雪みてぇに 白い【文アル/中原中也×女司書】 作:yuki_leno
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「お前、俺の酒どこに隠しやがったぁ~!」
「……ひゃあ……っ?」
――元来、早朝の館内は厳かな静寂に包まれていて然るべきだと思う。
とくに、司書室はわたしの仕事場。
身支度を整え、カーテンをサッと開けて窓辺に立つ。
朝の澄み切った空気を胸一杯吸い込んでから椅子に腰をかけ、精神統一して本日の予定表に一通り目を走らせる。
なのに、わたしの大切な一日のルーティーンは、怒鳴り声と共に司書室の扉を蹴破った小鬼――じゃなかった。中原先生のけたたましい声のせいで無残に打ち砕かれてしまった。
「俺の焼酎瓶、捨てやがったのか!?」
ズカズカ距離を詰めてくる中原先生を避けようと、壁を背にしたわたしはぐるぐる円を描いて逃げ回った。
嗚呼、逃げ場がない。司書室の本棚や内装が、今日ばかりは疎ましい。今こそ物語の中に出てくる透明人間になって、あらゆる障害をすり抜けられたらいいのに。
切羽詰ったわたしの脳みそは、哀れにも現実逃避を始めていた。腰を落としてファイティングポーズで構えると、中原先生の眉間の皺が二本から三本に増えた。
「なんだそりゃ? 巫山戯た逃げ方すんじゃねぇ」
「そ、そんなこと言われても……先生が近づこうとするので」
「酒をどこへやったか訊いてんだよ」
「中原先生には、今日……潜書してもらわないといけないんです。……おっ、お酒は控えていただかないと……だから……」
先生方にとって、飲酒も喫煙も息抜きの一環だと思う。
わたしが日夜研究に勤しむのと同じで、先生方も毎日任務に取り組んで下さっている。
中原先生が日々の疲労を癒すためにお酒を呑みたいというなら、わたしに禁酒を命じる権利などないと分かってはいた。
でも、それはあくまで節度を守っていればのお話。先生の場合、幾らなんでもアルコール摂取量が過剰だ。
単純に身体が心配――という理由もあるけれど、泥酔した中原先生はとにかくタチが悪い。
太宰先生を半泣き状態に追い込んで遺書を書かせたり、談話室で坂口先生と口喧嘩の末に敗北し、(勝手に)不機嫌になったこともあった。
その後、二日酔いの中原先生を看病し、自殺したがる太宰先生を励ます役目を(何故か)わたしが館長に言い渡された。あの任務は今までで一番ハードな仕事だったかもしれない。
「酔っ払ったまま潜書して、もし侵蝕者との戦いに負けたりしたらどうするんですか」
「はぁ?」
「わたしは、心配なんです。中原先生の事も、他の先生方の事も。……これでも司書ですから……」
お酒を奪取した理由を説明しながら後ずさる内に、靴の踵がこつりと固い物に触れた。
わたしのブラウスの背中は今、本棚と完全に密着している。
中原先生は窮鼠のわたしを一瞥し、呆れた様子で肩を竦めた。
「何言ってんの、お前……?」
「……っ」
「俺があんな奴等相手に、遅れを取る訳ねぇだろうが」
とりあえず、この状況は危険だ。逃げないと。
わたしが横歩きで移動を始めようとしたら、それより早く中原先生の腕が伸びてきて耳元を掠めた。
本棚に手をついた中原先生が、わたしの正面に立っている。至近距離から獲物を見定めるような視線を注がれて背筋が凍った。
恐怖と羞恥が体中を駆け巡り、とてもじゃないけど顔を突き合わせて啖呵なんて切れない。
わたしは咄嗟に目線を床へ移し、中原先生のブーツのヒールの高さを目算した。5、6、8?……ううん、10センチくらい……。
「おい、どこ見てやがる」
「い、いえ。足元なんて見てません!」
「へぇ~……何か言いてぇことがあんのか、俺の足元について……」
「い、いえ違います! わたし先生の靴なんてなにも……あっ! いえ、あの」
――どうしよう、怖い。逃げられない。禁忌(シークレットブーツ)に触れてしまったことで、ついに殴られてしまうかもしれない。
「”司書ですから”、ねぇ……」
返答に窮したわたしを、中原先生は低い声音と共に追撃した。
俯くわたしの顎に冷たい何かが触れ、持ち上げられる。
それが先生の指だったと気づいたのは、視線がいつの間にか中原先生へと引き戻されていたからだ。
「しけた面しやがって。……つまんねぇんだよ、お前」
短い舌打ちと共に、額に触れていた帽子のヘリの感触が消える。わたしの前の圧迫感が、唐突に遠ざかっていく。
呆然としている隙に、中原先生は背を向けて司書室を出て行ってしまった。
人を散々振り回しておきながら、何事もなかったみたいな後姿で。
「……はぁ~……ビックリした……」
中原先生は体格こそ小柄だけど、醸し出している空気がいつも刺々しくて、急に迫られると萎縮してしまう。
雰囲気や態度だけじゃない。先生の言葉ひとつひとつが、わたしの心臓に容赦なく牙を突き立てる。
『つまんねぇんだよ、お前』
端的で飾らない言葉。だけど、今のわたしを言い当てるには余りに相応しい一言だった。
わたしには、なんの特徴も無い。
先生方みたいな文学の才能もなければ、特別な魅力もない。ただ司書という立場にしがみつき、毎日研究に明け暮れることでしか自分を確立できない。
きっとそれを、中原先生にも見透かされている。
中原先生が立ち去った後、気を取り直して机の書類を整理しようとすると――ふと、空っぽのグラスの中に自分の顔が映っているのに気づいた。
(しけた面、か……)
ガラスの表面に張り付いた、疲れきった蒼い顔。
そういえば、最近研究続きだったから、きちんとした睡眠がとれていなかった。
先生は、このことを言っていたんだ。
――怖い。
わたしは、中原先生がこわい。
それなのに。
目と目が一度合ってしまうと、逸らすことさえ出来ないでいる。
さっきだってずっと考えていた。
あの人がわたしにどうしてあんな態度を取るのかを。
お酒の瓶を隠したのは本当だし、”禁酒”と言って食事の際お酒を出さない時はある。
だけど、酒瓶が一本二本無くなったところで、Barに行けばお酒は用意してもらえるはず。
だから……先生がわたしに毎度絡みに来るのは、本当は別の理由があるのかもしれない。
視線が交わった瞬間に、あの細い指先がわたしに触れた瞬間に。
わたしは時々、中原先生を知りたいと思ってしまう。
*
館長から言い渡された雑用、司書室の書類整理、図書館での業務。
一日の仕事に没頭していれば、時間なんてあっと言う間に過ぎてしまう。
窓の外を夕闇が染め変える頃、潜書を終えた会派の先生方が食堂に戻ってきたと館長から連絡を受けた。
中原先生に没収した焼酎瓶を返そうと思い急いで食堂へ向かったのだけど、席に揃っているはずのメンバーの中に何故か中原先生の姿だけがなかった。
なんとなく胸騒ぎがして宮沢先生に訊ねると、一言”寝る”と言い残して補修室に篭ってしまったらしい。
『お酒がなかったから、いつもの調子がでなかったんだって』
宮沢先生は困ったように笑っていたけど、それが事実だとしたら、中原先生が耗弱してしまったのは少なからずわたしにも責任がある。
本当は、今朝の一件もあるから中原先生と二人きりになるのは少し気まずいんだけど……。
もし既に熟睡されていたら、黙って立ち去ろう。でも、まだ起きていらっしゃるなら一言だけでも謝罪をしておきたい。
「……中原先生……お加減はいかがでしょうか」
「……」
寝台を覆うキュービクルカーテンが開け放たれている。
補修のときは皆、カーテンを閉め切って睡眠を摂るものなのに。
寝台の脚元に、中原先生のブーツと皺くちゃになったケープが脱ぎ捨てられている。
所々布が破れたクタクタの帽子だけが、申し訳程度にナイトテーブルの上に置き去りになっていた。
寝台の上の中原先生は、片腕で顔を覆い隠して仰向けになっている。こちらから表情は窺えなかった。
「あー……ダッセェ……瞼を閉じりゃ、死神野郎が脳裏にチラつきやがる……眠れやしねぇ」
「先生、あの」
普段の先生らしからぬ覇気の無い声を聴いてしまうと、喉まで出かかった言葉が押し戻される。
わたしがこの場にいても、余計に中原先生の邪魔をしてしまうと分かっているのに。思いとは裏腹に、わたしは先生の傍に歩み寄った。
寝台の脇の椅子に腰を下ろすと、先生は顔を覆っていた腕をどけた。
金糸のような繊細な横分け髪が、はらりと白い頬を伝い流れる。
先生はわたしを”しけた面”と評したけれど、今の中原先生の方がよっぽど蒼白い顔だ。
「ごめんなさい。わたし、お酒がないと調子が出ないなんて思わなくて……。本当にごめんなさい」
「……くだらねぇ……」
「え?」
「辛気くせぇ面わざわざ見せに来やがったのか……謝るんなら、笑え」
「……せんせ、」
こちらに寝返りを打った中原先生に上目遣いで睨みつけられ、心臓が飛び跳ねる。
先生は取り乱したわたしの心を知る由もなく、無造作に手を伸ばしてわたしの頬をぎゅっとつねった。
「っ!? せ、先生、ひょっと、ほほがいひゃいのですが」
「……はは……っ」
「笑いごとひゃ、ありまひゃんよ!」
「ずっと……そうしてりゃいいものを……」
静寂に溶ける掠れた声音が、嫌にわたしの耳にこびりついた。
中原先生はわたしの頬を勝手に弄り倒して、勝手に指先を離す。
触れられた頬がじんわりと痛む。でもそれ以上に、理由もわからないまま胸が締め付けられて苦しい。
「お休みの邪魔をしたくないので、わたし、戻りますね」
これ以上ここにいたら、中原先生の侵蝕がいつまでも回復しない。
わたしは何の役にも立てない。仮にも司書のくせに。こんな時、自分の無力がどうしようもなくもどかしい。
「まだ行くな……」
「で、でも」
立ち上がったわたしの手首を、中原先生の掌が捕まえて引き寄せた。
弱った先生を無碍にできる筈もなく、わたしは椅子の上に逆戻りしてしまう。
「お前の指――白ぇな。雪みてぇに白い……」
「……」
先生がわたしに甘えた素振りを見せるのも、精神的に疲弊した状態だからだと分かっている。
普段は空腹の獣みたいに荒っぽい態度で絡んでくるのに、無防備に愁いを帯びた眼差しを向けるものだから嫌でもドキリとさせられてしまう。
掴まれた手は、いつの間にか先生の所有物みたいになっていた。
わたしの人差し指に、小さくてやわらかい感触が一瞬だけ触れる。
わたしはその瞬間を見てしまったので、今度こそ心臓が止まるところだった。
中原先生の伏せられた長いこげ茶色の睫が震える様は、悔しい位綺麗だった。
わたしはやっぱり、中原先生が怖い。
先生に触れられる度、近づかれる度に、侵食されてゆくのはわたしの心だから。