素直になれない彼女《ヒロイン》の育てかた 作:アメリカンショコラ
「ふう……」
「なんだ音願。随分とお疲れだな」
「この三連休をとるのに仕事を前倒ししましたから。少し疲れました」
深夜の露天風呂。肩まで浸かってこれまでの疲れを吐き出すように音願は息を吐くと、先に入っていた蘭が声をかける。
「最近根を詰めすぎだぞ。仕事のしすぎで身体を壊したらどうするんだ」
「せっかくフリーになったのですからもっと稼がないといけません。まだ目標の半分しか達していませんし」
音願は元々事務所に所属していた。彼女は仕事やオーディションを絶えず入れすぎて事務所側が休みの日を強制的に作るぐらいのワーカーぶりで、知名度が独り立ち出来るほど高くなった時にフリーとなった。
「………直宏はそれを望んでいないと思うぞ?」
「でしょうね。ですがこれはわたしがやるべきことですから。恩は返さなければなりません」
ガラガラと戸が開く。誰かが入ってきたようだ。
「この話は終わりです」
「そうだな」
二人は見上げる。澄んだ空気と満天の星々が輝いていた。
ーーーーーー
結果をいうと英梨々の怪我は大した事なかった。額の部分が少し腫れていただけで、しばらく冷やすとそれも引いて元気にやっていた。
今は風呂に入った後、安芸と共に部屋で今日撮った写真の整理やスケッチしたもののデータ化などの作業をしている。
食事をとってすぐに風呂に入ったのでめちゃくちゃ眠い。眠気に強いわけではないオレは眠ってしまう。
しばらく意識を失って目を覚ますと、安芸は部屋にいなかった。それと隣の部屋が随分と騒がしい。
備え付けの時計を見ると午前0時半。流石にうるさいと言いに行かなければならなないと廊下に出ようと立ち上がる。
すると引き戸が開いた。それが誰か判断する前にオレの腹に衝撃が走る。
「英梨々……?」
「にゃおやぁ……ちゅきぃ……」
押し倒して馬乗りになってきたのは英梨々だった。浴衣がはだけ、顔を真っ赤に上気させた英梨々が呂律の回ってない声であり得ない事を言っていた。
つまりこの状態は………
「英梨々酔ってるだろ? 何飲んだ?」
「よっへないよぉ? ちょこたへたたけぇぇぇー」
ちょこ? チョコってもしかしてウイスキーボーーーオレは名称を言い切る前に英梨々の顔がグッと近づく。
「なおってきれいなかおしへるよね……きふしひゃくなっちゃうふらい………」
「お、おい……! 英梨々しっかりしろ!」
英梨々はオレの顔に手を添えてそんなことを言ってくる。浴衣の隙間から見える決して大きくはないが体温上昇による汗で妙に色っぽく感じてしまう。こうしてみるとやっぱり顔いいよなこいつ……じゃなくて! オレは英梨々の肩を掴んで押し離し、強引に抜け出してトイレに駆け込む。
あ、危ねぇ! 雰囲気に流される所だった!
暫くトイレの個室で引きこもってから戻ると英梨々の姿はなかった。
「………………………………………いくじなし」
残された少女の小さな非難は直宏に届くことは勿論なかった。
ーーーーーー
「ーーーーな………い………おきなーーーひろ」
「ん………うう………なんだよ………今日は朝飯ないぞ……蘭」
肩を揺さぶられ、途切れ途切れに声が聞こえる。蘭だと思って特に目を開けることなく再び眠りにつく。
「ここを何処だと勘違いしてるのよ……あたしよ、澤村英梨々よ」
「…………えりり………なんだ英梨々か…………今……何時だ?」
「7時8分よ」
「まだそんな時間か……まだ寝かせてくれよ………オレが何時に寝たと思って………」
目を開くとぼやけた視界には金色が見える。声も先ほどよりもはっきり聴こえて英梨々の顔が目の前にあった。
ぼやけた視界と思考が晴れて今の状況を理解するまでに幾分か時間がかかったが、両腕を伸ばして畳に手を付きオレに覆いかぶさっているようだった。
「うわ!? お、お前何やって……! まさか昨晩のがまだ残って……」
「しー。静かにしなさいよ。周りのみんなが起きちゃうでしょ……後、昨晩って何かあったっけ?」
口に人差し指を添える英梨々。昨晩の事は全く記憶にないらしく、ぽかんと首を傾げていた。都合よく忘れてくれて助かった。オレも英梨々にえろい気持ちになったの忘れたかったし。
「ほれ、コンポタ」
「ありがと……あちっ、ふーふー」
オレ達は朝食が用意されるまでの間、眠気覚ましも兼ねて散歩をすることにした。途中自販機で買ったコンポタージュを英梨々に投げ渡す。
受け取ったコンポタのプルタブを開けて口につけたら熱かったようで息を吹いて冷まし、再び口につける英梨々。オレも缶コーヒーを開けて飲む。
「このコンポタ、おいしいんだけどコーンが後に残っちゃうのが勿体ないのよね」
「あるあるだな。そういう時は飲み口の少し下を凹まして飲むといいらしいぞ」
「へー」
英梨々は感心したようにも、どうでもいい風にも捉えられる声を上げ、左手で缶を固定し、離したら凹みが戻るくらいの力加減で右手を何度も握ったり、離したりを繰り返していた。
「ねえ直宏」
「んー?」
「昨日はごめんね心配かけて」
「あーそのことは何度も謝ってくれたからいいって。そんなことより今日のこと考えようぜ。英梨々は昨日行った場所のスケッチの続きか? 中断した責任はあるし付き合うぞ」
「そ、それなんだけどさ………今日は一緒に美術館巡りしない?」
横並びで歩きながら今日の予定を聞く。すると英梨々はオレにそう提案してきた。
長野は美術館の総数日本一で、約10%をも占める。美術を嗜む人が長野に来たならばまず間違いなく美術館に寄るだろう。だから英梨々もそうするのは考えつくが………どうしてオレと、なんて思わない、前似たような場面があったからな。オレは同じ間違いをしない。
「よし、一緒に行くか。サブヒロインの美術部のキャラと美術館に行くシナリオもあるし、取材も兼ねて」
「………え? あ……そ、そうね! 趣味と実益を兼ねて一石二鳥だし!」
オレの今日の予定は英梨々と一緒に美術館巡りをする事に決まった。旅館に戻り、朝食を食べた後、一緒にどういうルートで巡るか二人で作戦会議を近くのカフェでした。部屋でやると邪魔されるかららしい。
長野には美術館は110件もある全部回るわけにはもちろん行かないので有名な所七件と気になったイベントやコンセプトのある美術館の三件、計十件観に行くことになった。時間が余れば何軒か追加で行くって感じで。
「わあぁぁぁーいい眺め」
諏訪湖のほとりにあるハーモニー美術館の二階に上がってオレ達を出迎えたのは一面に広がる諏訪湖の景色。横に広がる大きな窓とそれを区切るように立つ柱がフレームのように作用して一枚の巨大な絵画のようだ。これがウインドウピクチャーというやつか。
「英梨々、今日は写真だけにしとけ」
「しょうがないわね」
今にもスケッチしだしそうな英梨々を制する。気に入ったものがあるたびにスケッチしていては時間がいくらあっても足りないからだ。
オレ達は展示品の数々を眺め、時に立ち止まって吟味する。
「この人も数多の芸術家の例に漏れず生前売れてないのよね……」
「当時のフランス美術史的に評価されるのは歴史画で、それ以外は論外みたいな感じだったからなぁ……」
英梨々はアンリ・ルソーの作品『花』の前で立ち止まり呟く。
ルソーはフランスの出身で後に素朴派と呼ばれる派閥の画家だ。
素朴派とは十九世紀から二十世紀にかけて存在した絵画の傾向のことで一般的に美術の教養を受けていない者たちの事を指す。素朴派の画家たちは美術の潮流や技術的な事に興味が薄く、その為独創的な作風に至ることが多かった。つまりどのように描くかではなく何を描くかを重視したのである。
フランスでは17世紀以来、美術アカデミーが美術に関する行政・教育を支配していた。当時のアカデミーでは、古代ローマの美術を手本にして歴史や神話、聖書を描いた『歴史画』を高く評価した。だからそれ以外を描くルソーはまあ評価されない。
だが彼は偉大な画家である。説明に書いてあるようにピカソやゴーキャンなどのちに有名な画家たちにも実力を評価され、現代において彼の評価は高まる一方だ。
ハーモニー美術館を皮切りに美術館を巡る。日本画、西洋画、工芸品、彫刻、様々な芸術作品の完成度に圧倒されたり、美しさにため息が漏れたり、感想を言い合ったりしていたら17時を過ぎていた。ちなみに昼ごはんは移動途中に済ましている。
今いる美術館の展覧会では現代日本画の巨匠たちの美しい絵画がずらっと並べられている。ふと隣を見ると英梨々は横目でこっちをチラチラ見ながら、オレの左手に触れるギリギリまで右手を伸ばしては引っ込める動作を繰り返していた。
「英梨々?」
「……え? あ、えっと……これは! その………ッ」
その事に気づいたオレに気がついた英梨々は言い訳を咄嗟に探したが出なかったかのように言葉を詰まらせる。しかしやがて意を決したように大きく息を吐いた後に言う。
「霞ヶ丘詩羽プロットにヒロインとの美術館デート中盤、いい雰囲気になった二人が絵画の前で手を繋ぐってイベントあるじゃない? その再現を……ね?」
「ヒロインが遠慮がちに手を伸ばしていることに気がついた主人公が手を握るんだったか? 確かそれでルートが確定するんだよな?」
「うんサブルートらしく握るか握らないか、個別ルートに入る為の選択肢はそれだけ」
「つまり大事なシーンだな」
これがヒロインのフラグが立つ唯一の機会という訳だ。つまり描写もしっかりしなければならない場面だ。
オレは前を向いた。それで察した英梨々は同じく前を向き、先程と同じく手を伸ばし、それをオレは手に取る。
「あ……」
右手と左手をただ添えただけだというのに英梨々の身体がビクンと跳ねる。やがて手を握ると女の子は掌さえ柔かいのだなと理解した。
「こっからどうするんだっけ?」
「えーと、確かそのまましばらく館内を歩いて、外に出る時に主人公が離そうとするんだけど今度はヒロインの方から手を繋ぎ返す……かな」
「あくまでゲーム作りのためにだよな?」
「うんあくまでゲームの為の演技だから……ね」
旅館に戻るまで手は繋いだまま過ごした。
こういうの小さい時以来だと少し懐かしい気持ちになるのだった。
ーーーーーー
英梨々side
なにやっちゃってるのよあたしは!? 恥ずかしいッ! 恥ずかしいッ! 恥ずかしい!!
あたしは旅館の部屋に戻ってからなんて恥ずかしい事をしたのだと今更ながら後悔して転げ回る。
個別ルートに入るシーンをやりたいなんてあなたが好きなんですよアピールしてるようなもんじゃない………!
幸いというか逆に不幸いというかあいつはその事に全然気付いていないみたいだけどね!
「醜態を晒すのはやめて静かにしなさい。読書の邪魔よ」
「うん……ごめん霞ヶ丘詩羽………霞ヶ丘詩羽!?」
あたしは思わず飛び上がった。
「なんであんたがここにいんのよッ!」
「なんでもなにもあなたが私がいる事に気付かずに勝手に悶え転がっただけでしょう」
よ、よりによってこいつに醜態を晒してしまうなんて澤村英梨々一生の不覚よ。これから一生このことを擦られ続けるんだわ………
……………固くて温かったなあいつの手。
あたしは右手の掌を見つめる。
今日のことを思い出して再び悶えそうになるのを必死に堪えて過ごすのだった。