太陽が昇り始めた頃。
私の朝は早い。深酒を始めた頃はそれはもうぐっすりと寝て、妹に叩き起こされ、二日酔いに悩まされたものだ。しかし最近は酒精に身体が慣れたのか、早朝に目覚めることがしばしばあった。酒を飲まなかった日の翌朝は、寝ている間に寝違えたのか首や腰が痛くなって起きてしまうことがあったものだ。
だが今日は違った。身体の痛みを感じることなく目覚めることができた。深酒もしていないため身体が軽い。そして充実感のない、この気持ちの良い晴天の朝には不釣り合いの不完全燃焼的なモヤモヤが脳内を覆っていた。
私はそのモヤモヤが少し悔しくて、独りの寝台がちょっぴり寂しくて、もう少しだけこの
太陽が昇り始める少し前。もう少し細かく言うと傾が目覚める10分ほど前。
山の
自分は井戸から汲んだ水を医局に運び、
「慶さま、おはようございます」
「おはよう美花。早いな」
厨房を除いて、城内はまだ眠っているというのに、美花は身だしなみを整えて医局へと来た。今回は気配を消さずに。
「昨夜はお楽しみ……いえ、お医者様としてのクセが出てしまって、そそくさと戻られたのでしたわね」
「見てたのか!?」
気配を消されては察知することは不可能だ。美花は静かに笑う。
「お酒をお飲みになられていたので、酒の肴でもお持ちしようとしたのですが……そうしたら……フフッ。赤い顔をした慶さまが」
「ちょっと待て。どこから見てたんだ」
「さぁ、どこからでしょう?」
そう言うと、洗い終わったグラスを美花は奪い取る。
こういう時のお約束だと、始めから見ていたというのが相場である。何かを言い繕ってもボロしか出さないという嫌な自信しか無かったため、自分はそのまま黙り込むしかなかった。
「こちらは何進さまの所に戻して参りますわ」
「あ、あぁ。よろしく……」
そして医局を出ていった。
美花、なんと恐ろしいメイドだ……。もっと警戒しておかねばならん。このままではプライベートもプライバシーもへったくれもない。
お昼頃には劉協も医局に来るだろう。それまではこの乱れた心を落ち着かせるために道具の手入れをしようと決めた。と言っても1時間足らずで終えてしまうのだが。あとは筋トレの時間にでも充てよう。
昼前には劉協が医局を訪ねてきた。
何故か何太后を連れて。
「ごめんなさい……ずっとついてきちゃって」
「構いませんよ。侍女の方もそれを見越してお菓子を多めに持ってきてくれましたから。……で、何太后様はあちらにご用ですか?」
劉協の後ろから覗くようにして、部屋の中にいるアレを探す何太后。
「そう……
そうだ、畑の案内も頼んでいたんだった。
「焰……?」
劉協は医局の中にいた白い幼獣を見つけた。
「……ネコ?」
「雪豹の子供ですよ。撫でてみますか?」
「うん!」
たった一撫で。それだけで劉協が焰の虜になったのは言うまでもない。
「このフワフワモフモフな手触りが堪らないのよねぇ」
「雪豹の子供、初めて見た……。前に見た本だと、西涼の山地にいるって書いてたんだもん。何で洛陽に……」
「劉協さま物知り。読書の賜物ですわね」
一通り焰を撫で回した劉協は、読書を始めていた。
医局に流れる
「ねぇ、劉仁殿」
「なんでしょう」
「姉さまと寝たの?」
「劉協様の前で教育に良くない発言は、例え何太后様とはいえ容赦しません」
何太后の頭を手刀で軽く小突いた。
「あいたっ……酷いじゃない。手を出さないなんて」
「昨晩、美味しいお酒は飲みました。それだけです」
「それだけなのが問題なのよ。……確かに難しいのは分かるけど」
昨夜、どうにでもなれと思ったことは言わないでおく。あれは気の迷い。酒のせいだ。
「劉仁、城の外には海というものがあるの? 見たことないの」
少し時間が経って、自分は薬棚の中身の確認を行いながら、劉協と何太后の質問に答えていた。まるで塾講師みたいだ。
「そうです。この洛陽から黄河の流れに乗って行けば海に出ることができますよ」
「その海の向こうの滝を見たことはある? 船で行くと落ちるって書いてあった」
この質問には少し困った。この時代の常識は地球平面説が主流である。しかも17世紀にヨーロッパの天文学が導入されるまでその時代は続いていた。古代中国の天文学には地球球体説そのものが存在しなかったのである。
「……水平線の先に行っても滝はありません。その先もずっと海や陸地が広がっています。黄河を下って東に進むと
用意していた紙と筆で、中国大陸と黄河のラインを描いていく。
「半島を迂回して更に行けば、倭国という島国があります。このように水平線の遥か彼方にも陸地が存在しているのです」
半島の右側に日本列島を描き込んだ。
「その先はどうなっているの?」
「島国の更に東は広大な海が広がっていて、点々と小さな島があります。この島国から次の大陸が見えてくるまで約21000里にもなる距離がある、それほど大きな海です。これを太平洋と言います」
この時代には見つかっていない北米大陸と南米大陸を描き、日本列島と線を繋いだ。
「もちろんこの先にも広大な陸地があり、大秦があります。そこから先は劉協様もご存知の通り、天竺などの様々な西方の国があって、ここ。漢に戻って来るということです」
「…………それじゃ真っ直ぐ歩いてたら同じ場所に戻るの?」
劉協は首を傾げながら質問をする。
「そういうことです。なので海の先、水平線の先が滝になっていて落ちる。なんてことは無いのですよ」
「えっと、えぇっと……それじゃ何かおかしいんだもん」
筆で円を描く劉協。
「真っ直ぐ歩いて同じ場所に戻ってこられる、ということは……わたしたちが立っている地面が丸いことになっちゃう。やっぱり反対側だと落ちちゃうんじゃ……?」
「とても鋭い。良い質問ですね。そう、我々の立っている地面はとてつもなく巨大な球体です。この球体には重力という、球体の中心に向かって引っ張る大きな力が働いています。なので物を持ち、空中で手を離すと地面に落下します。飛び跳ねた時も同様です。これは力の働く場所全体で
自分が話せば話すほど、劉協と何太后の顔が渋く複雑なものになってくる。地球球体説から重力の説明を簡単に行うとこんなものだろうか。でも分かりにくいことこの上ない。
「一度に説明するには情報量が多すぎましたね……気分転換にお茶でもしましょうか」
追加でお茶菓子を美花にお願いして舌鼓を打ち、お茶を啜る二人。
机に置かれたままの簡易地図を見て、何太后が口を開いた。
「うーん、不思議なものね。前に文官から聞いたものとは全く違って新鮮だわ」
「気になりますね。どんなものです?」
何太后が聞いたものというのは、この後漢の時代に主流の考え方であった
簡単に説明すると、天は卵の殻のように球形に覆っており、大地は気や水によって支えられ浮いており、さながら卵黄のようにその内部構造中央に位置している。というものだ。
「慶、迎えに……これは劉協様! ここにいらっしゃるとは」
一息ついたところで傾が迎えに来た。
「色々と教えてもらってた。わたしの知らないことを劉仁はたくさん知ってる!」
そして自分が喋っていた内容を、図の描かれた紙を傾に見せながら力説する劉協。しかし何が何やら分からず困惑の表情を彼女はするしかなかった。
「劉協様、申し訳ありません。私の理解の外にあるような話で何が何やら……」
「だったら、今度は劉仁の授業を皆で受けたら良いんだもん」
「いえ……私は難しいことを覚えるのが苦手で」
何太后が傾の手を取る。
「良いじゃない。私も一緒なんだから。もっと人を増やして楽しめる場にしましょうよ!」
「わ、わたしが読書する所だもん……人は少ないほうが良い」
それからは、この部屋は医局と小教室の二つの顔を持つようになる。
あの日が来るまでは。
太平洋の距離に関してですが、当時の度量衡を参考にして、東京からロサンゼルスの距離をザックリ計算しております。
説明長すぎですよね。もっとスマートに説明できる方法があればご享受ください……。