トレセン学園卒業後、怠惰に日々を過ごすエアシャカールであったが、ある日ファインモーションが訪ねてきて──。

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寝る前にでも覗いていって下さいね。後悔はしないと思います。このお話は一応、過去作の「ファインモーションの劣等」と繋がっていますが、今作だけでも十分に楽しんで頂けます。ではどうぞ〜


エアシャカールの追悼

 

0.

 

 ネオンライトに染まる女は夢を見ている。

 日の目を浴びぬ地下クラブでオトナの色気を垂れ流す。

 よそ行きの顔を貼り付けている。

 この場において、そいつの素顔は存在しない。

 

「今からモナドのDJタイムらしいぞ」

 

 観客の誰かが俺に期待をかけた。

 “エアシャカール”がモナドの仮面を被る。

 

「やるか」

 

 ポソリと呟いて、俺はDJミキサーに指を掛けた。

 スクラッチ。

 電子音楽でフロアを爆撃する。

 

──ファイブ、シックス、セブン、エイト──

 

 ズンズンと、重低音が鼓膜を揺さぶっている。

 店内を移動する者は皆、例外なくリズムにノっている。

 俺が、ノせている。

 紫色の蛍光灯が、空いたワイングラスをうっすらと染め上げた。

 反射したミラーボールの斑点が猫を誘うように床を這う。

 この場に限って、猫は誘う側に回るのだが。

 胸元を曝け出した金髪女が、グラスにテキーラを注ぐ。

 アイスのロック。

 ディッシャーでくり抜かれた丸い氷に、まだらなヒビが入っている。

 今宵、そいつは狩りに出るのだ。

 甘ったるい香水に惹きつけられた1匹の雄を。

 酒を煽りつつ待ち侘びる。

 そんなハリボテ同然のワンナイトを、俺は舞台上から見下ろしている。

 ふと、ダンスフロアへと視線をやった。

 

 パチリ。

 

 意識が、翡翠のような瞳に引き寄せられた。

 正確には釘付けだったと言うべきなのかもしれない。

 俺は暫く、目を逸らせないままでいた。

 そいつは随分と、この場に似つかわしくない格好をした女だった。

 白いブラウスに、薄緑色のゆったりとしたスカートには微かな見覚えがある。

 2つの大葉を模したヘアピンで左右の前髪を留めている。

 その髪留めがクローバーではなかったから、俺は違和感を覚えざるを得なかった。

 ノースリーブから華奢な腕がスラリ。

 今このフロアにいる男なら、誰だって声をかけたくなるような奴だった。

 

「見つけた」

 

 その声は掻き消されているハズなのに。

 セリフが脳内でハッキリと再生された。

 僅かに動いた口元から、推察できていた。

 この女は──。

 

「ファインか?」

 

 届きもしない声が、漏れていた。

 ほとんど確信だ。

 指先に当たるレコードが、じんわりとした熱を持った。

 勢いよくグルリと回して、BPMを加速させた。

 バスバスと、16ビートが会場を打ち付ける。

 リズムに呑まこまれて酔狂へ。

 その中で俺とソイツだけが、静かに見つめ合っていた。

 

「うん。待ってる」

 

 推察した言葉は間違っていなかったと思う。

 多分そう言った。

 ファインは一言だけを残して、俺にクルリと背を向けた。

 声をかける男共をすり抜けながら、階段で夜の街へと昇っていく。

 膝下まで伸びるスカートが、天使の羽のようにヒラヒラと宙を舞っていた。

 

 

 

 俺はLANEを起動する。

 ファインの個人チャットを、検索に掛けてヒットさせた。

 スタンプに付けられた既読の文字。

 冷めた関係に熱を入れる。

 久しぶりに日本に帰ってきたし、お茶でもどう?

 俺は2つ返事で了承した。

 流石に職場で会うのは気が引けたから、明日の仕事終わりにでも再開する約束を取り付けた。

 場所は、かつて常連だったラーメン屋を指定した。

 喫茶店で会うよりも、ずっとロジカルだ。

 グダグダと駄弁る場所ではないから。

 俺、明日も仕事だし。

 

 

 †

 

 

 汁が跳ねても良いように上下を揃えた黒コーデ。

 左手首に白いリストバンドを巻いて、ワンポイントの変化を加える。

 ラーメン屋へ行くための服装としては最適だ。

 数年ぶりに暖簾をくぐると、鼻腔に絡みつくような豚骨の匂いに襲われた。

 らっしゃァせ。

 この喧しい挨拶も学生ぶりだ。

 そんなことを思い返しながら、俺は店内を見回した。

 客足は悪くない。

 テーブル席が4人家族で埋まっている。

 実にロジカルだ。

 

「こっちだよ」

 

 俺はカウンター席へと目を移した。

 発見。

 仕事帰りのサラリーマンや学生と思わしきパーカーを着た男に混じって、ヤツがいる。

 先に来ていたようだった。

 茶色いミミ先がクッ、と左右に開いた。

 昨日と同じ服装だったから、真っ先に目を引いたのも当然と言える。

 舞踏会にでも行くのかよ。

 店主から紙エプロンを貰ってから、俺は隣に腰掛けた。

「はい」と水入りのコップを渡されたから、ひと口。

 ファインの薬指を飾る銀色の指輪が、水面にユラユラと写されていた。

 積もる話もある。

 コップを置いたタイミングで、ファインが呪文を唱えた。

 ヤサイマシマシ、メンカタメ、アブラマシ。

 

「食いきれンのかよ」

 

 一言目は、それだった。

 つい、ツッコまずにはいられなかった。

「久しぶりだな」とか「元気だったか?」とか、他に色々とあっただろ。

 ファインは「なんで?」とおどけた顔をした。

 どうやら余裕らしい。

 髪エプロンを首に巻いてから、続けた。

 

「そうやって冷静に分析するの、本当に変わってないね。元気だった?」

「そこそこな。てか、まともな奴の方が少なかっただろ、あの学園は。にしてもお前、少し痩せただろ」

「わかる?」

「何で太らねェんだか」

「贅沢は月に5回までだもん」

「多すぎンだろ」

「シャカールはどうなのさ」

「……」

「ほらー!絶対いっぱい食べてるじゃん!」

「許容範囲内でな」

「うんうん。それと、他にも話したいことが沢山あるんだ」

 

 ファインの近況報告を聞く。

 トレーナーと結婚して子供を産んだ話とか、皇女として正式に即位した話とか。

 そんな、幸せの具現化みたいな話が次々と展開されていく。

 王族ってだけはある。

 基本的に現実離れしてるから飽きない。

 食う前から、腹一杯だった。

 ファインの話を止めたのは店員の掛け声だ。

 おまちどう。

 カウンターの上に、2つの山がそびえ立っている。

 比喩ではない。

 これでもかと乗せられたもやしが今にも崩れ落ちそうだった。

 

「食うか」

「うん。私のも取ってほしいな」

 

 俺は両手で持ちきれると思って、どんぶりを同時に持ち上げた。

 存外、重い。

 手首にグッと力を込める。

 鋭い痺れが左手首から肩まで、ビリリと駆け抜けた。

 

「「あ」」

 

 ほんのひと口程度のスープが器から滑り出た。

 リストバンドに染み入って白褐色のシミを作った。

 

「痛ッ」

 

 血管に針金をねじ込んだような痛みが、俺の左腕をビリビリと駆け巡った。

 それは反射的と言うか、然るべき処置と言うべきか。

 俺はリストバンドを外して、台拭きで左手首を覆っていた。

 本当に、ごく一瞬のことだ。

 それでも、ファインは見逃さなかった。

 

「何? その傷」

 

 黄土色みを含む皮膚に、一筋の白い膨らみが刻まれている。

 縦だったり横だったり、それは斜めだったり。

 グチャグチャに化膿した生傷は、先週から癒えないままでいる。

 一口に言えば、まァ、リストカット痕だ。

 

「……飯の前にする話じゃねェな」

 

 ファインは人差し指を口角に当てて、「うーん」と首を傾けた。

 そっか、とだけ言い遺して割り箸を裂いた

 パキリ。

 中途半端に折れた。

 分かりやすいにも程があるだろ。

 マシンガンを連射していたハズのファインが、ピタリと静まった。

 食べ終えるまで無言を貫いていた。

 それは満腹中枢を刺激しないためか、それとも。

 俺はまだ、呪文でカサ増しされた野菜に苦戦していた。

 麺も野菜も、豚骨スープを吸ってベチャベチャに萎びている。

 キャベツを口にグイと押し込んだ。

 ぬるい。

 

「悪ィ。直ぐに食い終わっから」

「んーん、全然。むしろ丁度良かったかも」

「あン?」

「私、泊まるところが無いんだよね」

 

 箸で摘んだモヤシからスープがポタリと滴った。

 なるほど、道理で昨日から服装が変わっていないわけだ。

 

「シャカールに断られちゃったら、今日も野宿かな〜。国のみんなにはシャカールのところに泊まるって言っちゃったんだよね〜」

「嘘だろオイ」

 

 ホテルとかシェアハウスとか、やりようは幾らでもある。

 手段を吹っ飛ばしてまで、コイツは俺の家に泊まり込もうしている。

 その気になれば豪邸だって建つハズだ。

 てか、SPはどうした、SPは。

 

「んー。少し言い方が難しいけど、長期休暇って感じ?」

「そりゃねェだろ。どっかのスパイにでも襲われたらどうすンだ、日本の治安に期待し過ぎじゃねェのか?」

「多分、大丈夫!」

「それで良いのかよ」

「あっ、あとね、休暇っていうのは私のこと。これから皇女として仕えるなら、1人になることなんて、この先ないからさ」

「死んでも責任とらねェからな」

「書類上はアイスランドに居ることになってま〜す。来日は国家機密で〜す」

 

 ファインはイタズラっぽく語尾を引き伸ばして、ミミ元でヒソヒソと囁いた。

 つまるところ、1人で過ごせる人生最後のチャンスだってことだ。

 大学2年生の夏休みのように、自由を謳歌したいのだと思う。

 俺は社会人やってるんだけどな。

 ファインはピンと背筋を伸ばして俺に爆弾を投げつけた。

 

「国家機密を共有されたアナタは、私に従う義務があります。これは至上命令と心得なさい」

 

 いやァ。

 テロにも程がある。

 

「家賃、食費、その他モロモロは払うよ」

「そういう問題じゃねェ」

「じゃあ帰ろっか」

「決定かよ」

 

 悠長に吟味できるほど、俺に選択権はなかった。

 次いでに時間も。

 勘定を済ませて外に出る。

 街路灯の黄光が、スポットライトのように俺達の足元を照らしていた。

 なんとなく、記憶にない夏休みがここにあるような気がした。

 ファインとの共同生活がスタートした。

 

 

 

 

 

1.

 

 アパートの10畳1間に、2人暮らしは想定されてない。

 部屋が、酷く窮屈に感じていた。

 実際そうだ。

 ファインのスーツケースが椅子として馴染むくらいには。

 女っ気のない白い机にカップ麺の残骸が朽ちている。

 麺類ばかりを食べるようになったのは、まぁ、全部コイツの影響だ。

 ベッドに座ったファインが母親の様なことを言った。

 

「もー、体に悪いものばっかり食べて」

「言えねぇだろ」

「お店のラーメンは健康食です〜」

「スープ飲んでンだろ」

「まぁね。でも、もうアスリートじゃないからさ」

 

 ファインは目を細めて、グッと伸びをした。

 理屈は分かる。

 バカみたいに汗をかいて、スープを飲み干していた私達は引退した。

 いつの間にやら酒を飲める年齢だ。

 女の消費期限に明確な定義は無いにしろ。

 20代を終えれば、賞味期限は確実に過ぎている。

 アラサーなんて、あの頃は永遠に来ないと思っていた。

 聞こえない足音ほど、すぐ背後に迫ってくるものだ。

 俺は冷蔵庫から、ビール缶とチューハイ缶を取り出した。

 ファインに選ばせる。

 

「ラーメンの〆には、お酒がピッタリだよね」

「いや逆だろ、どう考えても」

 

 それでもまァ、分からなくもない。

 

「どっちが良いとかあるか?」

「ビールかな〜」

 

 ファインは案外、辛党らしかった。

 俺もだ。

 乾杯。

 2人して、冷えた大麦を喉に流し込む。

 

「で、肴は?」

「ん〜、もうちょっと酔ったらね」

「あァ?」

 

 思い出話をツマミにして呑むのかと思ったら、そうでもなかった。

 どうやらコイツは、酒を飲み干してからお通しを出すタイプらしい。

 さっきから逆だろ、順番が。

 緩くなったら不味いから、俺は勢いで缶に残ったビールを飲み干した。

 身体が僅かな火照りを覚えている。

 ファインはまだ、中身を半分ほど余しているようだった。

 チャポチャポと中身をたゆませながら、俺に訊いた。

 

「なんで、手首にそんな傷が付いてるの?」

 

 ビールの後味が、舌にやたらと張り付いた。

 茶を濁せど、ビールはさすがに無理だ。

 隠す理由もなかったから、俺は端的に伝える事にした。

 

「アイツが死んだンだよ」

 

「アイツ」は元トレーナーのことを指している。

 婚約を結んだその年の冬に逝った。

 車のスリップ事故で、即死だったことを告げられた。

 あれほど、タイヤにチェーンを巻けと言ったのに。

 

「辛いね」

 

 もう過去のことだ。

 精算は既に終えている。

 まァ。

 レシートとして、カッター痕が付いてきたワケだが。

 ファインがこぼすように言った。

 

「でも、命は粗末にしちゃダメだよ。しっかりと生きなきゃ」

「何が分かンだよ、お前に」

 

 少しだけ、頭に血が昇った。

 俺だって能動的に切っているワケじゃない。

 手が動いてンだよ、勝手に。

 気づいたらカッターから刃を数センチだけ覗かせて、洗面台に手首を晒している。

 その時は確実に死にたいって思ってンだ。

 でも、俺はヘタレだから未遂のまま。

 こうやって薬の世話になっている。

 

「放っとけ……関係ねぇだろ」

「関係なくないもん」

「愚痴る気なんてねぇよ。もう全部終わってる」

「嘘つき。ねぇ、お願いだから、死のうだなんて思わないで」

「結婚してるヤツに何言われたって、そりゃただの煽りだっての」

「違うもん」

「なんでそんな固執すンだ」

「だって……命は一個しかないんだよ? 死んじゃったら、楽しかった記憶とか、笑っていた過去とか、全部消えちゃうんだよ?」

「まぁお前みたいな陛下サマの命だったら、さぞかし丁重に扱うべきなんだろうよ」

 

 ファインが空き缶を、ベコッと握りつぶした。

 

「違う、身分じゃないもん。シャカールの、そうやって嫌味をいうところ、大嫌い」

 

 今までに一度だって聞いたことないくらい、怒りに満ちた声だった。

 それでやっと、私は身体に溜まった熱を自覚した。

 まず間違いなく酔っているから思考が濁るのだ。

 そのクセ「大嫌い」の3文字だけがハッキリと知覚できていた。

 

「あァそうかよ。不満あンなら出てけ」

 

 俺は何を言ったのか、暫く理解できなかった。

 自覚できたのは、ファインがスーツケースを引きずったからだった。

 無言のまま、しかめっ面を浮かべていた。

 

「──オイッ」

 

 言葉が、詰まった。

 なんて言えば良い?

 泊まるところもないんだよな?

 アイツは私が嫌いで。

 せっかく再開したってのに。

 あァ、もうグッチャグチャだ。

 思考がまとまらない。

 ほんと何やってンだ。

 久しぶりに顔合わせたと思ったら喧嘩して、何がしたいんだ俺は。

 

「バカ……」

 

 ファインはそう言って玄関の闇へと消えた。

 

(ほんと、バカだよな)

 

 そう思った瞬間のことだった。

 俺は発作に襲われた。

 心臓を両手でギュッと鷲掴まれたみたいだ。

 とても耐えらなかった。

 手首の赤熱が洗面台にドロリと流れ出た。

 排水溝まで一筋につたってから、細い痺れが手首にズキリと逆流する。

 痛ェ。

 なんでこんなにも痛ェのに、やたらとスッキリすンだよ。

 

(いちいち死にたくなってンじゃねぇぞ)

 

 不思議と、俺は俺自身を客観視できていたから、急いで薬を胃の中に流し込んだ。

 生死の判断を任せる。

 あァ、またコレか。

 トレーナーが死んだ時と同じ感覚だ。

 何か大切なモノが遠くに離れて、手が届かなくなって、2度と手を掴めない。

 棺桶の中にいたアイツの肌の感触を思い出す。

 それはそれは、雪が積もったような肌だった。

 

 

 現役の俺は1人で過ごす時間が好きだった。

 俺自身で全てを解決できたから、猫の手は熊の手だった。

 時には寮を抜け出して、夜の街へと繰り出したこともあった。

 そのハズだ。

 一体いつからだ?

 ノイズを好むようになったのは。

 俺が特別に興味を持った王女サンは、その喧騒に進んで飛び込むような奴だった。

 惹かれた理由を今ならば理解できる。

 探究心ってヤツが旺盛なんだ、俺と同じで。

 クラブへの就職が決まった時、ファインの顔を思い出した。

 随分とアイツ色に染まったなァ、と。

 ミラーボールを眺めていた。

 でも、俺は今になって見上げている。

 色味の落ちた無機質な部屋の天井を。

 俺は今すぐにでも、アイツに謝る必要があると思った。

 

 

 

 時計の短針は8を僅かに過ぎている。

 行動に移すまで、そう時間は掛からなかった。

 キャリーケースを計算に組み込めば、俺はまだ追いつける。

 時間も時間だ。

 取り敢えず、人の少なそうな路地を探した。

 居ねェ。逆か?

 引き返す。

 十数分ほど走ったら、すぐ近所で見つかった。

 民間公園に設置されたベンチに座っていた。

 まるで初めからそこを目指していたかのように、体育座りで膝に両目をうずめていた。

 その右手に缶ビールが握られている。

 ひと目見て、500ミリリットルの缶だと判別できた。

 

「オイ……」

「あっ!シャカールだ!」

 

 なンだこの酔っぱらいは。

 私の顔を見るなり、バッと両手足を広げた。

 言葉通じンのかよコレ。

 

「おいで!」

「行かねェよ」

 

 私が隣に腰掛けると、ファインは「ぶー」と、多分文句を言った。

 二の句を継がずに、続けた。

 

「あのね、私、離婚しちゃったんだ」

「は? どんな風の吹き回しだよ」

「なんかね、嫌われちゃったの」

 

 不妊症を治して、子供まで作って、何故別れるのか。

 全くもって理解に苦しむ。

 俺が吃っていると、ファインは弁明した。

 

「不貞じゃないよ」

 

──なら、何故?

 

 考察するにしても、データが足りねェ。

 とはいえど、それを愚直に尋ねるほど、俺も無神経ではない。

 知る理由も無ければ、知る必要も無いと思った。

 本来の目的を果たせ。

 

「あー……すまねェ。頑張っからよ」

「ん!!!」

 

 ファインはグッと親指を立てた。

 恐らく許された。

 そのままゴクゴクと、残ったビールを飲み干した。

 随分と、お気楽なモンだ。

 ファインはスーツケースを開いて、筆箱を引っ張り出した。

 サインペンをつまんで、私の左手首をガチリと掴んだ。

 そのペン先が、私のカッター痕に迫っている。

 

「待て待て待て……」

「怖くないよ〜」

「痛ッッてェッ!」

 

 ペン先が、カット痕を縦断した。

 黒いインクが、かさぶたにジワジワと染みていく。

 綴じかけていた傷口が、少しズレた。

 暴挙にもほどがあンだろ。

 普段のコイツなら、絶対に憚るコトだ。

 どうやらファインにアルコール飲ませたら、ぶっ壊れるらしい。

 

「オイ!!」

 

 そんなストップを他所に、スイスイと肌をなぞっている。

 何かを、書いている。

 止まる気も止める気も無さそうだ。

 筆が止まるまで、私はグッと拳に力を込めていた。

 

「次から、この子を傷つけるの禁止ね」

 

 私の左手首に、猫の顔が描かれていた。

 尖った両耳。

 2つの黒ポチは目だ。

 カモメをひっくり返したような口が、三角形の鼻から伸びている。

 

「ンだよ、コレ」

「リストキャット」

「ブハッ!」

 

 緊張が口から吹き出した。

 手首を揺らすたけで痛むのに、ケラケラと腹を抱えてしまった。

 あー、痛ッてェ。

 

「ッはァ〜。こりゃ傑作だ。バカみてェ」

「もー。それはシャカールだもん」

 

 間違いない。

 俺は愚かなバカで、お前は愛すべきバカ。

 似たもの同士、仲良くしようじゃねェか。

 

「なぁ、俺ン家帰ってくれるか?」

 

 返答はなかった。

 スゥスゥと、肩から寝息が漏れている。

 スニーカーの前にペンがコロコロと転がっていた。

 

「バァカ……」

 

 風の暖かい夜だった。

 

 

 

 

 

2.

 

「おはよう」

「おう」

 

 最後にそう起こされたのは、一体いつのことだったか。

 アラーム以前に起床した。

 と言うよりも、ファインに起こされた。

 茶金色の猫っ毛がボサボサに跳ね上がっていた。

 威厳は何処へやら。

 王女としては、かなり終わっている。

 ファインが右の掌を、額にペタンと貼り付けた。

 

「酔い止めってあるかな? なんか頭痛い。昨日、薬飲み忘れちゃってさ。それと一緒に飲んじゃいたい」

「薬だと? オマエが?」

「生理薬」

「へぇ」

 

 あいにく常備薬も無ければ、買い足す時間もない。

 仕事が俺を待っているのだ。

 顔を洗って朝食を食べる。

 効率を20パーセントアップさせる。

 しじみの味噌汁は、せめてもの二日酔い対策だ。

 インスタントで効果あるのか、知らねェけど。

 飲まないよりはマシだと思う。

 漆塗りの黒い容器に、かやくを入れてお湯を沸かす。

 併せて2杯用意した。

 トーストもサラダも2つずつ。

 ちゃぶ台に所狭しと並んでいる。

 トーストに味噌汁とは、食い合わせな食い合わせだ。

 構わない。

 

 「「いただきます」」

 

 トーストに齧り付く。

 バターの塩味が舌いっぱいに、じわりと広がった。

 ファインは真っ先に味噌汁に口をつけていた。

 

「一応、食欲あンだな」

「んー、シャカールのご飯なら食べれる」

「ンだソレ。インスタントはノーカンだろ。まぁ、今日は水飲んで寝てろ」

「シャカールは?」

「仕事」

「遊びに行けないの? 今日、日曜日なのに?」

「日曜だから行くんだよ。休日出勤すりゃ、給料が1.3倍だ。つか、2日酔いでお出かけは無理だろ」

「へー」

 

 俺の仕事はクラブDJだ。

 歩合制の週3日。

 それで生活できる。

 2冠バの優待だ。

 豪遊しなければ、飢え死ぬことはない。

 俺が仮に3冠バならば、ガキ共のコーチ役として就職できたのにな。

 7センチメートルほど足りなかった。

 まぁ、後悔はしていない。

 ファインが続けた。

 

「そっか〜。じゃあ私も行く!!」

「アホか。響くぞ。爆音に頭カチ割れたくないなら、大人しく待っとけ。帰りはそんな遅くならねェからよ」

「何時くらい?」

「……20時」

「遅いじゃん!」

「いつもなら21時までに帰れりゃ御の字だ」

「え〜。やりたいことあったのに〜」

 

 ファインは箸を置いて、スマホの電源を入れた。

 どちらかと言えば「行きたい所」だった。

 

「今日、近所で夏祭りがあるんだって」

 

 上目遣いが、俺を逃がそうとしない。

 

「目、泳いでるよ」

「泳がせてンだよ」

 

 俺よりも、この土地に詳しいのは何故なのだろうか。

 右に左、上、正面。

 何処に目線を向けたってファインの熱い眼差しを感じる。

 モナリザかよ。

 

「行こうよ」

「……考えとく」

 

 仕事の用意に取り掛かる。

 ファインは英語表記のパッケージから、薬を一粒押し出した。

 まとめて飲み込んだ。

 

 

 

       †

 

 

 

 帰宅してもまだ、19時を少し過ぎたくらいだった。

 機材の片付けを他の奴に代わってもらったから、多少早く帰れた。

 それだけだ。

 疲れた体を引きずって、階段を登って、俺は玄関を開けた。

 真っ先にファインが目に入った。

 着物に袖を通して、こちらにピースサインを向けている。

 ひと目で幻覚を見たように思った。

 頬をつねろうと目覚めることはない。

 ボヤける視界がファインの着物へと定まった。

 白基調の生地に名前のわからない花がポツポツとプリントされている。

 髪型までバッチリ。

 三つ編みを束ねて、後頭部に纏めている。

 俺が家を出た瞬間に電話して、業者に来てもらった旨を聞かされた。

 着物も髪型も、そのせいだ。

 行動力は人一倍あるンだよ、コイツ。

 巾着袋がパンパンに膨らんでいる。

 もう行く気満々だ。

 

「シャカールは着物と袴、どっちが良い?」

「いや着ねェよ」

「あのね、隣の人が袴を着ていると、ナンパされる確率が減るんだって」

「………………」

 

 これっきりだ。

 

「わー!似合うね!似合うね!可愛いね!」

「22時には帰るからな」

「うん!」

 

 神社に到着。

 ガヤガヤと、境内が雑踏で賑わっている。

 和太鼓を叩く音が大気を震わせる。

 俺は、それほど煩わしく感じていなかった。

 カラカラと、ファインの浴衣下駄がアスファルトを蹴っている。

 鳥居をくぐった者達は皆、惹きつけられるように御殿を目指す。

 俺たちも例に漏れず、道なりに進んでいた。

 

「どれも美味しそうだね」

「見た目は、な」

 

 祭りの屋台は非ロジカルで溢れている。

 焼きそばに600円も払うなんて、バカのすることだ。

 原価何円だよ、コレ。

 

「お祭りは、焼きそばを食べなきゃ始まらないよね」

 

 やっぱりコイツは愛すべきバカだった。

 俺もバカだから、一緒に食った。

 

「おねぇちゃん達カップルみたいだね」

「ありがとうございます! ねぇシャカール聞いた? 今の?」

 

 俺は損得を勘定をしていた。

 焼きそばの原価はおよそ100円程度。

 売値から差し引くと500円の損失が発生する。

 論点は「焼きそばを食べるこの数分にそれ以上の付加価値を見出せるかどうか」だ。

 自給1000円で換算すると30分。

 いや、焼きそば如きにそんな時間をかけてたまるかよ。

 

「もー。また難しいこと考えてるでしょ」

 

 ファインはそう言って、一口分な焼きそばを摘んで俺の口元に寄せた。

 食む。意外と美味い。

 疲れた身体にソースの塩見がよく染みる。

 ものの数分で胃の中にスルスルと消えた。

 まぁ、付加価値とか含み益とかは後で考える。

 ファインが悪魔のゲームに手を出した。

 

「あ!クジ引きやりたい!」

「オイ、ソレだけはやめとけ」

 

 焼きそばは満腹のリターンがある。

 でも、この手の商売は。

 

「1等以外は元取れねェんだ。しかも当たる確率なんて、天文学がちゃぶ台ひっくり返すレベルだぞ」

「良いの。私はね、時間を買ってるの。人生の経った一瞬。ワクワク出来るその数秒に、お金を払ってるんだ」

 

 ワケがわからねぇ。

 人生80年時代。

 数秒の価値なんて数10円か、それ以下。

 ファインは俺の反対を押し切って挑戦した。

 惨敗、後に大敗、5連敗。収支マイナス2500円。

 そりゃそうだ。

 しまいには黒いカードを取り出して「どこで決済するの?」だとさ。

 イカれてやがる。

 

「お嬢ちゃん達惜しいね〜。1回だけオマケしてあげるよ」

「本当に?! じゃあシャカール、お願い!」

「は?」

「隣の嬢ちゃんでも良いよ」

「仇とって、お願い!」

 

 俺が引くことになった。

 当たる保証はない。

 適当な紐を掴んで引っ張った。

 ズシリと、手首に負荷がかかった。

 明らかな手応えだ。

 いや、まさか。

 俺は自然とオヤジの顔色を伺っていた。

 商売上がったりだよ、嬢ちゃん達。

 疑念が確信に変わった。

 

「凄い! 本当に凄いね! 1等賞!!」

「マジかよ……」

 

 所詮、確率なんて数的統計でしかない。

 外れ値を引けば勝てる。

 景品は蹄鉄シューズだ。

 茶色いなめし皮が、電球から発されるオレンジ色の光をテカテカと反射している。

 動物皮は人工皮と比べて一線を画す。

 値段も、質も。

 オヤジはまだ、キツネにつままれたような表情を浮かべている。

 流石に後ろめたかったから、オマケ分の参加費は払った。

 計算するまでもない。

 収支はプラスに傾いた。

 蹄鉄シューズなんて、引退した俺には無用の長物だが。

 ファインにとってはその限りではなかった。

 

「コレ、履いて帰っても良いかな?」

「良いけど、サイズ合わねぇだろ。靴擦れすンぞ」

「痛いかな……」

「履きたきゃ履けば良いんじゃねェか?」

「だよね。下駄、少しだけ持ってて欲しいな」

 

 帰り道も、ずっと俺が持っていた。

 コンクリートに擦れる蹄鉄がミミをカチカチと引っ掻いた。

 次第に音の間隔が狭まった。

 カチ、カチ、カチ、カチ。

 ファインが、小走りに街へと駆け出していた。

 

「走るのなんて、久しぶり」

 

 後を追う。

 着物のせいで膝は上げられないし、熱だって外に逃せないけど。

 それでも現役だった時のように、ファインはハツラツと走っていた。

 額の汗が、鎖骨にスルリと滑り込む。

 

「ちょっと、コンビニ寄ろっか」

 

 喉がカラカラに乾いていたから水を買った。

 ついでに、花火の詰め合わせとライターとバケツをカゴに追加した。

 ファインがやりたいと言ったからだ。

 既に22時を回っている。

 色々と吹っ切れて、俺達は昨日の公園へと向かった。

 

「どれからやろっかな〜」

「結構、種類豊富なんだな」

「一番高いやつだもん」

 

 ファインが、えへんと無い胸を張った。

 シャカールもでしょ。

 うるせェ。

 胸を出すのは立派だとして、足も出ているのだからバカだ。

 証明するように、ロケット花火を2本手に取った。

 両手に1本ずつ。

 ライターで火をつける。

 火薬の刺激臭に鼻腔をツンと刺された。

 シューッと音を立てて、先端から光が噴き出した。

 散った閃光は、やがて砂利へと溶けてゆく。

 

「見てみて!ハート!」

 

 一瞬だけ象った煙が霧散する。

 

「どうせ2人じゃ消費しきれないから贅沢しちゃおっか」

「なら……いっそのこと4本とかか?」

「いっちゃえ〜。大人の遊びだ!」

 

 ファインの残り火を、俺の4本に継ぎ足した。

 リレーだ。火を繋ぐ。

 俺、ファイン、次に俺。

 

「シャカール〜。こっち見て〜!」

 

 まんまるとした魚眼レンズが俺を捕らえている。

 巾着袋の中身は、ビデオカメラだったらしかった。

 片手で持てる見開きタイプのやつ。

 反応に困る。

 取り敢えず、ネズミ花火をファインの足元に投げつけた。

 本物のネズミのように、地面をクルクルと這った。

 

「わっ、ちょっ! それはズルいよー!」

「戦略だっての」

 

 ファインは足をわちゃわちゃと動かして、そのネズミから逃げている。

 まるで生きているかのようだ。

 火が消えるまで背中を追いかけ回されていた。

 俺はメインの打ち上げ花火に火をつけた。

 火が麻縄をつたうまで、僅かに時間がある。

 1つ、気になっていた事を尋ねた。

 

「なァ。そもそも何で、旅行なんてしようと思ったんだ?」

 

 答えは直ぐに返ってくると思っていた。

 でも。

 少しだけ、遅れた。

 

「あのね────」

 

〈ひゅう、ドンッ〉

 

「──なんだよね」

 

 言葉が、掻き消された。

 打ち上がった刹那。

 光のおたまじゃくしに俺の意識は奪われていた。

 夜空に、菊の花が咲いていた。

 

「悪ィ。聞こえなかった」

「んーん。なら、まだ言わなくて良いのかも」

「何だソレ」

「べつに」

 

 離婚の憂さ晴らしとか、家出とか、そんなどうでも良い理由だと思った。

 仮に、そうならば。

 

「いつ帰る予定なんだ?」

「半年後くらいかな。多分3月くらい。その間宜しくね」

「は?」

「お世話になりまーす」

「前も言ってた通り、家賃は払ってもらうからな」

「もちろん。ついでに家事も任せてよ。お仕事から帰ってきたら、ホカホカのご飯が食べられるよ!」

「そりゃァ結構。ラーメンは週2回までな」

「えー! 野菜! 野菜ちゃんと付けるから!」

「あー。なら、3回までなら」

「うん!」

 

 ファインが「それとね」と繋げた。

 

「やりたい事を纏めてきたの」

 

 ファインは胸元から1枚の、折り畳まれたルーズリーフを取り出した。

 止め跳ねの無視された、丸文字が羅列されている。

 箇条書きか?

 読み辛いのは暗闇のせいだ。

 俺は〆の線香花火で辺りを照らした。

 人差し指で、ツラツラと文面をなぞっていく。

 

「今日のは、この『シャカールと花火をする』ってのと『シャカールと夏祭りに行く』ってやつか?」

「そう。あと、昨日の『シャカールとお酒を飲む』もね」

「マメだな」

「『やりたいな』って思った瞬間に書くようにしてるんだ。特にお酒飲んだら、忘れちゃうし」

「酒癖悪いもんなァ。なんか説教クサくなって、凶暴になりやがる」

「ごめんって!アレは……その……酔ってた勢いで……」

「お前が酒弱いなんて、結構意外だな」

「シャカールは結構強い?」

「3冠逃したくらいからチビチビ呑んでたからな」

「うそ?!」

 

 ポトリ。

 ファインの垂らす火の露が重力に従った。

 紙面をコロコロと転がって、砂塵の1粒へ。

 羅列が闇に隠された。

 

「手伝ってくれる?」

「リスト埋めを、か」

「うん」

「リターンは?」

「きっと、死にたくないって思えるようになるよ」

 

 左手首がジクリと、疼いた。

 まぁ、生涯のクスリ代を節約できるなら価値はある。

 ファインの尻尾が地面をゆらりと這った。

 

「おもしれェ。いいぜ。手伝ってやるよ」

「やったね」

 

 朽ちかけた線香花火が、ファインの瞳を揺らしていた。

 

 

 

【シャカールとお酒を飲む :✔︎】

【シャカールと夏祭りに行く:✔︎】

【シャカールと花火をする :✔︎】

 

 

 

 

 

 

3.

 

 リスト埋めの難易度には雲泥の差があった。

『シャカールとアメリカに行く』とか『シャカールに頭を撫ででもらう』とか。

 難解な選択肢は一旦、除外した。

 後者は、まぁ、最もキツい。

 数多ある欲望の最大公約数は「海へ行く」ことだ。

 それでリストの幾つかは埋まる。

 俺の有給休暇は海浜の白砂に消えた。

 

「眉間にシワが寄ってるよ?」

「だろうなァ」

 

 ざぁざぁと、波が人の群れを洗っている。

 地面から顔だけを覗かせるチンアナゴ共は皆、灼熱の光線に髪をジリジリと焼かれている。

 俺にピースサインを向けているヤドカリ親子。

 渦巻き殻を人差し指でツンツンとつつくと、足早にテトラポットの狭間へと消えた。

 

「海なんて、いつぶりだろう。シャカールも久しぶり?」

「1人で来る場所じゃねェだろ」

「まぁね」

 

 ビーチパラソルの下でビデオカメラ越しにファインの声を聞く。

 うっすらと紫ばむ液晶に水着姿の俺が写っている。

 2人して飾り気のないズボン型。

 アラサーにビキニは度が過ぎている。

 ホラ、こっち向いて。

 どうやら録画中だったらしい。

 

「もー。表情硬いよ、もう一回!」

 

 REC。

 俺は本人にチラリと目線をやってから、手持ちのノートパソコンに視線を落とす。

 ファインが俺の手首を掴んで、引っ張った。

 

「やっぱり、楽しくないと笑えないよね。泳ごう!」

 

 泳ぐ気は無かった。

 海に浮かびながらビーチボールを弾く。

 ファインが取って帰ってくる、また飛ばす。

 スィングする右腕が痛んでも尚、ファインは取り続けた。

 

「オモチャ投げられた子犬みてェだぞ」

「だって楽しいんだもん!」

 

 最後の方は俺がへばっていた。

 いよいよ肩が上がらなってから、ファインが俺にのし掛かった。

 抵抗する力なんて残ってない。

 

「隙あり!」

 

 ザブンと、水飛沫が噴き上がったり

 うなじに流れ込んだ冷気に、俺は身体を震わせた。

 両角膜に、海水の塩気がピリリと染みる。

 珊瑚礁に魚の群れなんて幻想はモヤに包まれていた。

 ゴーグルを付けるべきだった。

 そんな視界でも、ファインが笑っているのが分かった。

 やられっぱなしは、俺の性分に合わない。

 攻守交代だ。

 俺はクロールで逃げようとする王女サンに飛びついた。

 ファインが沈む、

 海面からヒョコッと顔を覗かせる。

 その顔面に、俺は渾身のスマッシュを打ち込んだ。

 ベコッと、明らかにボールのひしゃげる音がした。

 

「ゔへっ!? 貴様〜。やったな〜?」

「逃げたモン勝ちだ」

「待て〜!」

 

 それからは揉みくちゃだった。

 現役よりもフザけたことをする。

 投げ飛ばして、投げ飛ばされて、クロール対決をして。

 無謀にも、2人で離岸流に逆らってみる。

 

「うわっ! 前に進めないね、凄い!」

 

 前へ前へと泳いでいるつもりでも、みるみる後方へと流されていく。

 ファインがボケた。

 

「ムーンウォーク!」

 

 マイケルジャクソンに怒られろ。

 

 

 

 

 腹が減ったから昼食を摂ることになった。

 海水で食欲は満たせないから、ぼったくりメシの世話になる。

 そうせざるを得ない。

 ピーチパラソルの下で、俺達はイカ焼きを齧った。

 さすがに鮮度が抜群だった。

 今日も、ファインは薬を飲んでいた。

 

「毎日毎日、生理薬にしては摂取する頻度高過ぎねェか?」

「こういうのって継続的に飲むモノじゃないの?」

「逆だろ。周期安定させるために期間を調整しながら服用すンだよ」

「うーん。もっと考えてくれば良かった。やっぱりシャカールには通用しないよね」

「は?」

「私ね、実は、不妊症だったの。それ関係のお薬」

 

 飲み込んだゲソが胃袋にズシンと、もたれかかった。

 反則だろ。

 ファインが「あはは」と続けた。

 

「そんな顔しないでよ。えっと、今は娘がいるって言ったっけ」

「まぁ一応。……治せンのかよ、それ」

「大変だったけどね。もー、本当に。検査結果見た時なんて、泣いちゃった。あまりにも信じられなくて、その紙破っちゃったよ」

 

 えへへ。

 笑い事じゃねェだろ。

 

「ねぇねぇ。私が学生時代に付けてた、クローバーのヘアピンって覚えてる?」

「四つ葉のアレな。色が変なヤツ」

「そうそう。やっぱり赤色って不自然だよね、クローバーなのに。まぁ、今は付けてないけどね」

「クラブで見た時から『アレ?』ってなってたんだよな。頭のヤツ変わってンなって」

「え〜。私って髪留めで判別されてたの? ちょっと落ち込むな〜」

「違ェよ。形がわりかし好みだっただけだ」

「冗談。でもね、あの髪留め、そんな美しい物じゃなかったの」

 

 ファインはアレを不妊症の証だと言った。

 幸福の証であるはずの四つ葉が、呪いをかけていたのだ。

 暗黙の了解と言うべきか。

 ファインの一家は黙っていたのだ。

 幼くして受け止めるには重すぎる事実を、大人になってから伝えるために。

 受け止めて、克服して、ぶっ壊して、買い直して。

 やっと娘に付けた名前が。

 

「『リーフ・モーション』って言うの。葉っぱの髪留めにちなんで“リーフ”。とっても可愛い名前でしょ」

 

 なるほど。

 そうなると矛盾が発生する。

 

「お前、離婚したんじゃねぇのかよ?」

「へ? 私、そんなこと言ったっけ?」

「覚えてねェのか? どーせなら色々聞かせろよ」

「ん〜……。捕まえられたら教えてあげる」

 

 ファインは串をゴミ箱にポイと投げ入れて、海の方へと逃げた。

 話すつもりはないのだろう。

 レーザービームのような日光が髪留めをチラチラと透かしていた。

 ビーチサンダルに白砂が挟まっている。

 足裏をジリジリと焼かれながら、俺は背中を追いかけた。

 その後は、夏を一筆書きで走り抜けた。

 スイカ割りだったり、かき氷を喰ったり、夏の代名詞になりそうなことは大方やった。

 

「楽しかったでしょ?」

「どうだか」

「顔に出てるよ。ホラ、見てみて」

 

 ビデオカメラに映る俺は八重歯をニヤリと覗かせていた。

 

 

 

 

【水着を着る(ビキニは要相談):✔︎︎︎︎】

【シャカールと海で泳ぐ    :✔︎︎︎︎】

【かき氷を食べる       :✔︎】

【リーフの事を伝える     :✔︎】

 

 

 

 

 

 

 

4.

 

 1ヶ月も経過すれば、部屋の手狭にも慣れていた。

 キャリーケースを椅子代わりに使っていたから、家具が増えた感覚すらも覚えていた。

 住めば都とは、よく言ったモノだ。

 俺の家だけどな。

 土地代に対するリターンは家事で支払われている。

 仕事から帰ればファインがメシを拵えて待っているのだ。

 ついでに、味噌の香りで目を覚ますことが多くなった。

 コンビニと外食の頻度が著しく減った。

 食費が節約された代わりに、光熱費は増えた。

 差し引くと僅かにマイナス。

 それでも、俺はプラスに感じていた。

 体感の話だ。

 いつものように、朝飯を食って用意をする。

 

「今日こそは連れて行ってくれるんだよね?」

「……そんな面白いモンじゃねェぞ」

 

 地下クラブに姫サマを派遣する。

 機材を運ぶのに人手が欲しいとのことで、隣にいたのがコイツだった。

 ウマ娘の腕力に期待されて、俺の応答が通った。

 気は乗らない。

 

「じゃあ行こっか」

「鍵閉めろ」

「うん!」

 

 しなびた落葉が足裏でシャクリ。

 手の平を広げたような紅葉が、からくれないに染まっていた。

 

 

 

 

 

        †

 

 

 

 

 

「行くよ!せーのっ!」

 

 俺達は背丈程もあるスピーカーを、掛け声と共に持ち上げた。

 筋トレと大差はない。

 地下クラブの特性上、避難口を除いて出入り口は1つのみ。

 そろりそろりと、俺たちは足場を確認しながら階段を降りてゆく。

 一歩を乗せる度に、錆びたステンレスがギシギシと悲鳴をあげる。

 全部で4台。

 底が抜ける可能性を考慮して、最速かつ最短距離で運び入れた。

 やはり、歳を実感する。

 クロス壁に寄りかかって休憩していると、スタッフの1人に労われた。

 

「いやー、助かったよ。俺らじゃ持ち上がらなくてさ」

「別に。コレも仕事だろ。だがまぁ、非番に呼び出されンのは癪かもな」

「ごめんってば。出勤手当付けとくから。あと、隣の嬢ちゃんもありがとう。助かったよ」

「いえいえ〜。初めてこんな力仕事が出来て、楽しかったです」

「初めて?」

「いや気にすンな」

 

 ナチュラルに貴族アピールすんなっての。

 ファインが妙な質問をした。

 

「ところで、もう終わりですか?」

「そうだね」

「ふむふむ」

 

 なんとなく、面倒の起きる予感がした。

 

「オイ、早く帰ンぞ」

「う〜ん……」

「どうかしたのかい?」

 

 ファインは口をつぐんで、モデルのようにクルリと身を翻した。

 足首まで伸びた白スカートが、ヒラリと花開く。

 言い分を理解した瞬間に、逃げ道を潰された。

 

「モナドの曲を聴きたいのかい?」

「うん。シャカールのカッコいいところ見てみたい」

 

 新しいラーメン屋を発見した時のように、瞳孔が開いていた。

 パチリ。

「ね?」じゃねぇよ。

 

「どうせ手当は払ってるんだ。少しくらい働いたってバチは当たらないよ。機材の音出し確認も、仕事の内だろ?」

 

 既に王手だった。

 

 

 

 セッティングの時間を縫って、俺はモナドに早替わる。

 衣装は、学生時代から変わらない。

 18時にopen。

 身内だけの臨時ライブだ。

 ネオンライトも灯いていなければ、ミラーボールも回っていない。

 ステージから放たれた白熱灯だけが、床の黒タイルを照らしている。

 ファインは、いつものようにビデオカメラを構えていた。

 

「似合ってるよ、シャカール!」

 

 それは皮肉か褒め言葉か。

 後者で間違いない。

 俺はスピーカーを温めるためにBGMを流した。

 普段よりもファンクな曲選択をした。

 1960年代のアメリカンスタイルだ。

 ジャズにクラシック。

 ラッパにトロンボーンの音色がファンファンと、鼓膜を叩いている。

 下手に電子音楽を流すよりは、まぁ。

 

「あ! 確かこの曲、パーティーで踊ったことあるかも」

 

 ビンゴ。

 ファインは、その曲を知っているようだった。

 降りてきてよ。

 近寄った俺の手をとった。

 ゴツゴツと骨張った、硬い手の平だった。

 

「社交ダンスはいかが?」

「趣味じゃねェな」

「じゃあ、リードは私だね」

「踊る前提かよ」

 

 束ねられた俺の黒髪が円弧を描く。

 俺達は滴り落ちた汗を踏み滲んで、タイルをキュッキュと磨き上げる。

 舞台から漏れた白熱がスポットライトのようだった。

 

「カッコいいよ、最高に」

「ダンスは本業じゃねェけどな」

「ううん。もう全部」

 

 拍手が飛んだから、完成度としては披露できない程でもなかった思う。

 スピーカーが温まったのを確認してDJタイムは始まった。

 ファインは相変わらず、気ままに舞っていた。

 音に任せてステップを踏む。

 ミミをパタパタと揺らしながら踊るコイツは、間違いなく楽しんでいた。

 

「君も働いてみる? 踊り手としてね」

 

 ファインに仕事の声がかかった。

 

「それじゃあ、数ヶ月だけなら」

 

 沈黙を貫いてからだった。

 

 

 

 その翌週から職場までもが共有された。

 仕事は俺が教える。

 ファインはデキた。

 ダンスはウマ娘にとって必須スキルだから、という裏付けもあるにしろ。

 振り付けに2週間、振り覚えに1週間。

 1ヶ月も経たずにファインは舞台に立てるようになった。

 観客数と収入が、そこそこに増加した。

 最も増えたのは酒の席だ。

 何故か、俺はスタッフに囲われていた。

 職場にファインが加わって且つ、アイツの集合に俺が含まれていたから、自動的に大は小を兼ねたのだ、きっと。

 同僚との交流も増えた。

 およそビールを注いでやるくらいには。

 乾杯。

 

「ファインちゃんが来てからのシャカールさん、柔らかくなった気がします」

「あン?」

「だって、飲み会なんて今までなら絶対に来なかったじゃないですか」

「……まァ。てか、どっちかって言えば保護者かもな」

「?」

「反対側を見てみろ」

 

 一畳テーブルに空いた大ジョッキが並んでいる。

 イッキ飲みしたバカは、まァ、言わずもがな。

 あァ、個室で良かった。

 ファインが束ねた割り箸をマイクに見立てていた。

 椅子の上に立ってコールandレスポンスの始まりだ。

 

 

「きょうのしょうりのめ〜がみは〜?」

「俺らだけに!」

「ちゅうする!!」

 

 何人か死んだ。

 キス顔には、それだけの破壊力があった。

 多分、そのせいだ。

 酒の勢いに任せて求婚する奴がいた。

 これが目に入らぬか。

 左薬指がキラリ。

 結婚指輪は弾丸だ。

 言葉という銃に込められて発射された。

 

「既婚!」

 

 明らかに死体撃ちだ。

 竹籠に入った枝豆がカラカラに萎びていた。

 同僚は1粒を押し出して、パクリと頬張った。

 

「シャカールさん、色々と大変そうですね」

 

 その通り。

 俺には、この酔っ払いを連れ帰る義務がある。

 道端で野垂れ死なんてさせてみろ、飛ぶぞ首が。

 ふと、俺は目を合わせてしまった。

 

「そうだ!シャカールもやってよ、キス! みんな待ってるよ」

 

 案の定、マイクとカメラを向けられた。

 録画開始。

 やらねェ。

 死んでもやらねェ。

 

「今日の勝利の女神は〜♪」

「俺らだけに?」

「…………」

「じゃあ代わりに私がキスしちゃおっ」

 

 ファインが、またキスを投げた。

 2度あることは3度ある。

「可愛い過ぎるだろ?!」を、少なくとも3回は聞き取った。

 話題がそれに逸れた、

 神回避ってヤツだ。

 なんとか恥晒しだけは免れた……と信じたかった。

 

「確か、ウマッターとかウマチューブとかに、ライブ映像くらいは残ってるよね?」

 

 何でその辺だけは鋭いンだよオマエ。

 動画とノリを天秤に掛けた結果、僅かに後者へと傾いた。

 あんな若気の至りみてェな顔を静止画で観察されるとは。

 こうなったらヤケクソだ。

 もう、どうにでもなれ。

 

「俺らだけに〜?」

 

 恐らく、いや確実に、全部がぎこちなかったと思う。

 スゲェ笑われた。

 暫く、手洗いから帰ってこれなかった。

 洗い場の鏡に映る俺は茹でダコだった。

 アルコールのせいではない。

 それ以降はウマぴょいが鉄板ネタになった。

 一緒に出勤して、仕事して、酒飲んで、チュウして──。

 明け方の太陽は、みずみずしいのだと知ることもあった。

 悪態を吐きつつも、なんやかんやノってたから、俺は多分、楽しかったんだ。

 

「死にたくないって思えるようになった?」

「さァな」

「もー。素直じゃないんだから」

 

 ビデオを確認しなくたって分かる。

 笑ってるな、俺。

 

「こんな生活も、なかなか悪くねェのかもな」

「でしょ」

 

 俺は手の平で、何度も何度も転がしていたンだ。

 宝箱に詰められた、宝石のような日々を。

 

 

 

 

 

 

5.

 

 肺を満たす空気が冷え込むと、俺達は冬を迎えていた。

 曇り空から落ちた牡丹雪が頬をさらりと撫で落ちる。

 払い落とすためにミミを震わせると、産毛に絡まった白い欠片が繊維にまでじわりと染み渡った。

 こんな雪の日でも、商店街だけはヒトの熱を保っている。

 月明かりに負けじと、活気を満ちさせている。

 20時は既に回っていた。

 俺達は少し早めのクリスマスソングを聴きながら、帰路に着いていた。

 リスト埋めの一環としてクリスマスケーキを予約したのだ。

 電信柱に貼り付けられた有馬記念のチラシを横目に、俺は「そんな時期か」と口にする。

 夢の舞台と言われるだけはある。

 トレセン学園の生徒たちの帰りが遅くなったのは自主練習のせいだろうか。

 時折、隣を走り抜けるウマ娘はみな、例外なく赤い衣に身を包んでいた。

 

「あの体育着、暑かったんだよね。日本ってあんまり寒くないもん」

「そりゃアイルランドに比べりゃ、な」

「あっ。冬はこっちで過ごして、夏は向こうに帰れば完璧なのかな」

「王妃とは思えねェ身軽さだな」

「まだだもん」

 

 12月初旬。

 それはファインにとって仕事に慣れたタイミングである一方で、帰国を考える時期でもあった。

 まだ遠いと油断していたら、その時は直ぐにやってくるのだろう。

 ファインは前髪を手で確認してから、ふと足を止めた。

 

「あっ、ごめん。多分ケーキ屋さんだとは思うけど……。お手洗いに髪留め忘れてきちゃったみたい。取ってきても良い?」

「あァ。でも先帰ってるぞ、寒ィ」

「うん。玄関開けといてね」

 

 ファインは右側通行の列に混じって人混みへと消えた。

 俺も正反対に歩き出す。

 

 

 

 商店街を抜ければ裏路地に出られた。

 5メートル先が、暗闇に覆われている。

 所々で途切れかけた電灯がチカチカと明滅を繰り返している。

 灯りと影の境界線を越えれば、白雪も闇夜に染まらざるをえない。

 俺はスマホの懐中電灯で足元を照らしていた。

 灯りを紡ぎながら歩を進める。

 ファインと喧嘩した際に探し回った細道へと繋がって、家までは残り3分ほどだった。

 あと1つ闇を越えれば玄関を目視できるその時。

 闇が、動いた。

 そいつは、まるで産み落とされたように現れた。

 ウマ娘だ。

 その後ろにロングコートを着た男を連れ添っている。

 無視して通り過ぎようとしたら、俺は女の方に肩をトントンと突つかれた。

 やっぱりか。

 

「いやいや。これで無視するって、随分と人見知りだね」

「誰だテメェは。しらねェ奴に話しかけるほど俺は社交的ではねェな」

「詰めが甘い」

「あァ?」

「じゃあ君は初対面の人に向かって、そんな口の聞き方をするのかい? せめて敬語くらいは使うよね。そうしないってことは、私のことを何者かとして認識しているから。そうでしょ?」

「あー、メンドくせェ。どうせファインのSPとかそンなトコだろ? こんな所でもスーツきるバカなんてお前くらいだ」

「やるね。正確に言えば、その隊長をやっている者さ」

「で、後ろのお前がファインの夫か?」

「あぁ。急に無礼をすまないねシャカール君」

 

 隊長はタバコの箱から一本を引き抜いて火を点けた。

 

「こいつを吸い終わるまでには、話を終わらせたいんだ。私のためにも、君のためにも」

「話?」

「いや、ね。結論から言えば『時間だ』ってことなんだけど」

 

 何を言っているのか、俺は分からないままでいた。

 帰国にしては早すぎる。

 俺が顔しかめていると隣の男が続けた。

 

「まさか何も聞いてないのか? だとしたら、ファインも人が悪いな」

「もっと分かり易い結論をよこせ。何もねェなら行くぞ」

「いや……そうだな、これは俺から言うべきことなのかなって、ね。もしも聞いたとした、後悔はしないかい?」

「内容によンだろ」

「そうか」

 

 隊長が、溜め息を「はぁ」と吐き出して遮った。

 

「私から言うよ。君も辛いだろうし」

 

 モヤめいた煙がユラユラと空へ昇る。

 押し黙る。吸い込む。また息を吐く。

 吸いかけの煙草を揉み消してから、告げた。

 

「殿下はね、子宮癌なんだ」

 

 それもステージ3のね。

 いや、嘘だ。

 だって、こんなにも。

 

「『嘘だ』って言いたげな顔をしているね。なら答え合わせをしよう」

 

 隊長が、顎を前に突き出した。

 俺の背後を指している。

 振り返る。

 

「やっぱり本人から聞いた方が受け入れやすいか」

 

「もう少しだけ、黙っていられると思ったんだけどな」

 

 ファインが俺の背後からそう言った。

 いつからか、この話を聞いていたようだった。

 俺の隣にまで歩んでから、2人にペコリとお辞儀をした。

 

「勝手に出て行ってごめんなさい」

「いえ。我々としては殿下の意思を尊重したまでです」

「うん、ありがとう。それと、あなたにも心配かけちゃった」

 

 ファインは少しだけ背伸びをして、離婚したハズの夫にフレンチキスをした。

 

「帰らなきゃだめかな?」

「ファインが、そうしたいのなら」

「うん。でも死に場所くらいは自由に選びたいの」

「そっか」

 

──待て死に場所だと?

 割り込まずに、居られるか。

 

「先ずはそうだ。君は、全てを知る必要があるね──」

 

 それからは、断片的な事実を聞かされた。

 先ずは、ファインが不妊症を治したこと。

 知っている。

 治療薬による副作用で末期直前の子宮癌に罹ってしまったこと。

 初耳だ。

 全部が嫌になって、母国を飛び出したこと。

 同情できなくもない。

 実は離婚なんてしていなかったこと。

 まァ、そうだろうな。

 

「一方的に離婚届を押し付けられたって、そんなの納得できるわけないじゃん」

「でもさ、たったの独りで王族なんて続けても辛いでしょ? だったらいっそ縁を切って、あたなは一般人に戻った方が良いと思うの。世間はどうあれね」

「そんな気遣い要らないよ。リーフのことはどうするんだ? ずっと一緒に居てくれよ」

「うん、そう。そうだよね。無理を言ってることなんて分かってるよ。私のワガママを聞いてくれてありがとう。どこまでも優しいね。でもね、もう時間が来ちゃったみたいだから向き合うよ。そのために思い出を作ったんだもん」

 

 2人はもう一度フレンチキスをして、互いにハグを交わした。

 見てて恥ずかしくなるくらいに。

 クルリとこちらに向き直って、ファインは俺にも頭を下げた。

 

「シャカールもごめんね。そしてありがとう」

「最初っから今の今まで、全部を後出ししやがって。『死にたく無いって思えるようになる』だと? 結局は全部が自分のためだったのかよ」

「シャカールにとっては理由であって、私にとっては思い出なんだ」

「思い出、か」

 

 俺は、ベンチで聞いた言葉を反芻した。

 

──嫌われちゃったの。

 

 誰に?

 今思い返せば、俺は勝手に「旦那」を修飾した。

 それが全ての誤解を生み与えた。

 疑わなかった、決して。

 アイツは嫌われていたンだ。

 最も無慈悲で、考えうる限り最悪な神──死神に。

 

「理不尽過ぎンだろ」

「本当にね。でも、未練は残さないって決めたんだ。だから、やりたいことをやるの。“すべき事”からは逃げちゃった。でも楽しかったなー、ほんと。色々と付き合ってくれてありがとう」

 

 

 

 

 

 俺は全て、理解した。

 

 

 

 

 確定的に明らかな死が、ファインに迫っていることを。

 もう、どうしたって手遅れだってことを。

 過去に何か全てを諦めたから、抗う気なんてないことを。

 

「何でだよ……」

「何でだろうね」

 

 多分、明確な理由は存在しない。

 運命とか因果とか、そんな俺らしくもない結論が延々と頭を通り抜けてゆく。

 クソゲーを押し付けられた。

 本当に、たったのそれだけなのだと思う。

──謀ったのか?

 いや再開した時からコイツの終幕は予定されていたのか。

 全てを知っていて尚、俺に会いにきている。

 つまり。

 いや。

 きっと、驚いたハズだ。

 出会って早々にリストカットなんて、青天の霹靂にも程がある。

 そうだ。

 どこぞのバカ野郎には猶予があった。

 カッターなんて使わなければ天寿を全うできた。

 たった1年の余命すらないファインと違って。

 あァ。

 道理で喧嘩になったワケだ。

 デッサンに色を吹き込んだ時のように、ファインの行動が輪郭を伴った。

 何故、やりたいことをリストアップしたのか。

 何故、リストカットに負の執着を見せたのか。

 お前が飲んでいる薬は。

 花火に掻き消されたセリフは。

 やたらと、ビデオに残そうとする理由は──。

 思い返せば、前兆なんて幾らでも思い当たった。

 

 

 

 コイツは。

 人生を。

 彩りで満たすつもりなンだ。

 

 

 

 心臓が止まって、死に絶えて。

 いや、死の概念すら消えた“無”に帰する前に、必死に絵の具で着色して、紡いだ思い出を貼り付けて、どこまでも華やかに散ってやるつもりなのだ、コイツは。

 

「天国にアルバムを持ち込めたらさ、それって凄く素敵なことじゃない?」

「フザけてンじゃねェぞ……」

 

 非難が、溢れた。

 思い出はハサミで切り取りとれないから、大事に保存できないから。

 いっそのこと───。

 思い出を心に綴じ込んで、消えて、はいお終い。

 打ち上げ花火のように、死にザマに美的価値を見出して「綺麗だね」って拍手喝采。

 してるのはお前だけだ。

 誰も望んでねェよ。

 

「死んでも、私のこと忘れないでほしいな」

 

 忘れられるワケねェだろ。

 お前が“ファインモーション”として生きた証を、俺に刻みつけたンだ。

 己の死を肯定させるために、消えないように、って。

 もう深ェよ。

 どうしてくれンだよコレ。

 バカが。

 責任取れ。 

 なァ、酔っていたからなんて嘘じゃねェか。

 俺はファインの激情を今でもハッキリと覚えている。

 コイツは確固たる怒りをもって、俺を叱りつけていた。

 もう幾ばくも時間が残されていなかったから。

 整合性のなかった叱責は、明白な意味を持っていた。

 記憶が、甦る。

 

──『『死のうだなんて、思わないで』』

 

 あのな、俺な、お前のお陰で処方箋の量が減ったんだ。

 医者から「明るくなりましたね」って言われたんだ。

 

「なんでシャカールが泣いてるのさ」

 

 ツゥと、丸みを帯びた2粒が頬を滑り落ちていた。

 なだらかな熱を持っている。

 唇の隙間に染みてから、俺は涙だと理解した。

 開けたら慟哭が漏れそうで、下唇の皮をむしっていた。

 あァ。

 人が死ぬ時の味をしている。

 トレーナーを雪で亡くした時と同じ、鈍い鉄の味だ。

 

「シャカールには出来るだけ、最期まで笑っていて欲しいんだよね」

 

 口の中に染みた鉄が、喉の奥でギュッと固まった。

 溶けない。

 つっかかった。

 俺は一度だけ「はァ」と震わせて、つっかえを無理やり吐き捨てた。

 ダメだった。

 情けねェ声が、嗚咽となって溢れ出た。

 

「『最期まで』じゃねェ。終わんねェンだよ。未来を見ろ」

 

 掬えない命の味なんて2度と知りたくないと思っていた。

 それなのに、なんでだよ。

 まだ、鼻先がツンと痛んでいた。

 地に零れた涙は2度と頬をつたわないように、時間も過去を振り返ろうとはしない。

 何百周と回った時計の針。

 1と0しか知らなかった俺に、お前は9までを与えた。

 有終の美に価値なんてない。

 データは残るからこそ意義がある。

 お前も死んでトレーナーの後を追うならば。

 この世界に。

 この俺に。

 生きる余裕なんて、あるものか。

 

「でも、シャカールが泣いてくれたから、今すぐに死んじゃっても後悔しないかも」

 

 胸の前で両手を重ねて、あぶくみたいに揺らいだ声を零していた。

 

 

 

 俺はファインの余命を計算する。

「parcae」と同じ要領で新たに「life」をプラグラムする。

 抗薬の臨床データと子宮癌の生存例はネット上に幾らでも転がっていた。

 フリック、コピー、ペースト。

 俺自身が観測するよりもずっと正確で、膨大なデータだ。

 予想の精度は「parcae」の比ではないだろう。

 エンター。

 タイムリミットが液晶ディスプレイに表示された。

 

〈3月12日〉

 

 再開した日から約半年後。

 それは宣言された期間──帰国予定の月に一致していた。

 帰る気なんて、初めから無かったンだ、コイツは。

 

 

 

【シャカールに本当のことを伝える:✔︎】

 

 

 

 

 

 

 

 

6.

 

 ファインが初めて倒れたのは、それから1週間が経ってからのことだった。

 鳥籠の中に文鳥が帰るように、ファインは狭い病室へと囚われた。

 子宮癌は悪化が極めて早い。

 2年も持たない場合が殆ど。

 薬で進行を遅らせようと、限度はある。

 そのツケが回った。

 ファインからそう聞かされた。

 分かっている、そんなこと。

 でも、いざ面と向かって告げられると、何と言うか。

 聞こえない足音に急かされている気分だった。

 リスト埋めは継続する。

 死を遠ざけるために付けていた筈のチェックも、今となっては──。

 それから程なくして俺は頻繁に病室を訪ねるようになった。

 仕事終わりだったから、ついでに同僚が見舞いに来ることもあった。

 でも先客はSP隊長らで、たいてい鉢合わる。

 知らねェ奴らと出会っても気まずくなるだけだ。

 でも、ファインはソイツらをくっつける。

 帰る頃には仲良くなってンだ。

 そんな奴。

 2人きりの時間は特別だ。

 俺は病棟一階のコンビニでカップ麺を買って、備え付けのポットでお湯を注ぐ。

 病室に着く頃には食べ頃だ。

 

「あっ、きたきた。今日は何味?」

「味噌豚骨」

「おっ、わかってるね」

「匂い残ったらヤバくねェか」

「私は食べてませーんって言えば大丈夫……多分」

「見つかったら怒られちまうな」

「そしたら2人で仲良く怒られよっか」

 

 あと入れと仕上げの小袋をスープに溶かす。

 割り箸でグルグルとかき混ぜる。

 カップ麺は2分が美味しいんだよ。

 まだ芯が残っている麺をほぐしてから、つまんでファインの口元へと寄せる。

 ふーふーと、息を吹きかけて熱を逃す。

 いただきます。

 

「うん、美味しい! 贅沢言うと、もう少しニンニクが効いてると嬉しいかも」

「そんなことだろうと思ったぜ」

「え?」

「ホラ」

「持ってきてくれたの?!」

「カスタムは?」

「マシマシマシマシくらい」

「死ぬぞ」

「死んじゃうもん」

「やめろ」

 

 こうやって俺たちはバカをする。

 ブラックジョークにしては笑えねェけど。

 バレないように持ち込んで、食って、換気して。

 しまいには隊長たちも参加するようになった。

 ベッドに横たわるファインを半円で囲いながら、4人で麺パーティーってやつをする。

 味を指定して、ファインの舌に最も合ったヤツが優勝。

 なンだソレ。

 

「第3回、麺パーティーの優勝者は〜? 隊長さんでした!」

 

 5回目になって、やっと俺が優勝した。

 でも、第6回が開かれることはなかった。

 容態が悪化したのだ。

 1月中旬になると、ファインはスープを飲むだけになった。

 

「食べねェのか?」

「……じゃあ」

 

 ひと口食って、嘔吐。

 吐瀉物に赤黒い塊が混じっている。

 スープにドロリと落ちると、跳ねたスープがベッドシーツに茶色いシミを作った。

 いや。

 ジョークにしては、赤色が過ぎンだろ。

 

「……ゥあ。やっぱりダメだったか……」

 

 背中をさすっても尚、ファインは何度もえずいていた。

 浮き出た肩甲骨が、さする手を跳ね返していた。

 食えると思ってたンだ。

 いや──。

 独りよがりか。

 自分勝手な願望だったのか。

 押し付けて、事実が返ってきた。

 それだけだ。

 

 

 

 病状の悪化が目に見える頃になると、ファインはビデオを頻繁に見直すようになった。

 上半身を壁に預けて、じっと液晶の中へと旅に出る。

 時々「この時のシャカールは──」なんて言いながら、楽しげに回顧する。

 未来なんて、これっぽっちも見ていない。

 あまつさえも「そろそろ、リーフにもお別れの挨拶をしなきゃ」なんて口にしやがった。

 2月に入ってすぐに、その願望は叶えられた。

 リーフが来日した。

 何も知らされないまま、表面上の幸せを噛み締めている。

 初めての海外旅行だったのか1人でワイワイキャッキャと楽しそうだ。

 隊長ら含めた大人4人の中で、コイツだけが純粋なままでいた。

 ベッドの上によじ登って、抱きしめて。

 

「ねぇママ。パパのこと、すき?」

「大好きだよ。もちろんリーフのことも」

「きしゃま〜」

 

 同じセリフで、笑っていた。

 目尻のシワがそっくりだ。

 髪色まで瓜二つ。

 瞳の色が黒いのは、夫の遺伝子らしかった。

 伸ばした髪を後ろで一本に束ねている。

 髪型だけで言えば俺と同じポニーテールだ。

 

 

「ホラ、挨拶しなさい」

「はい」

 

 つま先から頭の先までをピシリと伸ばしてから、床に跪ずいた。

 王族の自己紹介ってやつだ。

 

「オイ何歳だコイツ」

「いくつ?」

 

 リーフは手をパッと開いて、俺に見せつけた。

 なるほど。

 

「よくできました」

「英才教育ってやつか」

「こればっかりは仕方ないよ。でも、もう後継ぎには困らないね」

「役目は果たしたってか?」

 

 好きな人はママとパパです。

 第何王妃だかなんだかしらねェけど、基本的には普通の“女の子”だった。

 それは病院の庭園からシロツメクサを摘んできて頭に被せたり、ウマ娘らしく走ることが大好きだったり。

「おかあさんも走ろうよ」なんて言って、俺らを河原に連れ出すのだ。

 晴れた日は外に出る。

 車椅子にファインを乗せて、一直線に伸びる川辺を散歩する。

 車椅子を押す役目は俺に振られた。

 旦那は旦那らしくリーフの世話をして、隊長は俺らを警護する。

 匂いでわかる。

 あのヤシの実を発酵させたような香りはガキにとってクセが強過ぎる。

 すぐ近くにいるのだろう。

 そうなると、リーフは決まって50メートル走を繰り返した。

 匂いから逃げているのか、それとも走りたいだけなのか。

 追いついた途端に、また走り出す。

 ハァハァと息を切らす娘の後ろ姿を見ながら、夫婦揃って涙を流すんだ。

 夏祭りで当てた蹄鉄シューズを膝に抱いて「いつか、リーフが履けたら良いね」なんて願うのだ。

 未練ばっかじゃねェか。

 

 

 

     †

 

 

 

「桜、見られると良いね」

「余裕だろ」

 

 窓辺から吹き込んだそよ風が医療ベッドのシーツ端をヒラヒラとなびかせている。

 春が、乾いた風と共にやってきた。

 俺は1つくしゃみをする。

 ファインの手元から、ページを捲る音がペラリ。

 機材に詰め込まれていた遠い記憶は、アルバムとして保存されていた。

 持ち運びやすいように、だとさ。

 それに応えるべくして、車椅子も徐々に軽くなっていった。

 踏み込む必要もない。

 2月の初旬を境に、散歩の機会がめっきり減った。

 会話は増えた。

 本当に、本当に他愛のない話だ。

「昨日何食べた?」だったり「晴れてるね」だったり、LANEですら交わさないやり取りを、延々と引き伸ばす。

 意味なんてないが、音を出すことに意味があった。

 病室が静寂に包まれるよりは、マシだと思えている。

 自ら話しかけることは無かったから、俺は相槌を返すだけのマシーンだった。

 路頭に迷う目線を、立てかけ式のカレンダーへと集めて返事をする。

「あァ」と「そうだな」と「確かに」をループした。

 日付が、12月31日で途切れている。

 色焼けしたカレンダーの薄紙が、埃の膜をかぶっていた。

 

 

 

 いつかビデオも見終えて、話題も無くなって、ついには相槌を返せなくなるだろう。

 その頃になると、ファインは床に伏せる時間の方が多くなった。

 ほとんどを寝て過ごす。

 口数も減った。

 ついには俺から話しかけるようになっていた。

 旦那の奴も語りかけるように、その日の出来事を伝えている。

 返事は稀だったが、それでも手だけは握り続けていた。

 YesかNoの二者択一。

 前者ならばお前から握れ、後者ならば不要だ。

 俺は、ようやく核心を突いた。

 

「お前ら、まだ隠してることあンだろ」

 

 結局言い出せなかった、こんな状況になるまで。

 何かと誤魔化すお前だから、こうするしかなかったンだ。

 

「変だよなァ? 死に際になってまで、オレと過ごそうだなんて。離婚を画策するにしても、失敗したなら国に帰るだろ普通。なんでまだ残ってンだよ。わざわざリーフを日本語で育てた理由は何だ?」

 

 キュッ──。

 皮が枯れて関節の浮き彫りになった指で、ファインは俺の右手の甲を包んだ。

 朽ちかけた線香花火のような声を、グッと絞り出した。

 

「お願いがあるんだ」

 

 内容は、既に知っている。

 リストの最後の行に記されていたのを、いつかに見た。

 

【シャカールにリーフのことを託す: 】

 

 育てろってか?

 無理だろ、どう考えたって。

 互いに見ず知らず同士で、どうしろと。

 自らの死を舞台装置にしてまで叶えたいことなのかよ。

 それが最終目的か。

 

「だって、真正面から言ったって、絶対に聞き入れてくれないでしょ?」

「……そもそも義理がねェ」

「義理ならあるよ。だって『死にたくない』って、そう思えるようになったでしょ?」

「それとこれとは関係ねェだろバカが。ヒトってのはな、自分が死にそうになってたら必死こいて生きようとすンだよ。ンでお前は、そうやってヘラヘラして、あたかも当然みてェに死を受け入れてンだ」

「もうね、疲れちゃった」

「ならSP隊長にでもやらせろよ。ピッタリじゃねェか」

 

 旦那が「あのね」と遮って、俺の目の前にスマートフォンの液晶を提示した。

 1枚の画像が写されている。

 どこにでもあるような一家団欒の写真だ。

 多分世界で1番デカい液晶テレビの中にモナドが居る。

 その前に座り込んでいるのがリーフらしい。

 誰がどう見たって、テレビの中の俺に魅入っているカオだった。

 

「あの子が君のファンなんだ。君なら、直ぐに打ち解けてくれるだろうから。「大人になったら何になりたい?」って聞くと、きまって「モナド」って答えるんだ」

 

 キッカケは、俺のデビュー曲だと言った。

 一般家庭ではありえねェほどデカい液晶テレビに俺を写したら、オトされちまったらしい。

 違ェ。

 そんなものは詭弁だ。

 所詮、映画館で見るとやたら感動するロジックと変わりはない。

 旦那が続けた。

 

「あの子はまだ、君をモナドだとは理解していない。だから、理解できる歳になったら一緒にノウハウを教えてやってほしい。一緒に笑ってやれる相手になってあげてほしいんだ」

「どう足掻いたってアイツは後継ぎなんだから、DJになんてなれねェだろ」

 

 そんなことないよ。

 ファインがぐったりとした身体を持ち上げて、俺の瞳の更に奥を見透かした。

 俺は、思わず身を引いていた。

 

「なれる。私がトレセン学園で走れたように、あの子もきっとなれるはず。それが数年間の夢だとしても、ね」

 

 擦り切れた声で、紡いだ。

 順序を無視した、支離滅裂な文章を。

 溜めてたことを吐き出さんとばかりに。

 

「あのね、あの子には色んなことを知ってほしいの。エゴかな? 私が王室に囚われていたからこそ、そう願うのかもね。うん。リーフを通して、私も天国から外の景色を見てみたいのもあるよ。確か、まだ埋まってない項目があったよね?」

 

 俺はいつの日にか追いやった、難解な選択肢を記憶の隅から引っ張りだした。

【シャカールとアメリカへ行く: 】

 コイツは初めから、この選択肢が除外される前提で書いてやがったンだ。

 ほんッと、どこまでも。

 リーフを立派に育てて下さい。

 私も外の世界を知りたいです。

 最後に。

 

「シャカールにとって、生きる意味にもなると思うの。だって──」

 

──身近なヒトを亡くすのは2度目だから。

 言うな。

 分かってる。

 目を背けてたンだ。

 

「死ぬつもりはねェよ。誰かさんのお陰でな」

「辛くなったら、支えあってほしいの」

「このエゴイストが」

 

 色ツヤを失った茶髪をワシャワシャと撫でてやると、ファインはミミをシュンと萎ませた。

 あァ、もう、わかったよ。

 

「なら1つ、条件がある」

「うん」

「せめて最後まで生きる努力してみろ。亡くなった後の想定を聞かされる俺の身にもなれ。お前があの時俺に『死ぬな』って言ったんだ。それならお前も努力すンのが筋ってもンだろ」

 

 神を殺せ。

 俺の届かなかった7センチメートルを、お前が刃で埋めるんだ。

 死神の喉仏を、カッターナイフで掻っ切ってやれ。

 手首は──ねェな。

 生き伸びろ。

 

「うん、頑張るね」

 

 ふぅと安堵を含んだ笑みを浮かべていた。

 その裏に母親の影を見る。

 

 

 

      †

 

 

 

 抗癌剤の使用に踏み切ったのは、3月に入ってからのことだった。

 もう遅い。

 今更どう足掻いたって間に合わないだろう。

 だが0より低い確率だとしても、やらないよりはマシだと思っている。

 窓から見える桜の枝先が、ふっくらとした薄紅色に膨らんでいた。

 

「綺麗だね」

「な」

「来年も一緒に見ようね」

「あたりめーだろ」

 

 バサバサと、真っ白な梅の花びらが枝から抜け落ちて病室の床へと朽ちていく。

 ニット帽の繊維に絡まってから、洗面器へと滑り落ちてドロリ、浸る。

 桜の花弁よりも赤く──紅く染めながら、ファインはこの世を旅立った。

 まだ誰も見たことがない場所へと。

 満ち足りた表情のまま、安らかに息を引き取った。

 天使のような奴が、本当に天使になった。

 少なくとも、俺はそう願っている。

 

 

 

 

 

 

 

7.

 

 アイツが居なくなってから変わったことが2つ。

 大きく分けて、人間関係と私生活だ。

 1つ目は、葬式のためだと言える。

 そこで学園の奴らと再開した。

 アイシャドウが擦り切れたエアグルーヴの横顔を、俺は今でもよく覚えている。

 式は身内による簡素なモノだった。

 それがアイツの遺言だ。

──旅に影響が出たら嫌だから。

 最善だったと思う。

 涙ってのは連鎖して、傷口を無駄に広げさせるだけだから。

 

「貴様、随分と冷たいな。直前まで側に居たそうじゃないか」

「なんつーか、実感が湧かねェンだよな」

 

 嘘を言ったつもりは無い。

 実際、式の手続きや遺言を取りまとめたのは隊長らを含めた俺達だった。

 そうやって、シナプスを殺している方が多少はマシだったように思う。

 考えるな。

 墓の前で手を合わせても、俺は涙を流せないままでいた。

 皮の剥けた唇が、いつまでもヒリヒリと傷むのだ。

 

 

 

 2つ目。

 私生活の変化は、まァ、当然と言える。

 リストを埋める──国々を巡る上で真っ先に思い当たったのは、マンションのことだった。

 契約を変更する必要がある。

 口座に足りるだけぶち込んで、逡巡。

 これで数年は確認する必要も無い筈だ。

 帰路に着く。

 夕方までには空港に着いていたい。

 帰って早々、俺は荷造りに取り掛かった。

 20分ほどで終わるだろうと見通しを立てたその時、玄関からリーフの声がした。

 ドタドタと足音を立てて、俺の元へと駆け寄って、言う。

 

「ねぇねぇ、おかあさんは?」

「……そうだなァ」

 

 いつか聞かれるとは思っていた。

 返答は、既に決めている。

 俺は、今から嘘を吐く。

 ファインが不妊の事実を隠された時のように、コイツに時限爆弾を植えつける。

 

「海の向こうで待ってるってよ」

 

 気分でアメリカに行ったらしい。

 じゃあ追うか。

 やっぱりパリでバカンスしてるってよ。

 すれ違ったな、戻るか。

 そうやって亡き母親の幻影を辿りながら、遺されたリストを埋める。

 空の向こうで──とは言わない。

 これは一方的な教育だ。

 母親が死んだから自立しろ。

 いつかコイツが成長して、その意味を理解するならば。

 きっと、俺は非難されるだろう。

 軽蔑だって、されるだろう。

 あなたは、本当のお母さんじゃない。

 それで良い。

 それでこそ真っ当だ。

 

「お父さンとこ戻ってろ」

「うん!」

 

 俺は洗面台に左手首を晒して、カッターのスライダーに指をかけた。

 押しこむ。突っかかる。固い。また押し込む。滑り出る。

 血が染み込んでいた刃先は、銅褐色に錆びついていた。

──コレで最後だ。

 俺は手首に彫り付ける。

 いつかファインが刻んだ誓い──リストキャットを。

 傷つけないように、もう消えないように。

 刃を深く食い込ませて肉を切り裂いてゆく。

 描き終えた猫を見て、俺は一瞥した。

 

(クソみてェにブサイクだなオイ)

 

 ギザ歯に吊り目。

 まるで俺みたいだ。

 見本とは似ても似つかない。

「傷付けるの禁止ね」なんて言われても、そりゃ無理だろ、こンなの。

 ほんと笑えるぜ、あまりにも下手過ぎて。

 でも。

 何で。

 こんなにも可笑しいのに──いや、違ェか。

 俺は、素直になることにした。

 どうだろうな、なんて口癖は捨て置こう。

 己の感情を優先する。

 やっと、泣けた。

 

「ァ──」

 

 そう決めたら、もう止まらなかった。

 目の端で膨らんだ熱が、傷口にポタリと滴った。

 まだ柔らかなカサブタに染みて、血管の奥へと溶けていく。

 ズキリ、震える。

 俺は叫んで泣いて、また叫んで。

 喉も涙も枯らしきって、アイツの死と向き合った。

 カレンダーをめくって3年後にセットした。

 埃は、帰ってきてから払い落とせば良い。

 その日は──。

 俺は赤いインクを指に塗って、その日付を丸で囲んだ。

 3月12日。

 そうだ、この日に帰ってこよう。

 

【帰ってきたら墓参りをする: 】

 

 新たな項目を追加する。

 インクが残っていたから直前の選択肢にチェックを跳ねた。

 

【シャカールにリーフのことを託す:✔︎】

 

 明らかに付け足されているソレは消しゴムの創痕を残していた。

 何度も擦ったからこそできる、くすんだ灰の色をしていた。

 

「頑張ったンだな、お前」

 

 そろそろ行こう。

 かつてファインが座っていたキャリーケースに、俺は荷物を詰め込んだ。

 いつの間にか、俺はミシミシと軋むほど抱きしめていた。

 鼻を埋めて胸いっぱいに吸い込んで、足先から指先にまで巡らせる。

 染み付いたクローバーの匂いで、俺は、また──。

 これで最後だから、本当に、最後だから。

 

 

 

 涙を拭いて、血を洗い流す。

 包帯を巻いてからリストバンドをつける。

 これならば、リーフを教育する上で悪影響は及ばない筈だ。

 隠せば、真似される心配もない。

 最低限の配慮でもある。

 仕上げに腕時計でファッションを演出する。

 恐らく俺たちには、多難ばかりが待ち受けているだろう。

 リーフが母親の死を理解した、その時。

 この未来は、極端に分岐するハズだ。

 受け入れて前を向くか、爆発するか。

 後者で間違いない。

 俺でさえ、そうだった。

 だが、そこに遺された意志──生存意義がある以上、俺はその反抗を受け入れなければならない。

 事実を擦り寄せて、互いに道を模索する。

 まァそれでも、自傷だけは許さないつもりだ。

 真っ当に生きろ。

 心の中で呟く。

 俺は荷物をまとめて家を後にした。

 奇妙な3人による旅が、幕を開ける。

 先ずは関係の構築からだ。

 

「シャカール君。頑張ろう」

「敬称付けンな。育て親にそりゃねェだろ」

「あぁごめん。そうだ。うん、そうだ」

「パパ! いこ!」

 

 リーフは腕をグイと引っ張って、バス停めがけて駆け出した。

 やはりアイツの娘だ。

 俺を連れ回していた、あの華奢な背中と重なり合う。

 

「シャカールさんもきてきて!」

 

 リーフは身体をピョンピョンと弾ませながら、俺へと手を振った。

 キラキラと、前髪を彩る大葉が太陽に照らされている。

 ファインの瞳のような薄い翠色に透き通っていた。

 

「あァ」

 

 腕時計の革ベルトを締め直して俺は一歩目を踏み出した。

 12時00分。

 腕時計の針は、全て青空の彼方を指していた。

 

 

 

 

 

 

 

エアシャカールの追悼   -fin-

ファインモーションの劣等 -comp-

ファインモーションの克服 -comp-

 

 

 

 

 




読了ありがとうございました。感想等々を送っていただけると励みになりますので、ドシドシ書いてくれると嬉しいです。

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