高校の学舎よりも巨大な図書館にある個人自習室での出来事だったよ。
私はそこを借りて、まあ小説もたまには読むかとオフィスチェアでぐうたらとしていた。
本のタイトルもハッキリと覚えていて、スタンダールの『赤と黒』である。
ノックの音がした。
私はノックに対する許可を軽く出して、まあなんとも礼儀正しいものだとさえ思った。
拒否をすれば、多分ドアの前で一言謝罪をして、そのまま家に帰っていただろうと確信できるよ。
彼はそういう人間なんだ。
ドアの前に立っていた相手は、まあわかるだろう。
藤堂君だったよ。
「そろそろ来ると思っていました」
「……お前はそうやって、なんでも先が読めるんだろうな」
藤堂君は酷く悲しそうに呟いた。
雨に打たれた犬のように、くうん、と鳴いていそうな声である。
「俺より桐原は賢くて、頭がよろしくて、俺みたいな不出来とは違う」
ドアが半分開いている。
藤堂君は個人自習室に入ってこようとしなかった。
招待されない限り入ってこようとしないんだろう。
吸血鬼か何かか?
「藤堂君。貴方は多分誰にも聞かれたくもない事を話そうとしている。だから入ってきなさい」
「個人自習室の二人使用はルール違反だ。ここで話す」
「……誰も見てませんよ?」
そう優しく、囁くように呟いてやる。
馬鹿正直で愚鈍な男を嗜めるように、サービスで多少の色気も含んでやった。
藤堂君は部屋に招かれて、後ろを振り返ることもなくドアを閉じた。
「御用件は?」
優しく尋ねてやる。
もちろん、私に尋ねたいことなどわかっている。
「どうして俺はお前に勝てないんだよ」
返事を求めない愚痴のようでいて、どこか答えを欲しているような。
それには怒気と憎悪が明らかに籠もっていた。
あれは藤堂破蜂という人間が物心を得てからは、初めての殺意を赤子のように吐き出した瞬間だったのかもしれない。
「一度言いました。桐原銭子の知能が生まれつき上で、藤堂破蜂の知能が生まれつき下だからです」
丁寧に現実を突き付けてやる。
藤堂君は両手を重ねて、指を組み、鳥の腿肉をへし折ったように骨を鳴らした。
彼がその気になれば、私など三秒もしないうちに殺されるだろう。
一つの部屋で二人きりでも、恐怖はしない。
彼は私を殺す度胸など欠片もないし、それこそ人に本意で暴力を振るったことは人生に一度もないだろう。
藤堂破蜂は優しい男だった。
その事実を、どうにも私は一年生の一学期・二学期での団体行動を通すことで理解していた。
罵りの声を上げ、偏見で溢れ、根拠もなしに人を見下し、侮辱を口にする。
ただ、実際に差別を強要すれば言い訳をして拒否し、そのような事をするまでもないと口を濁すだろう。
その差別を止めようと訴えなどはしないが。
彼は精神的に凡愚だった。
まるで谷川俊太郎の詩のように、隠された悪を注意深く拒む人生を送ってきた。
だが、別に他人の悪を裁こうという考えも持っていないだろう。
どうすれば、このように善良で悪意に満ちた、イビツな人間が育つのだろう。
私は不思議に思っている。
パパとママの愛情が足らなかったのか?
それならそれで、ちゃんと良心などない悪に育つだろうに。
「その手で首を絞めますか?」
私は藤堂破蜂という変人に興味を抱いた。
ゆえに挑発する。
オフィスチェアから腰を上げ、ゆっくりと歩いていき、藤堂君の眼前に立つ。
大きな体をしている。
だが、私から見て藤堂君は成熟などしていない子供に見えた。
藤堂君の太い手を掴み、指などを握ってやる。
そういえば、父親などいない家庭だから、男の手など何度人生で握ったことがあるだろうか。
このようにごつごつとしているものか。
血管がボコボコと浮き出ている。
私はそれを掴んで、組んだ指を紐解いて、その手を両方の手で握ってあげる。
「話をしましょうか。何故、藤堂君は私に負けたら駄目だと思っているんです? よく見なさい。私は母子家庭の貧困出である女の子ですよ。容姿はとても良いが、胸もなければ背も低い。幼女趣味の男には好かれるかもしれませんがね。まあ、武器など美少女であることと、藤堂君よりも頭が良い事だけでしょうね」
藤堂君の手を右手で握ったまま、左手で優しく撫でてやる。
「藤堂君は体格も良い。容姿も良い。お金だって持っている。頭だって別に悪くはないでしょう。桐原銭子の頭の回転がちょっとばかし、藤堂君よりも良いことの何が問題なんですか。私の存在が貴方の何を脅かすんです」
情報を入手しようと考える。
藤堂君を構成する願望が何かを。
彼のコンプレックスは?
お前のネガティブは何だ。
そう問いかけてやる。
「……父が、よく桐原の事を話す」
ポツリと呟く。
一瞬だけ情報を整理しようとして思考を止め、すぐに思い至る。
我が高校の理事の顔だった。
善人(グッドマン)であったと記憶している。
別に彼の人格が善良という意味ではなく、私にとって価値があるという意味で。
藤堂源十郎という名前で、私に対して返済不要の特別奨学金を与えるべきだと、面接にて推薦してくれた人物であった。
強烈な能力至上主義者の傾向が見られる。
だが、それがどうしたというのか。
有能な私にとってのそれは得でしかないので、やはり彼は善人(グッドマン)だった。
「お前の事ばかり褒めるんだ。桐原の事ばかりを誉めるんだ。彼女は凄い。貧困の出自でありながら、母親の愛を受けて、優れた知能を持つ子供として生まれて。教育を積みに積んで、己の苦境をひっくり返した。未成人でありながらも、強烈な自我が成立していると。ちゃんと目標を以て子供の頃から生きてきたのだと」
それは事実である。
あのグッドマンならそう私を褒め称えるだろう。
「俺とは違う。桐原は本当に褒められるべき存在だとは理解している。でも俺は君を憎んでいる」
藤堂君が悲し気に呟いた。
嫉妬深い幼子のように、そんなことで私を憎む理由にはならない。
「藤堂君のことだって、御父様は誉めてくださるでしょう。中学生まではずっと学年一位だったんでしょう? 高校でちょっとくらい私と比較されたからって」
「俺は人生で父に一度も褒められたことがない」
何と?
一瞬、理解不可能になり思考が止まる。
いや、私の聴力は異常をきたしておらず、はっきりとは聞こえている。
問い返すとしよう。
「一度も?」
「一度も」
何故。
そう呟きそうになるが、藤堂君がその答えを返してくれるわけもなかった。
彼が一番それを不思議に思っているだろう。
疑問を封じ込め、少し次の動作に困る。
「努力したんだ。ずっと努力してきたんだ。立派な人物に成れと。悪を注意深く拒むように生きなさいと。どうしても悪をやるならば、それこそ徹底してやるようにしなさいと。そう言われて、色んな塾に行って、家庭教師をつけられて、ずっと勉学に励んできた。怠惰はせず、ちゃんと一番を取り続けてきた。でも、父は俺を誉めてくれないんだ。認めてくれないんだ」
なんだそれ。
理由を考える。
ここで単純に感情移入して激怒を口にしたり、それこそ子供じみた義侠心に駆られようならば桐原銭子の名が廃る。
だからその意味不明な躾の理由を考えようと――するが。
駄目だな、理由がわからない。
藤堂君が本当の愚鈍であればともかく、決してそうではない。
むしろ有能であることに変わりはないが、ちゃんと承認欲求を満たさないことで、酷くイビツな人間が出来上がっている。
親に認められない子供の自己肯定が低くなることなど、藤堂君の父親も十二分に理解しているだろう。
その程度の学識が無い人物に彼は見えないし、実際にそうではないだろう。
だが。
いや。
まあ、私が気にすることではないだろうな。
別に私には関係ないと冷たいことを言いたいわけではない。
藤堂君は現実を認めつつあるのだ。
「俺は父に褒められたかった。でも、もう多分駄目だろうと思っている。桐原の事ばかりを、俺の前で口にするようになってしまった。父は俺に何の興味もないのだと理解した」
彼は一つの諦めを理解した。
「俺はもう、自分で好きなように生きるべきなんだと思っている。父に褒められる必要など本当は何一つないんだと、理解してもいる」
一人の男の萌芽が眼前で起きかけていると、私は思えた。
いつか彼は父親の支配から巣立つように思える。
今はともかく、少なくとも高校を卒業するころには間違いなく。
ならば、これ以上何かを言う必要もないだろう。
「だが、どうしても、何か。父が俺ではなく、桐原の事を認めたことにどうしようもない怒りを抱いていた。憎んでしまったんだ。本当に桐原には申し訳ない、身勝手な感情を抱いたと思っている」
藤堂君は理性的であり、私に何故憎しみを抱いているのか。
どうして、私の個人自習室に訪れて、どうしようもない感情を吐き出そうとしたのか。
それを完全に理解して、受け止めている。
どこにケチをつける必要があるというのだ。
「謝罪する。桐原。急に押しかけて、申し訳なかった」
藤堂君の、体が崩れるように両ひざをついた。
謝罪を請う姿のように、私に手を握られたままで頭を垂れている。
謝罪はいいが。
「……」
さて、どうしようかと私は悩んだ。
藤堂君がどんな憎しみを私に抱いていたのかは理解しているが、別に個人実習室の部屋を蹴破られて首を絞められたわけではない。
彼はそんなことできないのだ。
ドアをノックして扉を開く許可を求めたから、私は許可を出して。
部屋に入ってさえ来ないから、私は彼を招いて。
今は、こうして藤堂君の手を優しく握ってやっているにすぎない。
私がやってあげたのは、その程度の行為にすぎないのだ。
だから、彼が何か贖罪を求めるように念入りに謝る必要もないと思えた。
別にいいですよ、そんなの。
「うん」
だからまあ、逆に埋め合わせと言うのは変なのだが。
少しだけ、藤堂君に優しくしてやってもいいと思えた。
私は少し体を近づけて、ちょうど胸の位置にいる彼の頭を抱き寄せた。
「藤堂君、謝罪するというのであれば受け入れましょう。そして、これは君へのアドバイスなのですが……貴方、少しばかり自分は、自分は、と自分の事ばかりを考えて、他人の事を蔑んで、冷たいところがありますよ」
まな板のような私の胸に頭を抱きかかえられても、別に嬉しくはないだろうが。
まあ、女性的な肉感ぐらいは多少あるだろう。
何かの慰めになればよいが。
そのような事を考えながら、耳元で優しく囁いてやる。
「人様に迷惑をかけないようにしなさい。困っている人がいたら助けてあげるようにしなさい。社会は貴方一人の為にあるのではなく、貴方も参加者の一人として社会は構成されているのだから」
ずっと幼き頃から、母に言われ続けてきたことだ。
私個人としては何もかも戯言であると考えている。
ギブアンドテイクの概念が通じない人間のクズで社会は溢れかえっていて、私のこの手の中にある藤堂君のように、口だけで何一つ悪事を働く度胸もない男なんて善良もいいところであった。
彼はどこまでも純粋にさえ思えた。
藤堂君は私の胸に顔を抱かれていて、少しばかり驚いていたが。
少し目を閉じて、何もかも委ねてしまったかのように安らいだ顔をしていた。
どれくらい、そうしていただろうか。
「……迷惑をかけた」
本当に不思議な事だけれども。
私は藤堂君の顔が私の胸から離れたのを、少し名残惜しく思ったのだ。
ともあれ、私の藤堂君に対するカウンセリングは終了だった。
私は藤堂君に、あの哀れな変人に情けをくれてやった。
困っている人がいたら助けてあげるようにしなさいなどと「御綺麗ごと」をほざく母親も、今のシーンなどを見れば満足してくれるだろう。
それぐらいが私の慰めだった。
藤堂君は立ち上がり、コートの泥を落としたようにして部屋を退室した。
最後はこちらに尻を向けず、まるで面接会場か何かのように私の顔を少し見つめて、ドアを閉じる。
ミッション・コンプリート。
少し時間は経ったが、まだ個人自習室の使用許可時間は残っている。
『赤と黒』を読む時間は残っていた。
だから、私はその続きを試みたんだが。
どうにも、本を読んでいたのだが、何故だかさっぱりと内容を覚えていないんだ。
私のとても賢くて、藤堂君よりもよろしい頭に、何一つ内容が入ってこようとしない。
面白い小説だから、いつか読もうと思っているが、まだ続きを読めないでいる。
あの時の事を思い出して、ぴたりと手を止めてしまうからだ。
そうだ。
そうだな。
あの時なんだろうなあという自覚がある。
そうだよ、あの時に私を構成するシャフトがねじくれたんだよ。
桐原銭子という世界への欲望に満ちた人間を回転させるための軸がぐにゃりと歪んでしまった。
それは今となっては理解しているんだが。
その時は、まだ何も理解していなかったんだよ。
私が自分の恋愛に気づいたのは、家に帰った後の夜だったんだ。