第一話: 私は行く、だがどこへ(1)
ロックバンド"我狼"のボーカルDaikiこと佐久間大毅は、今日も今日とて仕事を終えて帰宅の途にあった。幸運なことに残業もほとんどない安定した仕事にありつきはしたものの、その安定がハングリーさを失わせているという自覚のもと日々の暮らしを送っている。学生時代の音楽仲間の大半は社会人になって音楽を辞めてしまったが、一方今でも続けている奴はみなフリーターをやりながら音楽に全力を傾けており、自分の"中途半端"さには事あるごとに頭を悩ませていた。
我狼にとって目下一番の問題は、作曲であった。学生時代コピーバンドサークルで意気投合したメンバーはみな技術的には素晴らしいものだったのだが、一方で自ら曲を書くということにはとにかく不慣れだったのだ。大毅自身、最近作曲の勉強のためということで多少触るようにはなったものの楽器自体ほとんど弾けないレベルで、作詞はなんとかやっているが曲が書けるような状況ではない。結局、日頃のライブでは手慰みにやるメジャーな曲のカバーこそ評価されるが、本当に向き合うべき自分たちの曲の方ではほとんど客からの評価を得られていないのが現実である。
そんな中、地元駅に戻って改札を出たところに大きな人だかりができていた。地元の音楽教室だったかが設置したストリートピアノは普段――特に平日夜という帰宅客の多いタイミングでは――使われているのを見た覚えがなく、物珍しさからふと足を止めてしまった。
ただ、よくよく聴いてみるとどことなく雰囲気こそどこかで聴いたようなものだが、曲自体は最近の流行曲でもなければピアノの有名曲でもなさそうな、全く知らないものだった。一応作曲の勉強ということで、色々なジャンルの有名曲を聴いてきている自負はあるものの、具体的に「これだ」というものが思いつかない。ちょっと気になって人だかりの中を見てみると、どうも日本人ではなさそうに見える。やたらくたびれた服や血色の悪さを見る限り観光客にも見えないし、もちろん音楽で生計を立てている人にも見えない。おかしな髪型も相まって演奏さえ聴かなければ不審者にさえ見えかねないようなレベルなのだが、その演奏が卓絶しているが故に多くの人が遠巻きに見ている状況である。
奏でられる旋律はとりとめもなく、刻一刻と変化する。底抜けに明るい曲だったかと思うと次の瞬間には悲哀に満ちたものになり、ひとつの曲とは到底思えない。断片的に聞き覚えのあるフレーズが聞こえたかと思うと、次の瞬間には全く知らない曲へと変化していくのだ。今日は早く帰って曲作りの続きをやろうと思っていたのだが、不思議とこの謎のピアニストの演奏に聴き入ってしまう。
そうしていると、ふと演奏が止まった。
「あんたスゲえな、普段どこで弾いてんだ?」
―やってしまった。つい体が動いて声をかけてしまった。
目覚めた時、そこは知らない天井であった。
天井どころかあたり一面どこを見ても、自分の最後の記憶にあるウィーンの自室の光景とは程遠い。恐らく往来のどこかなのだろうが、床も壁も天井も未知のものであり、まるで見たこともない服装の、まるで知らない風貌の人間ばかりが歩き回っている。道行く人々が喋る言葉もまるで知らぬ音律だが、不思議と意味が理解できてしまうのが不気味であった。
周囲を見回すと、ふと近くに見知ったものが目に入った。
正確に言えば「見知ったものとよく似た何か」ではあるが、それは今まで30年あまりの人生を共にしてきたピアノのように見える。近寄って見ると、横に立っている看板には――これまた未知の象形文字のように見えるが何故か意味がわかる謎の言語で――「駅ピアノ ご自由にどうぞ」と書かれていた。「駅ピアノ」という語の意味はわからないが、少なくともピアノであることは確かなようだ。
詳しく見てみると、まず鍵盤の数が多く見える。自分の知るピアノの音域は5オクターブだったはずだが、どうやら2オクターブほど多い。以前ピアノ工房で「鍵盤数を増やす試みをしている」という話を聞いた記憶はあるが、それにしてもこんなに増やすなどという話は聞いた覚えがない。というより、この鍵盤の両端部の音域はまともに聴こえるものだろうか?という疑問が浮かぶ。足元には踏んで使うと思しきペダルが3つもついている。
試しに鍵盤に触れてみると、少し鍵盤が重く感じる。一方、その重さのおかげなのか音がよく響く。ペダルはそれぞれ別の働きがあるようで、どうやらハンドストップの代わりになっているらしい。言われてみればいちいち手で操作するよりも使っていない足で操作した方が弾きながらコントロールできるわけで、その合理性には得心がいった。疑問だった拡張された音域の鍵盤についても、高低音どちらもしっかりと響いてくれる。
―これは面白い。
思い浮かんでやれなかった表現が色々できるではないか。
鍵盤の重さに多少の違和感は覚えるが、多少弾いていれば十分に慣れることができそうだ。
とりあえず、記憶に残っている自分の曲を手慰みに何曲か弾いてみる。
―うん、これなら大丈夫だ。
慣れてしまえば、特にサスティンの長さや音色の自由度から色々な表現ができるこの未知の「ピアノ」は、確かに自分の知るピアノの進化の先にあるもののように感じられた。自分が今どこにいて、なぜこんな楽器に触れることができているのかはまるで分からないが、とにかくこの新しい感覚と向き合うことにインスピレーションが刺激されて仕方がない。指が赴くままに弾くうちに人だかりができるが、それすら気にならない。
最近は金策のためとはいえ制作に追われ続け気ままに音楽を奏でる余裕が減っていたこともあり、ストレスから解放されて弾けるのが楽しくて仕方ない。先程読んだ立て看板には一人あたりの時間制限が書いてあったような記憶も僅かにあったものの、我を忘れて弾き続けるのであった。
しばらく弾き倒しているうちに、ふと空腹に気がついた。確かに弾き始めてからもう数時間になるはずで、飲まず食わずでやっているのだから当たり前といえば当たり前のことである。一体これからどうすれば良いのかまったく分からないが、回りを見る限り自分の暮らしていたウィーンよりよほど生きやすい環境のようだし、人を頼ればなんとかなるだろう。そう考えて一旦手を止めたところで若い男が声をかけてきた。髪色だけは自分と近い明るい色だが顔立ち自体は周囲の人間同様見慣れない雰囲気であり、自分のいる場所がなおさら謎に包まれることになった。
「あんたスゲえな、普段どこで弾いてんだ?」
そう問われたが、自分の中に答える術はない。もちろん自分自身はウィーンで日々曲を書きピアノを弾いて暮らしていたはずなのだが、見たことのない文字や景色、そしてこの未知のピアノを見る限り今ここの世界に自分の知る「ウィーン」があるとは思えない。どう答えたところで、恐らく彼の期待する答えにはならなそうだ。そうであるなら、むしろここで包み隠さず答えてしまった方が、必要な助けを得られるのではないかと思われた。
「ありがとう。ところで……ここは――どこだ?」
これが後に日本の音楽界に大きな爪痕を残すことになる二人の出会いであった。
―しまった、やらかした。
「ここはどこだ」などという返答を聞いた時、大毅は反射的にそう思った。どこをどう聞いても厄介事の雰囲気でしかない。所謂記憶喪失というやつだろうか。
何よりも具合の悪いことに、遠巻きに見ていた人垣から離れて声をかけてしまったことで、周囲の人の中には「ああこいつが面倒を見てくれるらしい」という暗黙の了解ができていそうなのだ。自分自身、決して世のため人のためなんて生き方はしていないものの、ここで「ああそうかがんばれよ」と見捨てていけるほど薄情な人間でもない。
ため息一つ、仕方なしにこの謎のピアニストの助けをする決心をした。明日が休日でよかった。
「あー、アンタ記憶がねえのか」
「自分がどこで何をしていたかは覚えているが、ここがどこだかはわからないし、なぜここにいるのかもわからない」
「なるほど、こいつぁ厄介だ」
やはり面倒事である。
このまま駅前の交番につれていくのが一番早そうではあるのだが、一方でこの才能に声をかけてしまった以上何かに利用できないだろうかという邪な考えも頭によぎる。仮に自分の人生が何かしらの物語の一部だったとするなら、ここで彼を交番に連れて行ってしまったらストーリーは何一つ進まないまま幕を閉じてしまうことだろう。
「アンタいったいどこから来たんだ?」
「私の記憶が正しければウィーンにいたはずなのだが、目が覚めたらここにいたのだ。ここはどこなのだ?」
「ウィーン……オーストリアの、か?」
「そう表現することはあまりないな、ドイツの南の方にある大きな街だよ」
学生時代のかすかな記憶を頼りにすればあのあたりがドイツに属していた時代もあった気がするが、そうなるとこの人物は距離だけでなく時間も飛び越えてきていることになる。そろそろ自分の理解を超えてきているが、足を突っ込んでしまった以上疑問を解消するまでは付き合わざるを得ないだろう。
「あー……気づいてるかもしれねェが、ここはアンタのいた国からだいぶ遠い日本って国だ。話を聴く限り……時代も違うかもしれねェな」
「日本か……聞いたことはあるがまったく知らないな。……時代もこの楽器を見る限り、そんな気はしているよ」
そう言いながらピアノに改めて触れる。
「だとすると…金も宿もねえのか」
「まあ、そうなるな」
大毅は逡巡する。幸い「お固い」仕事をしているおかげで多少の余裕はあり、諸々の――身元不明の人間の取り扱いという――問題を抜きにすればしばらく面倒を見る余裕くらいあるのは事実である。あとは、それだけのコストをかける価値がこいつにあるかどうか、だ。
「アンタ、曲は書けるのか?」
「むしろそっちが本職だ」
頼もしい答えが間髪入れずに返ってくる。流石に人間を「ダメなら捨てればいい」とはいえないだろうが、まあもし無理ならそうなったときに――多少話を盛るなりなんなりは必要かもしれないが――然るべき保護を求めてもよいだろう。
「アンタさえよければ、だが……」
意を決した大毅は話を切り出す。
「曲を書かねえか?最低限の生活くらいは面倒をみてやれなくもねえんだ」
「……失礼を承知で言うが、見たところ別に貴族とかそういう身分には見えないのだが…。この国ではそういう者でも音楽を作ったりするのか?」
「あー…、まあそこら辺も含めて教えてやるよ」
とにかくこの時代の日本について不案内であることを再確認した大毅は、目の前にある物事の重さを再確認しつつそう言う。
幸運にも閉店前の量販店に滑り込み、最低限の日用品を調達して――寝具などの大物については翌日の配送を手配して――帰路についたのは一時間ほど後のことだった。どうやら百年単位の昔から出てきたらしいこの男にとって見るものすべてが初めてのものであり、色々説明しながら買い物をしていたところ余分な時間がかかってしまった。
「色々買わせてしまって申し訳ないな」
「まあ気にすんな。アンタが曲書けるってんなら、その腕で返してもらえりゃいい」
インターネットの発達で在野の――半分趣味でやっているような――作曲家に依頼すること自体は比較的簡単になり、結果として恐らくかつての時代より遥かに安い単価で曲を書いてもらえるようにはなっているが、それでもこうした最低限の日用品を買う金額を考えたら数曲で元が取れる、というのが現実である。
「なるほど、未だに曲を書くということは仕事になる世の中なのだな」
「まあ、競争が激しいからそれで食っていくのは難しいけどな」
「やはり演奏家と兼業なのか?」
「そっちはもっと食えねえよ。大半は他の『普通の仕事』しながらやってんだ」
「なるほど、あなたもその一人か」
「いーや、そもそも俺は曲書くのが苦手なんで、もっぱら歌専門だよ」
「ほう……そういうのもあるのか」
そんな話をしながら、二人は大毅の家にたどり着く。
「ようこそ、ここが当面のアンタの暮らす場所だ」
「……世話になる」
「俺は佐久間大毅。ロックバンド……まあ今の時代でそれなりに流行ってる、数人でやる音楽の集団で歌を歌ってる。改めて、よろしくな」
「私は……どう名乗ったものかな。ヨーロッパの国ならそれぞれの言葉に合わせられるんだが、この地向けの名前は持ち合わせていないんだ」
「アンタの地元でどうだかは知らねえけど、今の日本じゃ外国人も別にこっちに合わせて名乗ったりはしねえよ。普段使ってる名前で名乗ってくれりゃいい」
「そうか、それなら…"アマデウス"、そう呼んでくれ」
「アマデウス……?どこかで聞いた名前だな」
「ほう…?」
「すまん、フルネームを教えてくれっか」
「洗礼名なら……"ヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト”、あまりこの名を使うことはないが」
「モザルト…?ひょっとして、アンタあのモーツァルトか?」
「『あの』というのが何を示しているのかは知らないが、"ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト"は私だ。"レオポルト・モーツァルト"のことを示しているなら、それは私の父だ」
道理で先程のストリートピアノでも聞き覚えのある感覚がしたものだ。本当ならとんでもない掘り出し物を引き当てたことになる。勿論、本当なら、だが。
「あー…うん、アンタ、今でも超有名人だぜ。本物ならな」
「ほう……」
「好きに名乗れって言った手前なんだけど、騒ぎになってもアレだし、もうちょっとボカした名前の方がいいかもな……」
「それなら、何度か使ったことのある名義のい"ゴッドリーブ"と名乗ろうか」
「……そりゃ聞いたことねえな、ちょうど良さそうだ。よろしく、"ゴッドリーブ"君」