※ヨルシカの楽曲「左右盲」にインスパイアされて制作しました。
ぬいぐるみたちも目覚まし時計もいないベッドから落ちる瀬戸際で目を覚ましたあなたは、雨にしずしずと霞む窓向こうを睨みつけた。
女性にしては高い背が丸め込まれた形から耐えかねたようにきりきりと伸びていって、爪先に引っ掛かっていた毛布がそのまま足下まで下げられていく。雲透けの影にさえ眩しげに顔を顰めて、裾の少し黒くなったギンガムチェック柄のカーテンを閉めようと体をひねった。隣にいたら聞こえてしまいそうなくらいに肩やら腰やらを鳴らしながら上体を反らして、あなたはベッドの際に一応は寝転がったまま、頭の方にあるそれを大雑把に閉めた。
それから誰もいない壁側へ、届きもしないのに片腕を伸ばしながら倒れ込む。指先までまっすぐ伸びた左手がしばらくうぞうぞ探ったと思えば、さっきの体に遅れて同じようにへたりこんだ。
佇むカーテンが隙間から、左手に薄く日を差し掛けている。
あなたは遠くに雨を聞きながら、音越しにそれを吸い込んだように重くベッドに沈んでいる。
部屋の中に時計はない。カレンダーもない。時間がわかるとすれば机の上のスタンドに腰掛けたまま眠りこけているアイパッドに充電器を刺して叩き起こすか、無理をすれば洗濯機の残り時間表示でカップ麺の時間くらいは計れるかもしれない。
やがて、あなたは億劫そうに体を起こした。黒くて黒くて長い長い、薄闇の中でも艶めく髪がさらりと光る。大学生の割には子供っぽいファンシーな柄のパジャマを脱ごうとして前のボタンを全て外し、あなたは少し無理に体をよじった。袖から片腕をなんとか引き抜くまで若干の時間を要して、それからもう片方も引っこ抜く。手首の通りが悪いのは袖にボタンがないから仕方がないのだろう。シャツを畳み、手間取りながらズボンも同じようにして、それらを丁寧に置いたあなたは自分の机に向かった。
足元に転がったお菓子の空き箱やペットボトルを適当に蹴り退けながらゲーミングチェアに座って、隣の背もたれもない丸椅子に筆記用具とノートを本を避難させる。デスクの上からエナジードリンクの缶やら袋に入れるだけ入れたコンビニ弁当の空き容器やらを手で無造作に払い落とした。投げ出した足にぶつかるのもお構いなし。ただ、うっかり巻き込んだワイヤレスキーボードだけは渋い顔で摘み上げた。
あなたはパソコンを起動して、何かを書きつけている。
部屋の様子は、書き物をするのに向いているとはお世辞にも言えない。六畳一間に散乱したゴミ。洗濯かごにすら入れず散らかった衣服。サイドテーブルのドリッパーに被せられている乾ききったコーヒーフィルターには白いカビが積もっている始末で、生活というものをかなり蔑ろにしている。そのくせ隣に並べられたふたつのカップだけ、不思議なくらい綺麗だった。
あなたは顔も向けずに左手を伸ばして、それが空を切るのに驚いた顔をした。可愛らしくまんまるだったはずの目がわずかにその面影を取り戻す。でも、すぐに落ち窪んだ影の中へ引っ込んでしまった。
カップをふたつとも手に取って、固まって、迷って、溜め息をついて台所に行く。少し水音がして、ピンク色でもない、可愛いクマの顔も描かれていない、シンプルな白無地の方を左手に戻ってきた。右手には電子ケトル。いつも通り92度に設定して、ぴー、と間抜けな音。下の陶器が無事なことだけ確認すると、あなたはフィルターだけ取り換えたらそのままコーヒーを淹れてしまった。三杯分の豆で、お湯はちょっと少な目。カップをお湯で温めたりもせず適当に淹れたそれを、あなたはちびりと舐める。また画面に向き直ったら、もうカップには一瞥もくれないで。
八つ当たりのように大きな音を立てながら、タイプミスに舌打ちをしながら、頭を掻きむしりながら、貧乏揺すりをしながら、皺の寄った眉間を手の甲でコツコツ叩きながら、食い縛った下唇の片端から荒く息を吐きだしながら、足を組んではまた解きながら、嗚咽を漏らしながら、嘆きながら、えずきながら、睨みつけながら、それでも指先は絶え間なくキーボードを叩き続けている。か、か、か、か、かかかかかかか――時間よりも細かく記憶を刻んで、一秒でも早く吐き出せと言わんばかりに。
あなたは日記を書いている。
足の爪が薄紫になっている。頬も少しこけた。右耳のピアスの穴は塞がっている。開けっ放しの襖の向こうでスニーカーもパンプスもない玄関が郵便物の海に沈んでいて、くったり咲いた赤い傘が頼りなさげに呆けている。柄も顔も乾ききって本懐を忘れた片生いの花を、突然、光が焼いた。
暗転。
轟音。
叩き壊して、からから鳴る欠片。
雷でブレーカーが落ちていた。日はとうに沈んでいた。キーボードが無残になっている側に、狼藉を働いたあなたが椅子を蹴り倒した格好で息を荒げている。わずかでも明かりを求めてカーテンを千切らんばかりに乱暴に開いて、手近にあったノートを取ると中を遮二無二検めた。何冊もひっくり返し、投げ捨て、ときどきページを破り捨てもして、ようやく見つけたまったく手付かずの一冊をベッドに押し付けた。
息も荒いまま膝をついて、滅多刺しのような筆跡で言葉を書き込んでいく。
――履修登録の出し方がややこしくてあちこち聞いて回った。ひとりだけじゃもっと手間取っていただろうけれど、あの子が一緒に聞いて回ってくれて助かった。私はどうも要領が悪くていけない。
――あの子がコーヒーメーカーを欲しがっている。独り暮らしでそんな余裕あるのかな、と思ったけど趣味なら日々の潤いのために持ってた方が良いのかな。私は苦手なんだよねと、つい余計なことばかり口を突いて出る。笑ってくれて安心した。
――初めてデートをした。あの子の行きつけらしい喫茶店で、オススメはベネズエラのコーヒーなんだって。右手で取っ手を持って左手を下に添えて、なんだかお茶みたいな飲み方をする。外は雨だったけれど、小雨ならむしろありがたいくらいだった。あの子の引いてくれた手が熱かった。彼女のカップに触れている指先から、さっきまで繋がっていたこの手に流れてくるような気さえした。
――あれ。
――あの日、雨の打つ窓を微笑みながら見ていて。冷めるからと窓とは反対側にカップを置いていて。
――たまには雨も綺麗だという言葉につられてひんやりと窓へ伸ばした私の手は、右だっただろうか。心臓に流したくて熱を手繰った繋がりの手は、どっちだっけ。
――あの子のファンシーな傘を差してあげた手の感覚は記憶の通りでいいんだっけ。それとも、このペンの、
あなたはかぶりを振って、文字に打消し線を加えた。
――ベネズエラじゃないよ。エクアドル。エアと言葉のイメージが混ざって、なんか爽やかな感じがしたのを覚えている。
あなたは裏に透けた文字が見えなくなるまで何枚かページを捲った。
――たしかエクアドル産の豆で入れるとあっさりした味わいになるんだっけ。歩きながら、ドリップで濃い目に出すのが美味しいんだって嬉しそうに傘をくるくるさせて。子供っぽいクマのイラストも微笑んでいるみたいで。
――私はなんて返したっけ。生返事か、拗ねて手でも握りに近づいたか、帰ったらコーヒー淹れてって言ったかもしれない。ふたりで住んでからだったら、エクアドル産じゃなくてインドネシアのだった気もする。
あなたはペンを置いた。よろよろと倒れるように立ち上がって、コーヒーと埃の匂いと一緒に窓に縋り付いた。雨雲の隙間から盗み見る心無い月が、あなたの表情から光を奪っている。夜と同じ色の髪だけが、ほのかに、ほのかに。
「……いかないで」
窓を這い上がる手を、私は掴めない。
「……消えないで。行かないで。ねえ、お願い、どっちだっけ、また教えてよ……私じゃ、美味しくできないんだからぁ……!」
窓を伝った雨が薄っすらと滲んで桟に溜まっている。ぽたぽたとかすかに嵩を増す。
「また連れてってよ、小雨ならデートなんでしょ、また……」
額が窓に触れて、ゆっくり、ゆっくり、子供が寝かしつけられるみたいにあなたは倒れ込んでいく。
「……もう、大雨を眺めて、笑えなくなるじゃない……」
眉間に深い皺を残したまま、サイズのあっていない寝間着は脱いだのに寝苦しそうに呻いて、それでも深い眠りに落ちていくあなたのすぐ側に、私は座り込んだ。
額を撫でてあげたいのに手がない。
膝枕をしてあげたいのに足がない。
抱き締めてあげたいのに体がない。
私をぜんぶあげたいのに何もない。
あなたは思い出を書き残そうとしている。ふたりで並べた傘に跳ねた雨粒のひとつひとつを忘れないように。小雨がデート日和だなんて気障なことをぬかしたバカな女のせいで。
強まる雨がくすくすと笑っている。
夜の日差しが後ろ指を差している。
私はずっとこの部屋で裸足のままだ。あなたをどこかに連れ出すこともできない。コーヒーも淹れてあげられない。カビの閉ざしたドアの開く晴れをただ待っている。傘の要らない街で、私の知らない喫茶店まであなたが行ける日を祈っている。
それだけの亡霊。
ただ――願わくば。
遊び疲れたその晩に、くたくたで眠るあなたの顔がどうか、木漏れ日の子供みたいであってくれたなら。
止みかけた雨にずらした傘の縁から、繋いだ手にいつも滑り落ちていたような……安らかな陽だまりを、もう一度だけでいいから、私に見せて。