしまった。
「ッ……!」
普段ならば力を入れて体重ごと彼女を支えられたかもしれないが、彼女の映画の感想に気を取られていたことや俺自身完全に油断していたこともあってか、格好つけて助けることはできずサイレンスの下敷きになるのが精一杯であった。
彼女の躓いた段差が階段の最後だったおかげで平地に倒れられたのは不幸中だ。衝撃はあったが痛みはない。
「んんっ……」
──っ?
大丈夫かサイレンス、と声をかけるつもりだった。
背中から落ちた瞬間に思わず目を閉じてしまったので彼女がどんな体勢になっているか分からず、咄嗟に出た言葉だ。
しかし出そうとしたソレが出ることはなかった。
どうやら何かが口を塞いでいる。
そして不可解に思った俺は目を開け──ようやく状況を理解したのであった。
「────ッ!!?」
で、俺は驚懼が爆発し。
「んっ、む……っ」
こちらよりも少し遅れて目を開けたサイレンスは。
「………………っ、……!!」
なんとか現状だけは理解したものの、情報に対して感情が追いついていないのか、俺と同じく全身が固まってしまった。
──キスをしてしまっている。
互いの不可抗力が相殺されたことで、その場に倒れ込んで二人の唇が重なるという結果だけが残されてしまっている。
まるで古のラブコメ漫画のようなシチュエーションだ──が、ここは現実。
兎にも角にもまずは離れなければ。
とりあえず両肩を押してやれば彼女も上体を起こせるだろう。
「んふっ、……んんっ」
オイ落ち着け! 急いては事を仕損じる。
「んっ……ぷはっ。……サイレンス、大丈夫か」
びっくりするから急にえっちな声を出さないでよ。五臓六腑に染み渡る。
「ぇ、ええ……わたしは平気………だけど」
定まらない視線、紅潮し過ぎている頬、そのどれもが今の彼女の内心を物語っている。
「…………はぅ……」
分かりやすく言えば──バチクソ動揺しているということだ。
そしてそれは目の前の少女に限った話ではない。
事故とはいえ普段から仲良くしてくれている同学年の女子の唇を奪ってしまった事実は先ほどから胸中で焦燥を駆り立てているのだ。
どうにかしなければならないが、どうすればいいのかは分からない。
「……サイレンス、そのまま立てるか? とりあえずこのシアターからは出よう」
「う、うん……」
そのまま混乱の最中にある少女の手を引き、俺たちは映画館内の待合室まで逃げていった。
あまりにも困惑し過ぎているサイレンスよりかは幾分か冷静だったおかけで足を動かせたわけだが、深く思考することは叶わず結局なんの言葉も出てこない。
「っ……なぁ、サイレンス」
「は、はい……」
とにかく沈黙は毒になる。正解は分からないが少なくとも間違いではない選択肢は取らなければ。
「その……ごめん」
なので一旦は謝罪から始めた。
先ほどの流れは間違いなく事故だ。とはいえ俺にはアレをなんとかできる可能性が少なからずあったことも事実だ。
自分は悪くない、などと開き直るのは流石に無理がある。
「あの、まって。……ごめんなさい。わたし、浮かれてて足元が見えてなかったから……葉月くんのせいじゃないわ」
「……それを言うなら先を歩いているのがサイレンスだったってだけで、俺が先行してたら躓いてたのは俺だったかもしれない」
ほんの少しギクシャクした雰囲気が生まれそうだがそれは望ましくない。
せっかく面白い映画を鑑賞して楽しい気持ちになったばかりなのだ。
ハプニングがあったとは言ってもお互い怪我をしたわけでもないし──いやでも例え不可抗力でも唇を奪ったのヤバすぎるな。真剣にハラキリが選択肢として浮かんできた。
「……とりあえず、ホテルまで送るよ」
「あ……うん、ありがとう。……歩きながら話しましょうか」
そんなわけで二人並んで歩きながら、映画館を後にし彼女の宿泊先へ向かって行った。
なるべく、遅い足取りで。
なるべく、会話の時間を稼げるように、寄り道をしながら。
◆
「実は見てました。立食パーティー中の葉月くんの諸々」
「え、そうなの……」
夜道、白い街灯が照らす閑静な住宅街。
コンビニで買った温かい飲み物を片手に帰路を辿る道中そんな事実を告白された。
少し時間が経ったという事もあってか、サイレンスも先ほどよりは落ち着いた状態に戻っておりフラットな微笑を浮かべている。
「まぁ、ちょっとだけど。パーマーと話したりルビーさんを庇ってたりとか」
いや思ったよりほぼ全てを見られてたな。そんなに僕のこと視線で追ってたの。大好きなのかな。
「それからわたしの事とか、ルドルフ会長への対応とか見てて……思ったの。変わらないなって」
「……それは、俺が?」
「うん。今日までいろいろあったけど、やっぱり葉月くんはそうなんだなって」
手元で温かい缶を転がしながら、彼女はチラリと俺を一瞥した。
「なんだかウマ娘との縁が多くて」
「……」
そこに関しては何も言えなさ過ぎる。俯瞰してみると確かにそうなんだよな俺って。
「いつも周りを見ながら考えてて……自分が汚れたり、危険な目に遭うことも厭わないで」
そこまで言いかけて、少女の脚が自然と止まった。
──ふと、気づく。
周りを見るとすぐ近くに公園がある。
どこか見覚えのある……そうだ。
たしか、有馬記念に挑む前のサイレンスが不安を吐露してくれた、バイトの帰り際に寄ったあの何でもないただの公園だ。
「土手で転んだわたしを助けてくれた時や、あの夜にここで発破をかけてくれた時と変わらない……優しいあなたのままだった」
滔々と語りながら彼女は公園の中へ入っていく。
その背中を追ったことで、ようやく気がついた。
公園の街灯が一つ怪しげに点灯を繰り返している。
そんな光源の減った宵闇の中で彼女の表情を窺うのは難しい。
「でもね、葉月くん。どうやらわたしは違ったみたい」
「……違う?」
「変わらず優しくいられたあなたと違って、わたしはちょっとズルい女の子になっちゃったの」
手を後ろに組んで、しっとりとした声音で少女は続ける。
「みんなと横並びでレースをしてるつもりだった。負けたくはないけど、正々堂々と戦って答えを得なきゃ意味がないって、そう思ってた」
でも、と一拍置いてから彼女はこちらに歩み寄った。
一歩、一歩、近づく度にサイレンススズカの表情が露わになっていく。
「でも抑えきれなかったの。……この想いを」
そしてようやく真実が見えた──不安げな顔だった。
頬が紅潮している。
まっすぐに俺を見上げようとしているが、時たま耐えられずに視線を逃がしたりしている。
後ろに組んだ両手はモジモジと忙しなく、声量もだんだんと落ちてきている。
そこにあるのは確かな緊張だった。
「……ホントのこと言うとね、転びそうになったとき……実はちょっと余裕があったんだ」
赤くなりながら喋り続ける彼女を前にしたせいか、釣られて自分自身も心の余裕が奪われていく感覚に気がついた。
とても、燃えてしまいそうなほどに耳が熱い。
「その気になれば足を前に踏み出せたし、すぐ近くの座席に掴まってバランスを取ることだってできたかも。だけど葉月くんが庇ってくれるのが分かって……身体を預けちゃった」
「それは……」
「……何か期待しちゃってたのかもね、わたし」
気がついたときには既にすぐそばにいた。
一歩踏み出してしまえば抱きしめてしまえるほどの至近距離に彼女はいた。
「ううん……今も、きっと、ずっと期待してる。自分の気持ちがようやくわかったの」
硬直する俺とは裏腹に、サイレンスは組んでいた腕をほどき、空いている左手をこちらへ伸ばす。
伸びた手は頬を伝いながら下がっていって、俺の胸の前に置かれる。
「答えなんか出なくてもよくて。ただ……触れてほしいだけなんだって」
そうして次第に下りていく彼女の手が最後に掴んだのは俺のコートの裾であった。
かじかんでいるであろう震える指で、しかし逃がすまいと確かに強く握っている。
「有馬の日からいなくなって、府中へ戻ってきてからも葉月くんを取り巻く環境は忙しなく変化してて、カラ子ちゃんの事とか新しい敵の事とか……やっぱりまだ、いろいろ終わってはいない」
言いながら見上げて。
今度は羞恥心を押し殺して、ひたすら真っすぐにこちらの目を見つめて。
「葉月くんは大変なのに、それでも変わらず優しくいてくれてるのに、わたしは気持ちばかり焦っちゃって。……ごめんなさい、結局わたし、あなたを困らせて──」
と。
そこまで言いかけた辺りで俺は痺れを切らし、ポケットに突っ込んでいた手を解放して、裾を掴んでいたサイレンススズカの手を奪い取って握りしめた。
「……っ!?」
正面から握ったのでこれは俗に言うところの恋人繋ぎに当てはまるわけだが、もう片方の手が飲み物の缶で塞がっているため他に握り方がなかった。こればかりは致し方ない。
なによりこの手の繋ぎ方のほうが俺の本気が伝わってくれるはずだ。
「サイレンス。謝るのは──もうやめよう」
府中に帰ってきた夜からずっとそうだった。
彼女は自分の言いたい言葉を飲み込んでいて、口から出るのは謝罪ばかりだった。
役に立てないからだとか、勝手なことをしているからだとか、そんなことばかりを。
──なめんな。イキすぎ暴れすぎはしゃぎ過ぎ。一度静粛にね。
なにをそんな謝る必要があるというのか。
時間があるから友達を遊びに誘うことや、まだ一緒にいたいから引き留めることの何がいけないんだ。
俺たちは高校生だ。
友人のそばにいようとして何が悪い。
ワガママを口にして何が憚られる。
サイレンスは考えすぎなのだ。
「俺、これまで結構なワガママを“仕方のない理由”みたいな言い方に換えて、みんなを付き合わせてたよな」
呪いも怪異も俺自身の事も、あたかも正当な理由ぶって語っていたが別にそんなことはなかった。
しかしそれを真面目に受け入れてくれるサイレンスだからこそ、こうして懊悩してくれたのだろう。
だが、もういいのだ。
デジタル、山田、ゴールドシップ──腹を割って話したあの連中のおかげで答えは出ている。
「ごめん、たぶん俺が間違ってたんだ。だからサイレンスもそこまで難しく考えないでほしい」
握った手は離さず、今度は俺が彼女の目から視線を逃がさず見つめ続ける。
「ただ一緒にいたいから隣を歩く。それが友達……らしいから」
「……そんな、簡単なことでいいのかしら」
あたりまえ体操。思慮深さはお前の美点だがもっとフラットに参りましょう。
「いいんだよ、たぶん」
「たぶん……?」
「うん、たぶん」
自信はない。
が、正解があるような問いでもないだろう。
俺たちは俺たちだけの形を見つけていけばいい。そういう自由記述の問題なのだ、これは。
「それに、隣にいたい相手だから一緒に歩いてるだけだって、そう最初に言ったのはサイレンスの方だぞ」
「そ、そうだっけ」
俺は憶えている。あのドエロぬるグチョ握手洗いプレイの後日、彼女は周囲の目など気にせず俺と一緒に下校しながらそう語ってくれたのだ。
それが本来の彼女。
もはやこちらが遠慮してしまうような勢いで、ただ天真爛漫に繋がりを求めてくれる──そんなまっすぐな少女こそがサイレンススズカなのだ。
良くも悪くもそれに変化を与えてしまったのは俺の責任だ。というわけで責任取ります。婚姻も視野に。
「…………ふふっ」
ここまでの俺の言葉が多少は響いてくれたのか、緊張状態にあったサイレンスがやっと小さく笑ってくれた。
あの映画を観終わった時と同じく自然な笑顔だ。あまりにも可愛すぎ。現世に降臨せし女神様……麗しいでゲスよ。
「そっか。……うん、それでいいのよね」
おっ、ようやく心がほぐれてきたわね。じゃあ握手ソープぬるぬるプレイ第二弾いっちゃおっか。
「ありがと、葉月くん。……じゃあ、もう遠慮なんてしないから」
「そうしてくれ。その方が俺も助かるよ」
言って、ようやく俺たちはお互いの手を離した。
ここまでくれば無理やり繋いでいなくとも問題ないだろう。手繋ぎが通常コミュニケーションの枠に入ってる女子高生とかえっちすぎますけれど。やっぱり変態の才能あったのかな。溢れんばかりの。
「……はあ、なんだか疲れちゃった。少し座らない?」
「そうだな。映画館から歩きっぱなしだったし」
空いているベンチに腰を下ろし、そこでようやく缶のプルタブを開封した。もう若干ぬるくなってしまっているが、緊張から解放された体にはこれくらいがちょうどいい。
「ふぅ……」
紆余曲折あったがようやくリラックスできる時間が生まれた。
先ほど身体が少し熱くなったせいか肌寒いだけだった冬の風が今は心地いい。
サイレンスはこれまで通りの関係性を受け入れてくれたが、府中へ戻ってきてから繋がりの形が変化した相手は少なくない。
ド級のセクハラを就寝中にかましてきたドーベルを始めとして、有馬から始まった一連の騒動を経て態度に変化が起きた相手とのコミュニケーションに関しては、今まで通りとはいかないだろう。
こうして改めて考えてみると、なにかが一歩、大きく動いた気がする。
俺の青春というか、秋川葉月の物語みたいなものが、まるで次のステージへでも移行したような──不思議な感覚だ。
「あ、そういえばね葉月くん。わたし脚の調子がようやく戻ってきたの」
「本当か? ……正直ホッとしたよ。また走れるんだな」
だからこそ今まで通りでいてくれるサイレンスの存在がありがたい。
男女間における距離感のバグに関しては今に始まったことじゃないのでドギマギこそすれ違和感はない。
「ようやく走れるのはそうなんだけど……病院の先生からはゆっくり慣らしていくように、って言われてて。速く走りたい気持ちを我慢しながらのリハビリだから、暴走しないよう誰かに見てもらいながらやるのがいい……らしいんだけど……」
そこまで言ってからサイレンスがこちらを向いた。寒さのせいなのか未だに頬が赤みを帯びている。
さすがに彼女の言いたいことは分かる。
「そういうことなら一緒に走ってもいいか、サイレンス」
「……ふふっ。はい、よろしくお願いします」
まるで俺のセリフが分かっていたかのように、サイレンスはあまり驚かず笑顔で頷いた。
これは担当トレーナーとリハビリするのはアスリートとして当たり前のことだとして、それはそれとして友人と駄弁りながら走る時間も欲しいと考えるのは当然、という話だ。スキマ時間にお忍びデート、胸が熱くなるね。バーニング。
「その代わりと言ったらアレなのだけど……わたしも葉月くんのこと、なにかお手伝いしたいな」
「手伝い?」
「ええ、どんな些細な事でもいいの。何でもするから、何でも言って?」
なんでも。そんなこと言っておじさんを早くも骨抜きにするつもりだな!? そうは問屋がおろさんぞ! オラばっかりお手入れされて申し訳ねぇ。
「あんまり何でもとか言うもんじゃないぞ。とんでもないことお願いしちゃうかも」
「な、なにかしら」
「じゃあ一週間俺の家の炊事! ……なんてな」
他人に頼み込む願い事としては明らかにラインを超えてるのでこれは冗談として。
とはいえ彼女に何か任せることがあるかと問われると、サイレンスの貴重な時間を削ってまでやってもらうようなことは特にないのが現状だ。
「…………いいの? 葉月くん」
「えっ」
なにが?
「リハビリ中でトレーニングはお休みしてるから、放課後は時間があるし……お夕飯なら毎日行けるわね」
「お、おう……いや、ちょっと待って。サイレンス?」
あくまで冗談ですよノリで言っただけでえへへ♡ 少々お待ちを。
「あの、本気にしないでいいからな。有馬を制した日本一のウマ娘にそんなこと……」
「葉月くんの友人であるサイレンススズカとしてなら問題ない……ってことかしら」
「い、いや、単純に申し訳ないし……てかサイレンスはめちゃくちゃ忙しいだろ」
「うふふ、実はそんなことないのよ? トレーナーさんや学園の人が気を遣ってくれて、雑誌とかいろんなお仕事はわたしの脚が本調子に戻ってからってことにしてくれたみたいで……だからわたし、今は本当に“ただのサイレンススズカ”なの」
だからといってそんな、走りのリハビリに付き添うだけで一週間毎日夕食を作るために自宅へ通ってもらうだなんて驕った頼み事などしていいわけがない。もはや俺が王でないと許されないような悪しき所業だ。
「あなたが走りの手伝いを二つ返事で了承してくれたみたいに……わたしにも、同じことをさせて?」
「……いいのか?」
「ええ、もちろんっ」
俺としては未だに遠慮が勝っているのだが、どうやらこちらの想定以上に彼女は“友人”としてフラットに接してくれているらしく、ここまで来ると断りすぎるのは逆に失礼というものだろう。
まぁ、なにより、合法的にサイレンスと会える時間を手に入れることができて純粋に嬉しいという気持ちがある。
昨年から既にかなりの有名人ではあったが有馬を経てさらに一枚大きな壁ができたように感じてしまっていたため、こうして友人として一緒にいられる状況が生まれるのは素直に僥倖だ。これを機に恋人にしちゃお。ドキドキします……心のフェノールフタレイン溶液が真っ赤に染まるというか……。
「……あ、そうだ。それならアルバイトがない日は葉月くんの学校の前で待っていようかしら」
「え゛っ」
「あれ、ダメだった?」
かわいく首をかしげてもダメ。愛いやつ。
「さすがに自分の知名度は分かってるだろ……うちの高校が大パニックになるわ」
「でも……前にも似たようなことあったわよね」
「それはそうなのですが……ほら、いろいろな?」
たしかにクラスメイトたちの前でサイレンスを連れ出したことはあったが、あれも半年以上前の出来事だ。修学旅行や文化祭、西高との合同イベントなど様々な出来事を経てみんながようやくアレを忘れかけてくれているのに、まさか再燃させようだなんて冗談ではない。
有名人と一緒にいることによる優越感よりも、その後の雰囲気で痛くなる胃の心配のほうがデカいことを俺は学んだのだ。こっしょりヤりましょう。
「でもわたし、一緒に歩いて帰りたい……」
ほぉっ♡ ちょっとミスって時間をスキップしただけでもしかして俺たち告白イベントを終えてたりする?
これまで通りの関係性に戻れたとかのたまったが、それってつまり天真爛漫で天衣無縫な距離感バグえっちちスズカちゃんが戻ってきたということではないのか。取り乱しました。うぐ……ッ♡ 万里の長城。
「えっと……それなら待ち合わせ場所を決めよう。人気の少ない通りを選べば帰り道も気を張らずに済むしさ」
「そっか、それは確かに。お買い物して二人で帰れるルート……あっ、葉月くんの家の近所のスーパー、たしか住宅街のすぐ近くだし細い道を通っていけるわよね」
「あぁ、そういえばそうだな。なら高校から少し離れた公園辺りで待ち合わせするか。そこからなら近いし」
これ一週間ずっと国民的アイドルとお忍び放課後デートするということですよね。緊張してきた。
「ふふっ、楽しみ」
そう楽しそうに言いながら彼女がベンチから立ち上がったので俺も後に続いた。
既にかなり遅い時間だ。楽しい時間も大事だがもう今夜は宿まで送らなければ。王として、彼氏として。
「サイレンス、そろそろホテルに戻ろう」
「あ、うん」
その流れで公園から出る──はず、だっただのが。
「……葉月くん」
「うん?」
「ホテルまで、手を繋ぎましょ」
「う、うん。……うん?」
なんでそういう流れになったんでしたっけ。
疑問を口にするよりも早く、彼女は隣を陣取って手を絡めてきた。うおすっげスベスベ。
「あの……サイレンス?」
「さっきの葉月くんの話で言うなら、こんな誰もいない静かな夜ならこうしていても大丈夫よね」
「……それは、まぁ」
面食らった。確かに人目を気にすれば二人で帰っても問題ないという会話の流れではあったが、こうしてそれをすぐに実践してくるとは思わなかった。交尾に本気で向き合ってる証左だ。俺も向き合わねば。
そこから指を絡ませる恋人繋ぎのまま公園を後にし、彼女の言葉通り人影がまるでない静寂の道を二人きりで歩いていく。
この路地を抜ければ大通りに出てまもなくホテルが待ち構えているため、そう長い時間手を繋いだままいるわけではないが、やはり拭いきれぬ緊張感が心臓を鷲掴みにしていた。
絡まった細い指と小さな手のひらから、確かな体温を感じる。
そうして遂に今朝からムラムラしていた事実を思い出してしまった。スズカちゃんが悪いんだ!
おじさんを興奮させるその手練手管が! 生まれてきてくれてありがとうな。
「ねぇ、葉月くん」
サイレンスは微笑みを含んだ顔だが、その頬は僅かに赤く染まっている。
「……わたし、キス……初めてだったの」
言いながら見上げる形で熱っぽい眼差しをこちらに向けた。
そのまま歩けるわけもなく、俺たちは暗い夜道で二人、立ち止まってしまった。
「その。……どう、だった?」
先ほどまでとは打って変わり、赤くなりながら自信なさげな声音で問うてきた少女は、指を絡み合わせている事実も相まってどこか妖艶に見えてしまう。
「…………っ」
秋川.exe は動作を停止しました。この問題の解決策を確認しています…。
あまりにも言葉が出てこない。キスの感想を聞かれたことなんてコレが初めてなのだ。
ここで誤魔化したら最低なのは間違いないが、感触について語ったとしてもひたすら俺がキモいだけな気もするし八方塞がり。人生の終わり。
「えぇと……なんつーか……」
ただ時間を稼ぐだけの無意味な言葉。
それを経て──覚悟が決まった。
ある程度、ではあるが。
もういいだろう、勇気を振り絞った女子の純真な質問をはぐらかして最低な男になるよりは、キスに内心を乱されて感触の感想を口走ってしまうキモ・オタクになった方がまだマシだ。
「…………正直、かなりドキドキしました……」
その末に出力されたセリフはもはや小学生レベルの感想であった。リアルな質感などは語るまいと懊悩した結果がコレで忸怩たる想いだよ。
「……ふふっ」
やはり発言が簡素過ぎたせいかサイレンスには笑われてしまった。
彼女の目には俺が初心な男に見えているのか、はたまたハプニングに託けて今後の展開を期待している性欲全開のむっつりに見えているのか、何も分からないが俺にはコレが精いっぱいだったのだ。
この少女とのコミュニケーションに際して最も重要なものは“誠実さ”だ。
彼女自身が裏表のない純粋な少女であるからこそ、他人の感情の機微にも敏感であるため、下手なハッタリや誤魔化しは見抜かれてしまう。ショタに戻っていた俺を秋川葉月だと認識した途端すぐにその事実を受け入れた適応力からもそれは明らかだ。
「……よかった、わたしも同じ気持ちだったから」
だからこちらとしては誠心誠意ただ心からの発言のみで戦わなければならないのだが──どうやら今回はそれが功を奏したらしい。
穏やかな笑みを浮かべたサイレンスは再び前を向き、ゆっくりと歩みを再開した。
もうホテルまでの距離は、そう長くはない。
「あの夏の日、あなたと一緒に観た映画の中で……キスをするシーンがあったでしょう?」
ふと、気がつく。
なにかこれまでとは違った緊張感が全身を支配している。
ただの興奮ではない。
自らの道筋を、秋川葉月の物語を大きく左右する、まさに運命としか言い様がない──そんな予感に対する昂りがあった。
「あの時ヒロインの女の子がどうして嬉しそうな顔をしたのかが、わたしには分からなかった。ただ漠然とした憧れがあって……そういうものなんだって思ってたから」
ホテルに到着した。
レイトショーの映画の鑑賞後に公園で時間を潰したため、時刻は既に深夜帯へと差し掛かっている。
そのせいか、周囲には誰もいない。
普段は人の多いこの通りに、俺たち以外の影はない。
「でも、ようやくわかったわ。あの子の気持ちが」
こちらを向いた彼女は微笑んだ。
その翡翠色に輝く瞳には俺だけが映っている。
きっとこちらも変わらない。
今だけは──俺の
「あなただから嬉しかったの」
そう言って、彼女は繋いでいた手をあえて離した。
「ドキドキして、ふわふわして、こんなにも熱くなっちゃうのは、あなただからなの」
その言葉の意味を察せないほど、自分という男は鈍感ではなかった。
「……ふふっ。葉月くん、顔が真っ赤ね」
「そっちもだろ……」
どう考えても俺の方が紅潮しているのだが、こんなところで思春期の男子高校生特有の強がりが出てしまった。
それほどまでに自分を制御できていない。
それほどまでに──目の前の少女が強すぎる。
「……まだ答えは聞かないわ。最後の怪異が残ってるし、全部が終わるまでは手を繋ぐのも一旦やめとく。……もちろん
一本だけ立てた人差し指を唇の前において浮かべた小悪魔的な微笑みは、およそあの純真なサイレンススズカとは思えないほどに妖艶で、尚且つ違和感が微塵もなかった。
──えっちすぎる。シャンプー変えた?
「わたしがゴールできたら、続きをしましょう」
そう言ってサイレンスは一歩下がり、ホテルの自動ドアの前まで後退した。
「それじゃあ葉月くん、またね。今日はありがとう」
「……ぁ、ああ。おやすみ、サイレンス」
小さく手を振ってから中へ戻っていく彼女に対して、やはりというか俺は気の利いた言葉の一つもかけられないまま解散を許してしまった。
明確に負けた。
されるがまま翻弄されて対話を終えてしまった。こんなはずではなかったのに。
悔しいが本気のサイレンスはそれほど強敵ということなのだろう。
「……答え、か」
夜道を帰りながら呟いた。
サイレンスの言葉の意味は分かっているのだ。これまでの彼女との日常と、あの態度を鑑みればソレは火を見るより明らかなことだった。
だからこそ俺はここで再び誠実さをもって向き合わなければならない。
彼女が設けてくれたこの猶予期間のうちに問題を解決し、最後に自分自身が後悔しない答えを導き出す。
その為にはまず何をすればいいのか──残念ながらハプニング・キスと弩級えっち態度スズカちゃんに激しく心乱されてしまった俺には、皆目見当がつかないのであった。
◆
と、俺をはるかに上回る心の余裕を手に入れたと思わしきサイレンススズカだったが、翌日以降のスキンシップがこちらの予想の斜め上を突き抜けていた。
「はい、あーん。……どうかしら?」
「普通にめっちゃ美味い」
「ほんと? よかった」
場所は自宅、時間帯は夕陽が沈み始める頃。
かの国民的アイドルかつプロアスリートであるサイレンススズカは、約束をした翌日から大量の食料品をウチの冷蔵庫にブチ込むだけに留まらず、夕餉を共にしつつ付き合いたてのカップルかのごとくあーん攻撃を繰り出してきたのだ。こんな急接近するなんて聞いてないよぉ! この野郎……淫靡な女だモラルの欠如した女だ。しかしそこが魅力の一つでもあるのだけどもな。
「ごちそうさま。……悪いな、昨日の今日で」
「ううん、どうせリハビリの時以外は走れないしヒマだから。──さて」
カチャカチャと洗い物を秒速で片付けたサイレンスはエプロンを外し、居間で胡座をかいている俺の正面に座り込んだ。何事。
「じゃあ、走ろうかしら」
「……?」
何を言っているのか分からない。
リハビリのタイミング以外で走る行為は禁止されている、と口にしたのは数秒前の彼女自身だ。
「外を、じゃなくて。わたしのレースをね」
「それって……──ッ!!?」
突如、サイレンスがズイッと顔を突き出してきた。急接近! 急接近! 熱烈なブチュキスをしたいのであればそう申せばよいのに。
「なっ、ちょ……サイレンス、なに、近いって……っ!」
「……昨日の続き、したくなる?」
何を言っているのだこの女は。
「手を繋ぐのも一旦やめるとは言ったけど、それはあくまでわたしの決めたことだし……
そのセーフ理論は誰が保証してくれるんだよ。お顔が近いよ。美人がすぎるだろ。
というかこれ、シンプルに──誘惑じゃないのか。
「ふふ、一度でも触れたことがある箇所なら好きにしてもいいんじゃないかしら。たとえばわたしの指とか……顔の
そう言って自身の唇に人差し指を当てるサイレンスは天真爛漫な少女ではなく、大人顔負けの色香を放つ違法女子高生へと変身している。
「ねぇ、葉月くん。……触ってみたい?」
本性現したなこの野郎、あんまり調子乗ってんじゃねーよ。ぐぎゅっ…♡
あまりにえっちすぎる。
──そうか、なるほど。
これは要するに手段を選ばなくなり、かつ遠慮も自重も飛び越えてしまったというわけか。
サイレンスが語るところのレースが何を意味するのかはまだ完全には理解できていないが、こうなればこちらも受け身でい続けるわけにもいかなくなってくる。
だが。
サイレンスは確実にレベルアップしているため、ここで中途半端な反撃をすれば逆に墓穴を掘って後戻りできなくなる可能性が高い。
彼女はいわゆる興奮状態だ。いつかの月夜に布団の中でおててにぎにぎしてきたメジロドーベルと似た精神状態にあると言っていい。
それには恐らく気の迷いも多少は含まれているだろうが、彼女たちがこういった行動に出た一番の理由は“覚悟”が決まったからだろう。
自らのストーリーをステップアップさせるために、これまでの平穏を手放すという対価を覚悟してこうしている。
だからこそ生半可な誤魔化しでは勝てない。
しかしここで負けるわけにもいかない。
答えを待つと言ってくれた昨夜のサイレンスの為に。
この彼女のちょっぴり暴走行動の原因には心当たりがあるのだ。予想にはなるが、おそらく昨晩から俺が狼狽えっぱなしになっているせいだろう。その隙がサイレンスのイタズラ心を刺激してしまったわけだ。
ぶっちゃけ俺も興奮状態ではあるのでこのまま流されてルート確定まで突っ走りたい気持ちは確実にある──のだがそうは問屋が卸さない。
それはサイレンスがどうだとかそんな話ではない。
もっとくだらなくて、もっとどうでもいい、しかし俺という人間を形作るナニカを守るためには通さなくてはいけない矜持があるのだ。
──冷静ではない相手に流されて関係を持ってしまったら、ほんの小さな後悔が生まれる。
責任を取っても開き直ってもその小さなトゲは俺の心を一生ほんの少しだけ蝕み続ける。
その僅かな痛みを俺という男は許容できない。ただそれだけの話なのだ。
だから。
「……葉月く──きゃッ!」
逆に顔を突き出してサイレンスを後退させたのち、そのまま片手で彼女の顔の横へ勢いよく手を伸ばし、世間一般で言うところの壁ドンをお見舞いした。
「……」
「は、葉月くん……?」
だがこれではまだ勝てない。足りない。マジで? 生意気な女だ。路傍に咲く花のように美しい。
「サイレンス、手」
「え、えぇと……」
「手を出して。早く」
顔面は既にあと数センチでキスをしてしまう距離まで接近しているが焦らない。
ベロチューもしないし淫猥おててにぎにぎもしない。
「こ、こう……?」
サイレンスがおずおずと右手を胸の前に浮かべた。
いつもならこのまま空いている方の手で握ってやるところだがそうはならない。
何故ならソレを彼女自身が封印しているから。
「……手、小さいな」
俺も同じく手のひらを開いて、少女の右手の直前まで近づけた。
しかし触れることはない。
「は、葉月くん……触りたいの?」
「どうかな。けど俺だけルール無しなのはフェアじゃないから、俺もサイレンスと同じルールを自分に課すことにするよ」
体温が感じられそうなほどに、少し前へ動かせば指を絡め合わせられる距離なのに、しかし俺は直前でそれを止める。
指先も、唇も。
「ほら、サイレンス」
もっと、さらに近く。
だけど、一枚だけ壁を隔てて。
「もう少しだけ動けば、指を伸ばせば触れる距離だ。もちろん
まるで吸い込まれそうなほど綺麗な瞳だが揺るがない。もはやこちらが吸い込んでやる勢いでその瞳だけを見つめ続ける。カービィ、吸い込みよ!
「どうする」
「ひゃっ、ぁ」
いつの間にか赤面しててかわいい~♡ これだからひ弱な箱入り娘はよ、教育的指導が必要みたいだな。お前は根っからのマゾメスなんだよ。猥褻走者今鮮烈にデビュー。
「
「……ぇ、あ……その、わたし……」
いいよ破って破って破って!!! ルート確定ルート確定!!!!! カッコつけた自制心は死にました。つがいになりませんか? 二人で永久に奏でよう、
「…………う、うぅ~ッ……!」
なんかちょっと欲を出して人差し指だけ伸ばしたみたいだけど俺の手に触れる前に引っ込めちゃった♡
どうやらここで俺に触れたら
やはり似た者同士というか、自分の流れで相手を翻弄するならともかく、相手の思惑に乗って流されるのは乙女のプライドが許さなかったようだ。
レースを走るアスリートとしての負けず嫌いな性質──その読みが当たってくれて助かった。いや助かってない。俺は間違えたかった。シンプルにキレそう。
「も、もうっ、葉月くんいっつもズルい……!」
そう言いながらぽこぽこと俺の胸を弱々しく攻撃するサイレンス。それはありなんだ。スポーツマンシップはどうしたのだ!!?
「……負けないもん。きっと葉月くんのほうから手を握りたくなるわ」
かわいい上目遣い。てか単純接触のチキンレースとか成人向け同人誌みたい。
「どうだろうな。まぁちょっと長い勝負になりそうだし……せっかくだからノーカンで一回握っとくか?」
「えっ! ……ぁっ、いやっ、いいから! ……は、葉月くんが握りたいならいつでもいいわよ、わたしは」
「ハハっ」
「な、なに」
「いや可愛いなって」
「~っ! もうっ、もう……!」
またぽこぽこ。そんなに俺の胸を触りたいのかしら。
──発情期か……ッ!*2
「……うぅ。今日はもう帰る……」
「ん、バイクでトレセンまで送るよ」
そんな雑な流れで自宅の外に出た俺たちだったが、なにやらサイレンスはまだ不服そうだ。むくれ顔やたらキュート♡ 猛省せよ。
「どうした? 後ろはサイレンスの席だぞ」
「……これであなたに掴まったら負けな気がする」
「いや勝負とか抜きで危ないだろ普通に。後ろのバーか俺の腰に掴まるのが一番安全です」
「は、はい……」
バイクの乗車ルールに関しては従ってください。……あっ、この流れで腰を掴むんだ。素直。
「……出発する前に一つだけいいか」
「なにかしら」
じゃあ、俺も素直になろう。
「改めて今日の夕飯ありがとうな。すげえ美味しかったよ」
でも一週間は短い♡ 毎日作って♡
「……ふふっ、どういたしまして。あんなでよければ沢山作るわ」
「マジで」
「この一週間はね」
しょんぼり……るどるふ……。
「そうだ。葉月くんは明日なにが食べたい?」
「んー……和食、かな」
「はい了解です。……次の日の献立を聞くの、なんだか夫婦みたいね」
やかましいわ。そういう事を平然と言える純真さとドエロい本性のマリアージュが僕を興奮させるんだよなぁ。みつを。