何進の寝室は、それはもう豪華なものだった。だが、その高級な調度品よりも目を引くのが薬の山。棚には所狭しと植物の根や花などの生薬が置かれていた。
そして何やら香を焚いているのか、蠱惑的な、重くてかすかに甘酸っぱい香りがする。
「お初にお目にかかります。孫文台の元で医者をしている劉杏林と申します。大勢で押し掛けて申し訳ありません。私で最後ですのでご安心ください」
「見慣れぬ白き衣よ……都の医者どもより、良い仕事が出来そうであるな……」
何進もまた美女だった。その側で控えている何太后も。黄巾の乱以降、暗殺される大将軍だ。
かなり衰弱しているのだろう、言葉に覇気もなく、呟くだけだ。
「この、大量の薬はどうされたのです?」
「洛陽の医者たちから買ったものだ……しかし効果もなく、大金だけ持っていかれたようなものよ……でも、あぁこの香だけは……痛みを和らげてくれる。心地良くて癖になるのだ」
「この、香りですか?」
見れば何進の枕元には、高級そうな金蒔絵の細工を施された香箱があり、煙がゆらゆらと燻っている。
「……西方から取り寄せたものだ。たしか……瑞姫、何だったか」
「
「ッ!? 失礼します!」
阿芙蓉と聞いた瞬間に、自分は反射的に窓を全開にした上で、香箱を引っ掴んで外に勢い良くぶん投げた。全員がポカンとした顔で自分を見る。そして入口の扉も全開にして換気した。
「杏林! 何をしているのだ!」
我に返った冥琳が声を荒げた。先程の曹操の件から、おかしくなったと判断されたか。
「この香は毒です! 使い方を誤れば最後、廃人と成り果てます!」
「毒じゃと!?」
「底野迦……これは阿芙蓉と複数の薬に蜂蜜を混ぜ合わせた膏薬です。阿芙蓉はケシの実から採取した果汁を乾燥させた鎮痛薬で、自分の国では
何進の部屋は、即席の阿片窟となっていたようだ。だが、完全な吸飲をしていないことと、精製も雑だったことが救いだろう。何進もそこまで阿片に冒されてはいないようだった。
阿片はメソポタミア文明では既に鎮痛薬として用いられていたほど、古くまで歴史を遡ることができる。西方から流れてきたことにも合点がいく。
「い、いえ……毒であれば構いませんわ……」
何太后も驚きの顔でこちらを見てくる。部屋の外からも、何事かと覗きに来る者が多かった。
「一度、時間を置いてから改めます。鎮痛作用が切れてから診察させてください。炎蓮さん、出ましょうか」
「……承知した」
それから約一時間後。換気もされて香りは一掃されている。
「では、改めて何進殿、診察を開始します」
症状は嘔吐、腹痛と言われていた。触診をした結果、右下腹部に疼痛があるらしい。腹壁を圧迫すると、腹筋が反射的に緊張して硬直する。
「ん……ぐっ……」
(筋性防御……デファンスか。しかしこの時代、採血して白血球増加を確認することはできないが……)
「ぐあぁぁっ!?」
更に圧痛部位をゆっくり圧迫して、手を離せば疼痛は増強され、何進は堪らず叫んだ。
ブルンベルグ徴候である。つまり腹壁にまで炎症は波及していることを意味していた。
「……これは典型的な虫垂炎です。しかも腹膜刺激症状を起こしていると思われます」
「杏林、詳しいことは分からないわ。どのように治すの?」
何太后も他の面々も、首を傾げる。
「腸に付属した虫垂という部位が炎症を起こしています。しかも症状もかなり進行しているので、手術で取り除く必要があります」
「は、腹を切るのか!?」
炎蓮さんも流石に驚いたらしい。
「でなければ、腹膜炎を起こして手遅れになります。何進殿、ご決断を」
「…………薬で散らすことも叶わず、都の医者どもから匙を投げられ、毒紛いのモノを与えられ、あげく治すには腹を切ると……愛しの妹と長く過ごせるのなら、構わぬ……まな板の上の鯉となろうぞ」
「分かりました。誰か遣いをお願いします。外の兵士に道具を預けてありますので」
外で待たされている兵士たちは、既に用意をしていたのだろう。道具はすぐに届けられた。
何進には別の部屋に移動してもらい、準備を進める。炎蓮さんは飽きたと言って部屋から出ていってしまった。
「冥琳、また手伝ってほしい」
「分かった。雷火殿も見学されますか?」
「無論じゃ」
「手伝いは多い方がええやろ?」
賈駆と話していたはずの霞も、火箸や木綿布を持って部屋にやって来た。
「ウチも手伝うで。何進は同僚やからな」
「助かる、霞」
前回の手術では祭さんがいたが、今回は冥琳と霞の手助けの元で行う。雷火さんと何太后は見学ということで部屋の端で静かにしている。
エーテルも効き、何進は既に意識を手放していた。
自分も一度、深呼吸。
「虫垂炎摘出手術、始めます」
冥琳からメスを渡され、手術は始まった。
底野迦は、紀元一世紀にはギリシャで作られていたそうな。
お待たせしました。次こそ手術回です。
黄巾の乱はいつになるのやら。