粋怜と祭さん二人同時に会話をすると、語尾が狂うんじゃ!
どないしょ……(自業自得)
また上手い具合に修正するので許して……。
神の住む山攻略の秘密兵器、ガラス製のフラスコを手に、温泉街へと向かう。乗馬にも慣れ、旭と風になるように駆けていた。
「慶くん、かなり速度が早いわね」
「はっはっ、ようやく乗馬にも慣れたようじゃの。粋怜、儂らも追いかけるぞ!」
「分かったわ!」
行軍速度を上げているのにも理由がある。それは単純に早く戻らなければ、洛陽からの使者を待たせてしまう可能性があったことだ。
冥琳の目算では、あと五日ほどで到着するだろうとのこと。今回の攻略には登山も含まれることと、帰りは戦利品を慎重に運ぶために時間がかかる。そのため、無駄な時間を削減したいという目論見があった。
前回は自分の遅さと、雷火さんがいたために立ち寄った途中の街も素通りした。朝に出発して夕暮れに到着した道のりが、今回は昼過ぎに到着するという具合からも二人に驚かれたのだった。
「慶よ、そろそろ教えてくれぬか? あの神の山で何があったのか」
前回も宿泊した宿に到着し、部屋に転がり込んで一息ついたところで祭さんに訊かれた。
「……では、説明しましょう。あの山で何があったのか。まず、山で亡くなったという夫婦には、目立った外傷がありませんでした。これは、神の怒りなんかではなく、硫化水素中毒の影響と考えられます。亡くなった方の皮膚が緑色に変色していたことからも、特徴が一致しています」
「その、りゅうかすいそって言うのは何?」
部屋のお茶を淹れながら、粋怜も会話に加わった。
「街を薄く漂っている、硫黄から発せられる腐卵臭の正体だ。これは薄ければ今のように何も起きないが……ただ、高濃度になると嗅覚を麻痺させる作用があるため、気がつくことも無く、即死する」
「即死じゃと……?」
「祭さん、例えばですね……よいしょっと」
自分は立ち上がり、腰の辺りに手を当てた。
「硫化水素は自分たちの呼吸をする空気よりも重い性質があります。とある登山家が、靴紐が緩んだために、結び直そうとしゃがみました。だが、誰もが鼻が鈍っていて硫化水素が滞留していることに気が付かなかった。そのまま……」
「そのまま、どうなったの?」
「しゃがんだまま、その人は二度と立ち上がることはなかった。そう、そのしゃがんだ瞬間に高濃度の硫化水素を吸入してしまい、亡くなっていたんです」
部屋は沈黙に包まれる。
「俺の推測はこうです。山頂に硫化水素が溜まっていて、それが吹き下ろしなどによって、山肌を駆け下りるように流れ出た。そこに運悪く山菜採りに来ていた夫婦がいた……これが事の真相でしょう」
「ちょっと待て」
祭さんが話を止めた。
「その硫化水素は重いと言ったな。山頂に溜まってから流れ出るのは不自然であろう?」
「非常に良い質問ですね。そう、本来は麓の吹き溜まりに硫化水素が集まるはずです。その答えは……恐らく現場に行けば分かります」
「炎蓮様から粗方聞いていたから大体の目的は分かってるけど、根本的なことを訊いてなかったわ、その危険な場所に入る方法よ」
「それも訊かれると思っていた。そのために用意したのが……これだ」
粋怜からの質問も、ごもっともだ。無防備で山頂アタックを敢行すれば硫化水素の
「このマスクを口に当て、繋がっている竹筒を背負います。竹筒の中には蒸し焼きにした竹炭*1と灰の
ちなみに最初は陶器で竹炭を詰めるようにしていたが、重量が問題となって竹筒になった経緯がある。
「だから、炭職人にも会っておったのじゃな」
祭さんが得心して頷く。
「しかし、効力のある時間は短いでしょう。勢い良く呼吸をすればその分滞在時間も短くなります。そのためにこちらも用意しました」
自分の取り出したものを見て、粋怜は呆れたような声を出した。
「それって……手術に使うメスじゃない。そんなもの、どうするのよ」
「硫化水素のもう一つの特徴、それは銀を黒く変色させるというものだ。このメスは最初に建業の職人に作ってもらった、銀製のメス。それを木の棒にでも括り付けて、前方に向けながら歩いていく。高濃度の場所になると――」
「メスが黒くなるから、そこからこの『ますく』を装着すれば良いってわけね」
「そういうこと」
粋怜と祭さんが同行した理由、それはただ前回も一緒だったから、というものではない。炎蓮さんと話し合った結果だった。
『雪蓮はダメだ。言う事を聞かずに先々進みそうだからな』
同様に、冥琳と穏は豪族の長と会う予定があり、雷火さんは背が低いため、候補から弾かれた。結果、一番信頼の置ける宿将に白羽の矢が立ったわけだ。
「しかし、危険と判断した場合は即座に下山します。このマスクも硫化水素に対して効力がどれだけ
仮にマスクの効力が一切発揮されなければ、被害は一人だけで済んだほうが良い。そう思って進言したが、それは突っぱねられてしまったのだった。
『貴様だけが山に入り、倒れてでもしてみろ。誰が助けるんだ?』
助けるなんて、そんなことは無理だ。このマスクはぶっつけ本番の試作品である。失敗は即ち、死を意味する。
『大丈夫だ、一慶。貴様ならやれるさ。この孫文台が保証する! 目的のものが手に入らずとも良い! だから、生きて帰ってこい』
「まぁ、大丈夫なんじゃない? 泰山府君の侍医が神の怒りに触れることなんて無いわよ。さ、行きましょ」
粋怜はあっけらかんとして言う。
「そうじゃな、時間は待ってくれんからの」
緊張感も一切感じられないまま、宿をあとにして山に向かう。
「この川はダメじゃな。魚が全く泳いでおらん」
そこまで標高が高い山ではないが、登り始めてから十数分もしない内にその景色が変わる。麓は木々の生い茂る森だったが、徐々に植物の姿は見えなくなり、岩山へと変貌していく。
その岩山を流れる川には、生物の姿も見えない。強いて言えば、苔が生えているぐらいだ。強酸性の水辺でも生息可能な特殊な苔、チャツボミゴケである。
「この上流が目的地です。谷にいるのは危ないので、尾根伝いに行きましょう。ここから先はメスを使います」
銀のメスが括り付けられた、この弱々しい槍が文字通り命綱となるのだ。なんと貧相なことだろう。
それと同時に、この上流には目的のものがあるという確信を得ることが出来た。しかし油断は禁物である。
「ゆっくり、登っていきましょう」
腐卵臭は強くなってきているが、まだ感じられる。細心の注意を払いながら登ってゆく。
「慶くん、山頂よ……あっ」
「おぉ、これはなんと……美しい」
山頂は窪地となっていた。この窪地に硫化水素が溜まり、吹き下ろされることで被害を出していたのだ。
「祭さん、これが答えです」
窪地に溜まっている、川の源泉。エメラルドグリーンに染まった神々しい光景は見る者を虜にする。
「これが、今回の目的――硫酸です」
八世紀、イスラム世界の錬金術師が発見した物質である。用途は多岐に渡り、現代科学に欠かせない重要な薬品で、硫酸の生産量はその国の工業力を示す指標となると言われる。
「カルデラ状の硫酸湖、初めて見たな……祭さん、粋怜、この水には絶対に触れないでください」
「一応訊いておくが、触れたらどうなるのじゃ?」
「簡単に言うと、溶けます。この硝子は溶けません。マスクを装備して、呼吸を整えて……行きますよ……!」
大きく深呼吸をしてから、槍を先頭に、自分、祭さん、粋怜の並びで、湯気を立たせながらゴボゴボと沸き立つ湖に近づいていく。
メスの先端が、ズズズッと黒く変色した。しかし、硫黄の臭いはしたままだ。吸着が上手く行われている証拠である。
そのまま、柄杓を使って汲んでいく。そして同じくガラス製の蓋で封をした。
「……完了です。戻りましょう!」
窪地の淵に急いで戻る。自分の身体はずっと震えたままだ。
「なんかあっけなかったわね。あれだけ恐れてたのが恥ずかしく思っちゃうくらい……慶くん?」
「これで……これで多くの人を助けられます。祭さん、粋怜……本当にありがとうございます!」
「はっはっはっ! 怖くて震えておるのかと思ったら、武者震いとはの! まぁ良い、すぐに宿に戻ろうぞ!」
祭さんに肩をバシバシ叩かれて、粋怜には頭を撫でられながら下山したのだった。
なんで硫酸? となった方へ。
「でも、これで多くの人が助かるって不思議ね。飲んだら溶けちゃうんでしょ?」
「飲むわけではなくて、調合に使うんだ。硫酸に酒精を混ぜることで麻酔になる」
毎回活躍するエーテル麻酔は、硫酸を130℃で煮込んだ所にエチルアルコールを注ぐと出来るものである。
「まるで料理ね……」
急ぎ足で緑礬回を終わらせてしまいました。こんなに引っ張る話じゃないんですけどね……。
次回は洛陽に向かいましょう。