真夜中、城壁上の通路で夜空を見上げる一人の女性がいた。
「かような所にいらっしゃいましたか、風邪を引かれますぞ
大殿、と呼ばれた女性は声の方に振り返ることはなく、ずっと夜空のその先を見つめるように凝視していた。
「……何か、星の動きに怪しげなものでおありでしたかな?」
夜空の中に、小さく一点光るものが見えた。それは徐々に大きくなる。
「流れ星……?」
「近いぞ」
光は大きくなり、一瞬更に大きく光って南の方角に落ちていった。そして、わずかに聞こえる墜落音。
「黒天を切り裂いて、天より飛来する一筋の流星。その流星は天の御遣いを乗せ、乱世を鎮静す」
「……なんですかそれは?」
「
「大殿は、いつから予言なんぞを信じるようになったのやら」
管輅は、
流星を私たち以外にも見ていたものがいたのだろうか、街の方から歓声のようなものも聞こえてくる。夜間の警備兵だろうか。
「もしや大殿、誠に今の流星が天の御遣いを運んできたとでも?」
「その方が面白い。このオレの目と鼻の先に落ちてきたんだ。まさしく天啓よっ!」
女性は大きく胸を張る。
「婆よ、これは天が孫文台にすがっておる証拠よ。確認には
「まーた派手な流星やったなぁ」
私は馬上から流星を確認していた。旅から旅への根無し草、こうして夜間の移動をすることは珍しいが、これは良いものを見た。しかも墜落地点は私のすぐ側である。星が落ちたのを見たのは初めてだ。普通なら飛んでいる途中で消えてしまうものだが。
都を出て、南方の海の方にやってきたのは正解だったのかもしれない。都での仕事に嫌気が差して、数週間前に辞めてきた。その結果が今の流浪の旅人。都から遠く離れた
「こりゃ、
さて、流星の落ちた場所を見に行こう。こんな真夜中だから無いと思うが、付近に怪我人がいたらいけない。
「え……人……?」
いや、いた。流星の落ちた場所に怪我人というべきか、とりあえず人がいた。その落ちて大きな窪みとなった所に白い光をまとった青年が倒れていたのである。事実関係だけで考えるなら、この男が落ちてきたと見るが、常識的にありえない。
「いやいやそんなアホな……落ちてきたなんてなぁ? てか大丈夫か兄ちゃん!」
頬を叩いても起きる気配はない。既に事切れていると思ったが脈はあり、生きている。眠っているようだ。
そしてもっと分からないのが格好である。所々が血で汚れた白い服を着ている。ただ、ボロ布なんかではなくて上等な絹のように滑らかな生地だ。
「待てっ! 何者かっ!」
手当をしようと思ったら、背後から強めの口調で声を掛けられた。振り返ると、桃色の髪の美女が立っていた。
「な、なんや! あ、せやありがたいわ! さっきの流星、落ちたとこに来たらこの人が倒れてたんや。一緒に助けてくれんか!?」
「え、あ、あぁ……」
私の馬に青年を乗せ、彼の持ち物であろうツルツルした鞄や液体の入った小さな容器を回収して、馬に跨った。
「あなた、何者なの?」
先程、声を掛けてきた女性が訊いてきた。まぁ、不審人物だと思って声を掛けたら救助を一緒にしてくれと言ったくらいだ。このご時世、山賊や盗賊の類と思われて仕方がない。
「ウチは
桃色の長髪をした女性は驚いた顔をした。
「し、失礼したわ。私は呉郡太守孫堅が嫡子、
「アンタが江東の狂虎の娘かぁ……また凄い人に会うもんや……しかもこんな時間に」
「ホント、私も突然母様に叩き起こされて、星を捕まえろなんて言われたからビックリしたわよ。しっかし、母様の
二人は少し笑いながら、建業の街に向かうのだった。
知らない天井だ、なんてお約束の言葉を言ってみるが、別に感情が希薄な青髪美少女が現れることはなかった。時間帯は早朝のようで、スズメの鳴き声が聞こえた。心地よい朝だ。そして、この布団がとても気持ちいい。起きたくない。だが覚醒するにつれて、地震の記憶が鮮明に戻ってくる。
さて……自分はどうやら気絶していたようだ。伊沢に申し訳ない、応援が来ていたら良いのだが。早く処置室に戻って治療に当たらないと。ぐっすりと眠っていたせいか、頭は非常に冷静である。
そういえば、あの薬品棚はどうなったんだろう。大きな余震で倒れてきて、自分の身体を押し潰した。脚から少しずつ、ミシミシメリメリと。思い出した途端、足がむず痒くなって起き上がり、掛け布団を引っ剥がした。五体満足、何も問題がない。
いや、ある。
「ん、布団? いや、ここは…………どこだ?」
見覚えのない部屋とベッド、現代感のない木の温かみを感じる家具。はて、こんな意匠の凝った病室なんてあったか。誰かが助けてくれたのだろうか。
「白衣もない。バッグは……あった」
部屋の中央にあるテーブルの上にエナメルバッグがあった。そして、白衣のポケットに入れてあったはずの小瓶の数々も。起き上がって、バッグからスマホを取り出して起動するも、なぜか圏外表示となっていて、時間も深夜12時を指したまま、全く動く気配がない。おかしいな、院内で圏外になるなんて。
「おぉ、目ぇ覚めたみたいやな」
その時、扉を開けて入ってきたのは青髪美少女ではなく、紫色の髪の美女。だが、なぜか聞き慣れた関西弁。
「怪我はないんか? 気分はどうや?」
スマホと睨めっこしても、解決するはずもなかった。
「立ててるから良かったわ。空から落ちてきたのに……丈夫な身体やなぁ」
「は? えっと……看護師、じゃないですよね」
「なんや、まだ頭はハッキリしとらんか。ウチは張遼。字は文遠。よろしゅうな、名無しさん」
「ちょ、ちょうりょう?」
「姓は張、名は遼、字は文遠や。なんやホンマに大丈夫か?」
美女はかなり不信感を持って接してくる。
自分の知るところ、張遼って、遼来々の張遼しか分からない。あ、黄巾党の張梁もいたか。いや、でも女性だし。ただ、冗談を言っている感じではない。いや、分からないことが多すぎる。大地震が襲ったとは思えないほど
すっごい扇情的……サラシってダメですよ。露出が激しすぎる。下は袴っぽいけどスリットが深すぎて色々と見えそう。耐性の無い男には勘弁してほしいような格好である。
「すみません、状況がさっぱり分からないんですが……」
話をしてみても、地震やら津波などの情報もなく、そもそも海には近い場所であるようだが何も問題は起きていないようだった。つまり、自分のいた病院や伊沢の状況も分からないということである。そもそもここはどこだ。何も分からん。実に面白い、なんて言っている場合でもなく、危機感しか起こってこない。
「……ちょう、りょうさん?」
「せや、張遼や」
「ここはどこですか?」
ありきたりな質問かもしれない。典型的というか、ここはどこ? をリアルで体験するとは思わなかった。
「ここは
「……どこですか、そのようしゅう……たんようぐんって」
日本じゃないのは間違いない。普通なら県と市を答えるが、州と郡って……。
「アンタはどこの生まれなんや? 洛陽か?」
「いや、京都府の左京区だけど……」
「きょうとふ……さきょう? そんな村、あるんかいな。どこの州にあるんや?」
張遼は腕を組んだまま考え込んでしまう。仮に外国人であるとしても、京都の名前を知らないことに疑問がある。よく見れば、部屋の意匠もアジアンチックだ。アジアンと言うより、中国寄りの。京都を知らないという時点で一つのありえない事実が浮かびあがる。
「待って……ちょっと待ってくれ!」
ずっと思っていることだが、違和感が多すぎる。この張遼とか言う美女の服装もだ。
(時代が違う……?)
突拍子もない、馬鹿げた考えではあるが、確認も兼ねて聞かねばなるまい。
「……幾つか質問をしても?」
「なんや?」
腕組みを解いて答えるこの張遼も、日本人とは思えない雰囲気を持っている。リアルに人間ホームランをやってのけた武人、かなり昔にネットで調べた知識が頭をよぎる。
しかし、現実感だけはある。胡蝶の夢なんてものではなく、リアルな質感。触れれば感じることのできる人間が目の前にいる。
「ちょうりょうさん、字がぶんえんさん、だったよね?」
「せやで」
「もしかして、張る張と、遠い意味の遼の字で張遼?」
「おぉ、よう分かったな」
感心した顔で驚く張遼。まぁ、いきなり名乗っただけで漢字を言い当てられれば気持ち悪いと思われても仕方がないだろう。
「で、そんけんさんの館、だっけ?」
「そうやで。さっきも言った通りや」
「その、そんけんさんって、子孫の孫に、権力の権かな……?」
「いいや、堅牢の堅、堅固の堅で孫堅殿や」
「あ、じゃあお父さんか」
「え、孫堅殿は女の人やで……?」
そうか、じゃあもう諦めよう。運の悪い近藤青年は、薬品棚に押し潰されて、三国志の世界にタイムスリップしてしまったと。しかも登場人物は女性に変わっているときた。この目の前にいる張遼も関西弁を操る美女だ。思考の海は広く、深く、荒々しかった。何もかもさっぱり分からない。
元の世界が非常に気になる。かなりピンチな状態だったと記憶している。胡蝶の夢か。そうだ、これは夢だ。危機的状況下において、脳が最期に心地の良い夢を見せているに違いない。すぐに思い出せるぞ。この身体を押し潰した棚の感触はな。
「じゃあ、次はアンタの番や。名前は分かるか?」
「あ、近藤一慶です。姓が近藤、名前が一慶……字の風習は無いんだ」
間違いなく名前でツッコミされると思ったから、色々と言い過ぎたが、問答するのも面倒だ。
夢なら早く覚めて欲しい。