まったく、閨に誘ったのにノッてこないなんて……。
私は自室に戻って深い溜め息を吐いていた。
月が綺麗、なんて言われるからああやって返したのに何も気付いていないし。
別の世界の記憶の中で、貴方が教えてくれたのよ。とある文豪が『愛している』を『月が綺麗ですね』って言い換えた話を。それに対して『死んでもいいわ』って返すのが
管輅の予言を聞いたときに、何故か分からないけど、私は思い出したわ。全部ではなくて断片的だけど、前にも天の御遣いが墜ちてきたことと、それからのことを。
孫堅の元にではなく、私の元に降りてきたことがあるということを。
彼は何もかも覚えていないのかもしれない。
覚えていなくて良い。でも、斃れた彼は帰ってきたのだ。愛していた彼が。
私は、覇道を進む曹孟徳。
「けれど……今だけよ、今だけは……慶、慶……んっ……」
彼を思い出してから、ようやく顔を見たときの胸の高鳴りは、戦場での高揚感とは異なるものだった。
あの煙草の香りと、微かな薬品の香りが懐かしかった。
その香りを思い出しながら
夢の中を、貴方の影を辿りながら――。
何進が目覚めたと伝えられたのは、華琳と別れて部屋に戻ってからすぐのことだった。
真夜中であっても対応は変わらず、呼びに来た侍女と共に部屋へ向かう。研修医時代も三国時代も、夜に呼び出されることなんて医者ならば日常茶飯事、という認識でいこう。
「何進殿、大丈夫ですか?」
「杏林か……良いぞ。入れ」
電気もない時代、何進の顔を照らすのは行灯の明かりだけであったが、顔色が良くなっているのは間違いなかった。
手術前の困憊した顔つきも、元の美しい顔つきに戻っている。食事が摂れるようになれば、肌のハリも戻ってくるだろう。
「まだ痛むでしょう? 動き回らないでくださいね」
「そうだな、だが……我慢できぬほどでもない」
「……酷く痛むようでしたら、いつでも言ってください」
何進は目配せをして、侍女を下がらせる。
「杏林よ、此度の件感謝する」
そして頭を下げた。部下などの手前ではプライドもあって下げられなかったのだろう。
「いえ、それが私の仕事ですから」
「そうか……だが、褒美は期待しておけ? 天の御遣いよ」
「何進殿……御遣いとは、何のことやらさっぱり俺には……」
何進の目は鋭いものに変わる。
「しらばっくれるでない。孫堅が連れてきた正体不明の医者なぞ、該当するものが天の御遣いしか無かろう。その輝く白衣も、何も知らぬ者から見れば天の羽衣にしか見えぬ」
「……ですか」
「うむ。それに天の御遣いが治したのであれば、これからの黄巾の戦などで傷を負ったとしても問題あるまい」
「……何進殿、確かに私は治療をしました。ですが、それは貴女に再び痛い思いをさせるためではありませんっ! 次、同じようなことを言えば、一切の治療を拒否します」
戦場というものが身近にある時代、そのような思考になることは別に間違ってはいない。しかし、この医術は再び戦場に立たせるためのものではない。
少し語気を強くして言い過ぎたと思ったが、何進の反応は薄い。
「す、すまない……杏林、悪かった。このように怒られるなど、大将軍としてなんと無様か……そしてその男に、身体を外側も、内側も全部見られた、と思うと……んっ、はぁぁ……」
何進は突然、目を蕩けさせて艶めかしい息を出し始めた。いや、突然なに!?
寝台から乗り出す何進を肩を持って抑えつけるが、力も強く押し返そうとしてくる。本当に一ヶ月ものたうち回った人とは思えない膂力だ。
「か、何進殿! 今はっ……身体にっ、障りますからっ! 落ち着いて……っ! くださいっ!」
「何進などと呼ぶなっ! 傾と呼べ……」
いきなり真名まで預けてくる。前後不覚となっている何進を無理やり押し戻し、身体を離す。
少し荒れた息も静かになる。
「何進殿」
「傾だ、そう呼べと言っただろう」
「……傾様」
「様もいらん……杏林の真名を教えてくれるか?」
「慶です……」
「む、傾と慶か……ふふっ」
傾は軽く笑って、天井を見つめる。
「慶よ、私は随分と寝ていた。もう目が醒めてしまっている。良ければ少し時間を」
「分かりました」
「言葉も崩せ。遠慮は不要だ」
さっきも華琳に言われたような気がする言葉に、自分も少しだけ笑ってしまうのだった。
書けば書くほど、華琳様可愛いんですが。
今は魏ルートに見えるかもしれませんが、ちゃんと呉に戻りますので!