この凄惨な廃工場に突如現れたスーツ姿の恩人に、さしもの千束も驚いた顔をして腰を浮かせた。
吉松は一人で拍手をしながら、薄ら笑いを浮かべて「素晴らしい」と称賛した。千束が困惑気味に眉をゆがめた。
「どういうこと? どうしてヨシさんがここにいるの?」
「それはもちろん、私が彼女に依頼したからだ」
何でもないようにそう言うと、吉松は報酬の入ったバッグを私の足元に置いた。
「なかなか面白い芝居だった。ただ、最後のはいけない。今日のことは忘れずに、胸に刻んでもらわないと」
私は無言で頭を下げると、バッグを受け取って一歩下がった。ひとまず依頼は達成されたが、同じルートに乗ってしまった。
千束が悲しげな瞳で私を見つめる。私は吉松の後ろで千束の顔を見つめ返した。ここからは千束の感情の揺れ一つ見逃してはいけない。どうして千束は出て行ってしまったのか、その一点は確証がない。
「ヨシさんが、私に人を殺させたかったってことなの?」
千束が疑うような声で言った。まだ私の暴走を吉松がかばっているようにさえ感じているようだが、そんな希望を打ち砕くように吉松はそうだと頷いた。
「君がいつまでも遊んでいるからね。少し荒療治をさせてもらった」
「遊ぶって?」
「帰ってミカに聞くといい。あの男はすべてを知っている」
吉松は軽やかに笑ってから、厳しい眼差しを向けた。
「千束。君はここで20人殺した。それを忘れて、戻ることは許されない」
それだけ言って、吉松は千束に背中を向けた。千束がまだ聞きたいことがあると言うように手を伸ばしたが、悲しそうに笑って手を下ろした。
20体の死体の転がるフロアに、私と千束だけが残される。千束は項垂れたまま、何も言わずに立ち尽くしていた。
これからどうしたらいいだろう。すでに私の知らない、新しい未来は始まっている。
ただ、今は何を言ったところでノイズにしかならないだろう。恐らく今、千束の混乱の中に私は登場していない。
恩人だと思っていた吉松が千束に人を殺させ、その理由を先生と慕うミカが知っている。アラン機関が千束を助けた理由と、その代償に与えられた使命。リコリスとしての役割。
私はただDAの任務をこなし、吉松の依頼を遂行しただけだ。聞いたところで真相は何も知らないと思っているだろう。事実、私も「今回は」誰からもそれを聞いていない。
1時間くらいそうしていただろうか。千束は顔を上げるとDAと繋いで、任務が終了したと簡単に報告した。それからミズキを呼び出す。私は血塗れだし、千束もだいぶ返り血を浴びている。外を歩いては帰れない。
入口まで歩く千束の後ろを、大金を持ったままついて行く。このまま二度と、千束に話しかけられることはないのではないかと思ったが、入口でミズキを待ちながら、千束がポツリと呟いた。
「どう思う?」
感情の欠落した声。そう聞かれたのは意外だったが、聞かれた以上何か答えなくてはなるまい。
本音を言えば、千束が人を殺せるようになった方が有り難い。その方が多くの人が救われるという、吉松が用意した表向きの理由は十分説得力があった。
リコリスとしての使命も全うできるし、DAとしてもその方が望ましい。それに、千束が人を殺すなら、千束はアラン機関の援助を受けることができる。それは大いに役立つだろう。
ただ、千束はきっとそんな答えは望んでいない。これ以上嘘は重ねたくないが、本音を語って幻滅されたくもない。今さら味方面したところで、失われた信頼は取り戻せないだろうが、私以外には訪れる未来の防波堤になれない。
「千束は何も変わっていませんし、今でも尊敬しています」
はっきりそう告げると、千束は私の顔を見ることなく、「そう」と興味がなさそうに呟いた。
果たして及第点の返答だったのか、それとも、何を答えても同じだったのか。
やがてミズキが車に乗って現れるまで、千束は何も言わなかった。私も口を開かず、ただじっと、千束の横顔を見つめ続けていた。