いつものセーフハウスに戻ると、千束は荷物を放り投げてソファの上に寝転がった。
時計を見るとまだ夜の8時で、いつもなら大して眠たくもない時間だ。ただ、さすがに今日は疲れている。
ご飯も食べてきたし、もうお風呂に入って寝るか、それとも映画でも見るかと聞くと、千束は「映画って気分じゃないな」と呟くように答えた。
明るく振る舞うことに疲れたのか、随分と素っ気ない。そもそも今日の一件で、私は千束に嫌われてしまっている。私の独断ではなく、吉松に依頼されてやったことを知って多少は持ち直したが、それでも昨日までのような信頼関係はもうないだろう。
お風呂の準備をして戻ってくると、千束は先程と同じ体勢で、ぼんやりと壁を見つめていた。
廃工場ではなるべく話しかけないようにしたが、もうここまで来たら嫌われても構わない。千束に余計なことを考えさせない方が大事だ。
「先日、ガレットという食べ物を知りました。千束は知っていますか?」
「また、すごくどうでもいい話を始めたな」
千束が心底興味なさそうに呟いた。正直に言うと私もまったく興味がないが、仕事やリコリコの仲間の話はしない方がいいだろう。
それとも、この先どうするのか、真剣に向かい合って話した方がいいのだろうか。
ここで一旦セーブしてどちらも試したいが、人生はいつだって一度きりだ。いや、何の因果か、今は同じ時間を繰り返しているが、三度目があるかはわからない。
ガレットについての空虚な話をしていたらお風呂が沸いた。お先にどうぞと言われたので、一緒に入る提案をすると、千束は驚いたように体を起こした。
「お前は何を言っている?」
「一人になるのが怖くて」
「どう考えてもここには誰も来んし、来ても私がいるから大丈夫だ」
「お風呂にワープして来たらどうするんです?」
「たきな、落ち着け。な?」
千束が慌てた様子でそう言って手を広げた。
もはや信用できない私となど、一緒にお風呂に入りたくないのだろう。その気持ちは理解できる。
ひとまず、いきなり家を飛び出して行きそうな雰囲気ではなかったので、全意識を部屋の中に集中させながら手早くお風呂を済ませた。
幸いにも千束はまだソファに座っていて、私が戻ると交代でお風呂に入った。
寝る支度を済ませて、お風呂上がりの千束に改めてどうするか尋ねると、千束は「寝るか」と短く呟いた。
「私、ここでいいから、ベッドはたきなが使って」
そう言って、千束がソファの表面を撫でる。いつもと比べると全然目が合わない。やはり居心地が悪いのだろう。前に泊まりに来た時の反応との違いに悲しくなるが、今日は千束に10年も貫いてきた信念に背くことをさせてしまったのだ。むしろこうして一緒にいて、口をきいてもらえるだけでも幸いである。
「一緒に寝ましょう」
「だから、大丈夫だって」
呆れたように言う千束に、私は静かに首を振った。
「今日の話がしたいです」
真っ直ぐ見つめてそう言うと、千束は挑発的な目で私を見上げてから、勝ち誇ったような、どこか切ないような、表現の難しい顔をした。
「よかろう」
恐らく千束は、私が今日ここに来た理由はそれなのだと考えた。それはまったくの誤解で、私は夜一緒にいられれば何でもよかったのだが、いい理由が思い浮かばなかった。いずれにせよ今の流れからすると、千束も少なからず私と話がしたかったのだろう。
薄明かりを点けたまま一つのベッドに入る。万が一何者かの侵入を許した時に、明かりがないのは危険だからとのことだが、これから話す内容を考えると、顔が見えるのはいささか緊張する。
「それで? たきなはどうしてあの依頼を受けた?」
千束が口火を切った。誘った私より先に話し始めたのは、気になっていたということだろう。
「金額が大きかったのと、私にとって悪人を殺すことは、大したことではないからです。千束にとってそこまで大事なことだとは思いませんでした。だから、ごめんなさい」
「筋は通ってる。でも、本心からそう言ってるのか、ちょっと信用できない」
「千束はもう、私のこと、嫌いですよね?」
「それも含めて、私も迷ってる。少なくとも嫌いだったら、今こんなふうに喋ってない」
そう言って、千束は重苦しいため息をついた。
沈黙が落ちたので、何となく横向きになって手を伸ばすと柔らかな胸に触れた。千束のは、私のより二回りくらい大きい。
「何故乳を触る?」
千束が平坦な声で言った。
「たまたま手を伸ばした先に胸があっただけです。勘違いしないでください」
「変態の理屈だ」
「次は千束の番です。考えてることを全部話してください」
意味もなく胸を撫でながらそう促すと、千束はしばらく押し黙ってから、諦めたように息を吐いた。
「先生に聞かなくても、大体のことはわかった。私が強いから、人を殺させるためにこの心臓で生かされた。でも、私が人を殺さないから、ヨシさんは業を煮やした。私は私なりに真剣に考えてたけど、ヨシさんにはお遊びに見えてたんだろうね」
「物足りなかったんでしょうね」
無難な相槌を打つ。千束も「無難な相槌だな」と笑った。
「お前、いつからそんなふうに言葉を選ぶようになった?」
「千束が怖いからです。今日、『お前に何の利益がある?』って言われた時、失禁するところでした」
「あれね。返答次第では、お前が21人目になってた可能性はある」
そう言って千束は楽しそうに笑った。冗談のようだが、まったく笑えなかった。この人の本当の凄みを知ってしまった今、私ももう、昨日までのような軽口は叩けないかもしれない。
千束は危険過ぎる自分の才能に、不殺の枷を付けていた。凶暴なライオンを檻から出してみたい吉松の好奇心もわからないでもない。
「とにかく、たきなに悪意がなかったのはわかった」
物事を一つシンプルにするように、千束がこの問題から私を切り離そうとした。私は千束の横顔を見つめながら、はっきりと告げた。
「確かに依頼をしたのは吉松ですが、受けたのは私の意思です。私があなたに人を殺させました」
「その主張は、私に嫌われたいのか?」
「無関係に扱われるよりはましです」
この問題に関わることは、千束の人生観そのものに踏み込むことである。千束に直接人を殺させたのは私だ。たとえそれで恨まれることになっても、なかったことにされるよりはずっといい。
千束はため息をつきながら、胸の上にあった私の手を取った。それを握りながら独り言のように話し始める。
「私は救世主に憧れてた。だから、人を殺さずに戦い続けてた。でも、そんなのは私の思い込みで、私が思ったような救世主なんてどこにもいなくて、助けてくれた人にまで人殺しを望まれてた。組織の方針や存在理由にまで逆らって私が大事にしてきたものって、一体何だったんだろ」
過去も信念を否定されて、千束は悩んだ。そして結局答えを出せずに、あるいは悲観的な答えを出して、私たちの前からいなくなった。
今度はそうはさせない。
「千束、私はあなたが好きです」
体を起こしてそう伝えると、千束は目をパチクリさせて「突然どうした?」と首を傾げた。
「例えば、生きる意味とか、存在価値とか、そういうことを悩んでるなら、私のために生きませんか?」
「いや、それはちょっと、ごめん」
あっさり断られて、私はベッドの上に崩れ落ちた。
「何でもいいんですよ。私は千束にまた笑って欲しいんです」
いじけながらそう言うと、千束は仕方なさそうに私の体を抱き寄せて、髪に指を滑らせた。
「目下一番の悩みは、これからも『命大事に』の方針を貫くかどうかかな。ヨシさんが言ってた通り、私は今日20人殺した。今さら続けても、綺麗事だなって思う」
「私は100人以上殺しています」
「聞いてないから」
きっぱりそう言われて、私はがっくりと項垂れて千束の肩に顔を埋めた。いい匂いがする。
「たきなが言いたいことはわかるよ? 私が大事にしてきたことは大したことじゃないって言いたいんでしょ?」
「私にとってはそうというだけで、千束の生き方を否定したいわけではありません。綺麗事でも、それがあなたのやりたいことなら、やりたいこと最優先でいいと思います」
「たきなはどうして欲しい?」
軽い口調でそう聞かれて、私は軽率に言いかけた言葉をなんとか飲み込んだ。
きっとここが、未来を変えられる最後の分岐点だ。
『あなたのしたいようにすればいい』
千束の意思を尊重したその言葉を、千束はきっと、突き放されたように受け止める。本当に迷って悩んでいるから、友達として、相棒として私に意見を求めているのだ。
千束にとって私は大した存在ではない。私の意見など、千束の生き方に何の影響も与えない。
ずっとそう思ってきたし、実際に昨日まではそうだったと思う。ただ、今だけはきっとそうではない。
「私は、千束に人を殺して欲しいです」
はっきりと、力強くそう宣言すると、千束はげんなりしたように肩を落とした。
「うっわ。この人、友達に人を殺せって言ってる。ないわー」
「私は今日、あなたに人を殺させました。その罪を、一緒に背負う覚悟があります」
「幻滅した。もう寝るわ」
素っ気なくそう言って、千束は私に背中を向けた。
私はその背中に張り付くと、そっと千束の体を抱きしめた。また偶然胸に手が当たったので揉んでみると、千束が身をよじって声を荒げた。
「だから、乳を触るなっての!」
「大きいんだから仕方ないでしょ。何したって手に当たるんですよ」
「そんなわけあるか」
千束がいつもの調子で非難する。そんな千束の髪に顔を埋めて、私は耳元で囁いた。
「明日からガンガン人を殺して、病んだら私に愚痴ってください。恨んでもいいですよ?」
私の言葉に、千束は何も答えなかった。満足したのか、文字通り呆れたのか、単に疲れただけなのかはわからない。
もうこれ以上話すことはないと言うように、千束は眠るように静かに息をした。
何を考えているのかわからないが、少なくとも今夜は逃げ出すことはなさそうだ。
それでも、念のため今夜はずっとこうして抱きしめていよう。私もすこぶる眠たいが、これもまた相棒としての責務だろう。