燈が八ツ原にやってきました。
「なるほど、ここは『異界』なのか」
妙に感心したように何度も頷くそのひとの瞳は、ひどく面白そうに輝いていた。
叶木燈というこの不思議なひとと出会ったのは、ほんの偶然だった。それは、田沼の家に遊びに行く途中のこと。そのひとは気配もなく森の茂みの中からひょっこりと顔を出し、ニャンコ先生が喋っているところを見られてしまった。
慌てて何とか誤魔化そうとする俺の話をまあまあと手を振って遮り、一言。
『つまりただの猫じゃねーんだよな。君、そういうの見える人なんだ?』
ここで動揺してしまったのも良くなかった。完全に叶木さんのペースで話を進められ、いつのまにか話してしまったことに気づいたときには愕然とした。阿呆め、ニャンコ先生には呆れられたが、本当に何が起こったのか。
そして俺の言葉を疑うそぶりを全く見せなかった叶木さんの「また話せる?」という言葉に流され、今もこうして八ツ原の森のなかで並んで座っている。
「いやー呪霊とはまた違う感じなのか。悪かったなニャンコ先生、理の違う場所に来たの初めてなんだよ」
「フン、高貴な私をあんな穢れの塊を一緒にするなど無礼にもほどがある!」
「ごめんて。いやーでも結構感動だなー、いくら依り代があるからって俺ひとならざるものを見たの初めてだよ。しかも会話ができるとか光栄だね!」
先生超もちふわじゃん、とか言いながら叶木さんは平気な顔でニャンコ先生を抱き上げている。
民俗学の研究をしているという叶木さんは、調査の一環としてこの八ツ原を訪れたらしい。しかもその研究に関係なく、ひとならざるものが見える知り合いがたくさんいるのだという。俺には欠片も才能ないらしいけどね、と叶木さんは平気な顔で言った。
「叶木さんのお知り合いは、その『呪霊』が見えるんですか?」
「うん。そういうのを祓う仕事をしてるよ」
「祓い屋なんですか」
「そういう言い方もできんのかな? どうなの先生」
「似て非なるものだな。そもそも世界の理が違うのだから」
ことわり、と繰り返すと、叶木さんはにこりと笑う。
「たとえ地続きの場所であっても、何となく空気の違うとこってあるだろ? 自分の属する場所と違うものを基盤として在る世界とでも思っときゃいいよ。『あ、ここ俺の世界じゃねーわ』くらいの解釈でオッケー」
「そ、そういうものですか?」
「そういうもんそういうもん。……ふうん、でもそっか、ここではひとと妖がこんな風に交流をもつこともできるんだな。あいつらが聞いたら卒倒しそう」
「……いや、多分結構俺が特例です……」
「あ、そなの?」
じゃあ夏目くんすげーんだな、と軽く言われて、むしろ言葉に詰まる。妖と心を通わせることを否定的に言われることはあっても、それをすごいと言われることはそう多くない。
叶木さんの「世界」でも、ひとならざるものと交流をもつことは珍しいのだろう。詳しく聞きたいような、そうでないような、妙な感覚に囚われる。
あの、と口を開きかけたところで、叶木さんの目がわずかに細められた。ひく、と何を言われたわけでもないのに息が止まる。叶木さんの膝にいたニャンコ先生が、ぴょんと俺の膝に収まった。
「俺のいる『世界』ではさ、呪いが跋扈してる」
俺には見えないからよくわかんねーけど、と叶木さんは笑顔のまま言った。
「穢れの集合である『呪霊』を、同じく穢れを力とする『呪い』で祓う。禁じられてはいるけど、そいつらの『呪い』は当然ひとを傷つけ、呪うこともできる。俺なんか一瞬で殺せるらしいよ」
「、」
「でも、やっぱそういうことができる人間は少なくて、けど呪霊はどこにでもわいて出てくるから、常に人材不足なんだと。だから、力のある人間を見つければ片っ端からスカウトしてるんだよね」
今までとは少し違う、わずかに重みのある声。けれどそんなことは関係ないとでも言いたげなニャンコ先生は、俺の膝の上で大あくびをしていた。
「この貧弱なもやしに呪術師が務まるわけがなかろう。いらん心配だ」
「誰がもやしだ!」
「やー確かに夏目くん向いてなさそうだよな! 喧嘩弱そう!」
「叶木さんまで!」
はっは、と軽く笑ってみせた叶木さんは、だから、と続けた。
「呪いとか呪霊とかそういう言葉を使う人間がいたら、絶対にそいつらには『見える』ことを悟られちゃいけない。このままここで生きていたいならね」
その言葉と同時に落ちた静寂が耳に痛い。ざあっと吹いた風は、やけに冷たかった。
にこりと改めて笑顔をつくった叶木さんは、なんてな、と誤魔化してみせたけれど、それはきっと心からの忠告で。これを言うために俺と話す時間を作ったのだと直感的に思う。同時に、理解した。
この人は、俺の心配をしてくれたのか。
「……覚えておきます」
「うん。いやー呪術師なんてろくでなしばっかだからさ。俺の知り合いどもなんてその最たるもんっつーか、いやあクズ野郎っているもんだよな!」
「く、クズって……そのお知り合いとは、仲が良いわけじゃないんですか?」
思わずそう言うと、叶木さんはきょとんとした顔をして、また小さく噴き出す。親しみと、信頼と、それ以外の何かが含まれているような、ただただ愉快そうな笑い方だった。
「こういうとこ夏目くんは擦れてなくていいな、先生」
「ふん、単純にガキなだけだろう」
「何だと先生」
「いやー仲良いね。微笑ましいわ~」
違う、と俺と先生が声を揃えると、また弾けるように叶木さんは笑った。本当によく笑う人だ。笑顔以外の表情ができない人なのかもしれない。
ひとしきり笑ったあと、さてと、と叶木さんは立ち上がった。
「じゃ、言うこと言ったし、俺はそろそろ行こうかな」
付き合わせて悪かったね、と叶木さんは服についた汚れを払う。聞けばこの近辺での調査はすでに一段落していて、また次の街の調査に向かう予定らしい。俺もつられるようにニャンコ先生を抱えて立ち上がる。
大きなリュックを肩に背負い、じゃあ、と言ってから叶木さんは少し考えるように視線を浮かせた。
「……ああ、いや、やっぱやめた」
「叶木さん?」
いや、と叶木さんは少し苦い笑みを浮かべて首を振る。
「連絡先渡しとこーかなーって思ったけど、やっぱもう会わない方がいいなって。俺から足がついて君の存在があいつらにバレたら面倒だし、他のやつにバレるのはもっと厄介だし」
「……叶木さん、」
「夏目くん、今、しあわせそうだもんな」
俺は、叶木さんに自分のことはほとんど何も話していない。学生だと言うこと、この八ツ原に来てまだ日が浅いこと、せいぜいそれくらいだ。なのに叶木さんは、何故だか俺の生い立ちも、何もかもを見通しているような気がした。
俺にとって、ここでの生活がどれだけ大切なものか。きっとこの人は、理解している。
―――いや、いくらなんでもそれは考えすぎだろう。叶木さんはあくまでもただの「人間」で、自分に特別な力なんて何もないと言っていた。なのに、どうして。
ゆるやかに細められた瞳は、ただ優しい。
「……はい」
そう頷くと、視界の端でニャンコ先生の耳がぴくりと動くのが見える。
うん、と叶木さんは頷いて手を伸ばし、うりうりとニャンコ先生の頭をなでた。
「話聞かせてくれてありがとうな。君のことを他に漏らすようなことはしないから安心して。ニャンコ先生もさんきゅーな」
返事をする代わりに鼻を鳴らすニャンコ先生をこら、と諫めるが、叶木さんは相変わらず何食わぬ顔。
「気にすんなって。猫は懐かないのが可愛いって言うじゃん?」
「私は猫ではないと言っているだろう!」
「はっは、どこをどう見てもただのブサ猫」
「何をぅ!?」
「こら暴れるな先生!」
じたじたと短い手足で暴れるニャンコ先生を指さして笑い、それじゃ、と叶木さんは俺に背を向ける。首だけをこちらに向けて、変わらない笑みで口を開いた。
「元気で」
「はい。……叶木さんも」
ありがとう、とだけ言った叶木さんは、もう振り返らなかった。
きっと、もう二度と会うことはない。地続きなのに理の違う「異界」から来たという、ひとならざるものの存在を見えずして知るひと。あんなひともいるんだな、と誰にいうでもなくひとりごちる。すると腕の中から返事があった。
「ああいうのはな、夏目。ただの阿呆というのだ」
ニャンコ先生は欠伸混じりにそう言ったが、その声色は叶木さんを悪く言うようなものではなく。むしろどこか、親しみさえはらんでいるような気がした。そうかな、と相槌を打てば、そうだ、とニャンコ先生はぐるぐると喉を鳴らして目を閉じる。
「わざわざ呪いの蔓延る世界で生きることを自ら選択した、ただの阿呆だ」