バイクから降りてグローブとヘルメットを脱ぐ。ぐーっと背伸びをして、凝り固まった肩と首を解すと、ぽきぽき、ごりごり、ぴりぴりと、体の中から色々な音がする。
少し遠くには、ライトアップされたスカイツリーが見える。
薄雲に覆われた星空が、街の光とひと繋がりになって、思わずため息が出る。
そして、壁を挟んだすぐそちら側では、100キロ近い速度で車が道路を切り裂いていく。
「…うん。やっぱり夜の首都高はいいね」
夏の初め、まだひんやりとしながらも、じとりとした空気を感じながら、バイクからキーを抜く。そして、バイクから背を向けて目指すのは喫煙所。
「と、その前に」
コインケース。ハンドウォッシュレザーで出来ているそれ、をパンツのポケットから取り出して、自販機へと滑り込ませる。
ガタン、と迷いなく吐き出されたそれを持って、数歩あるけば喫煙所のベンチに座り込んだ。幸い、先客は居ない。
「さて」
斜めがけにしているボディバック。中から、チャズのシガリロ、まぁ、葉巻の小さいものだ。それを取り出して、使い捨てのライターで先端に火を着ける。
「咥えないのがミソなんだけどね」
呟きながら、先端に均一に火が付くようにゆっくりと炙る。焦るといけない。じっくりと、じっくりと…よし、着いた。軽く口に咥えた。
「…んー、ちょっと加湿不足かな」
軽く、口の中に最初の煙を含んで、転がす。香りはいいのだけれど、どうも辛い。これはイケないね。
「ふ」
火が強くならないよう、少しだけ息を優しく吹き込む。こうすると、葉巻に息の水分が吸い込まれ、煙草の葉本来の味が出てくる。ま、わかりやすく言えば、多少なりとも甘くなるわけだ。
「ま、及第点」
啜るように、肺までは入れない。口の中で煙を味わいながら、煙を空に捧げる。
「で、これがお友達」
パキリと、缶コーヒーのプルタブを押し上げる。そして、一口。
「…うん。甘いね」
黄色くて長い、甘い甘いあんちくしょう。少々苦い紫煙の共には、これが一番だ。
■
ズォンと重い音を立てて、相棒が再び目を覚ました。ヘルメットを被ると、葉巻の香りが鼻についた。
「吸いすぎたかな」
口から息を吐いて、そして、鼻から息を吸う。香りが増したような気がした。
グローブを嵌めて、相棒に跨る。そして、軽く右手を撚る。
ズォン、ズォン。葉巻、シガリロを軽く2本。30分程度の休憩。まだまだ、エンジンは温かいままだ。
「うん。アクセルのツキは良いね」
これならば、本線に入ってすぐにでも、アスファルトを蹴っ飛ばせることだろう。
左手のレバーをしっかりと4本指で握り込む。左足でサイドスタンドを蹴り払う。
ガタン、左足のレバーをつま先を押し込んで一速にギアを入れる。
「さてさて」
右手のアクセルを僅かにひねりながら、左手のレバーをゆっくりと離す。ズォォォ、と鈍い音と共に、車体が前に進み始めた。
レバーを離し切って、アクセルをぐっと叩き込む。
「っ」
これだ。この相棒の一番の味。この低速からのトルク。加速感。だから、この相棒からは降りられない。
これより早いマシンは知っている。これより速いマシンに乗っている。
「だけどねぇ!」
2速にギアを入れ、アクセルを思い切りひねりこむ。250キロの車体が、前輪が軽く浮く。
脚で車体を抑え込み、体幹でゆらぎを抑え込み、本線へと合流する頃にはスピード計の針はテッペンに向いていた。
「これこれぇ!」
ゴン、と前輪が設置する感触を以って、ギアをもう一つぶち上げる。今日はこういう気分の日。
あっという間に、数台の車が後方に飛んでいった。
ああ、そうだ。この感覚が、この感覚が堪らないんだ。
■
自宅に戻る頃には、すっかり日が昇って、青々とした夏空が広がっている。
相棒をガレージに停めて、エンジンを止める。冬のようにカンカンと音はしない。
むしろ、まだまだ行けるぜ、と言わんばかりに、エンジンは陽炎を漂わせている。
「ま、焦らないで。すぐ出るからさ」
相棒に声をかけて、自宅のドアをくぐる。そして、一晩走って汗ばんだ衣服を脱ぎ捨てた。
そのまま、シャワールームに入り、少し熱めの湯を頭から被る。慣れた事だが、長い髪にしっかりとトリートメントを塗り込み、それをよく流すことを忘れてはならない。
「艶がね」
細かで、小さな手入れこそが結果に通じる。体のメンテもそうだし、バイクもそう。
そして、レースもそう。だから、本当は夜駆けは避けたほうがいいんだけど。
「精神の栄養だからねー」
言い訳を口にすると、自然と笑みが溢れてしまった。まったく、我ながら仕方のない。
さて、あまりゆっくりしていると、トレーニングに遅れてしまう。そろそろ上がろう。
体の水分をタオルで拭きつつ、冷蔵庫からミントの葉と炭酸を取り出して、適当なグラスを準備する。
「風呂上がりはこれだね」
塩をひとつまみ。ミントの葉は手で軽くもんで香りを出して、そこに氷をありったけ。
炭酸水を注ぎ込めば、簡易的なノンアルソルティミントだ。
グラスに口をつけ、嚥下する。爽やかな香りが、タバコの香りを消していく。
「さて、では」
ここからは仕事の時間だ。着替えをバッグに詰め込んで、再びライダーのジャケット、パンツを履き直す。
相棒のリアボックスに荷物を詰め込んだら、家の鍵を締めて準備よし。
「行こうか」
ズォン。答えるように相棒の心臓に火が入る。エンジンは熱いまま。まるで、これからの季節を表すかのよう。
「夏は成長の季節だからね」
合宿にむけての準備は整いつつある。メニュー、体調、そして、ライブ。私の全ては、レースと、ファンのために。
「らしくないかな?」
虚空に問いかけてみるけど、答えは帰ってこない。唯一、相棒のエンジンが静かに、低く、囁いている。
【行くぞ】
「行こうか」
ま、あれこれ背負っても、仕方ないから。重さは感じるけど、心地良い。ならば、私のスピードは鈍らない。
それに。
「やっぱり、ルドルフに負けるのは気に入らない」
最強なんて言わせてなるものか。なにやら史実ってやつではコテンパンにやられた相手なわけなのだが、そうそう簡単に私が引くわけがない。
それにだ。そんなつまらなそうな、最強という名の孤独にひとときでも、浸らせてなるものかよ。
この沼はそうそう、手放すには勿体ない。
手始めに。
「夏の合宿で、しっかりと置いていってやろう」
お前は最強などではない。お前は孤独ではない。何故ならば、私やエース、マルゼンがいるからだ。まだまだ、背中を見せ続けるだけの話さ。
■
「セカンドアルバム?」
「そ。で、エースには先行であげる。練習の後少し時間ある?」
朝の練習に付き合いながら、軽い世間話。夏のじとりとした空気がまとわりつき、なんとも季節を感じる朝である。
「私は嬉しいけど、いいのか?」
「もちろん。友達だし」
「ははは!そりゃ嬉しいね」
実際、年の離れた、性別的にも相違のあるエースとこうも仲良くやらせてもらっているのは奇跡だからね。
返せるときに返しておくということで、私の歌の二枚のアルバムをエースに渡すことにした。
中身はオリジナル、という名の、私のスマホからの曲を再録したものだ。
つまり、ファーストアルバムがURAのデモ・ソングだとすれば、セカンド・アルバムはミスターシービーのオン・ステージということ。
「で、どんな曲を歌ったんだ?」
「それは聞いてからのお楽しみってやつだ。ただ、エースが知らないのもあるよ」
「へぇ」
ま、中身は楽しみにしてくれていい。なんせ、私の世界でヒットした曲ばかりだからね。
「ちなみに一曲は、合宿中の夏ライブで、初めてステージで歌うよ」
「ほんとか?シービー」
「ほんとほんと。だから、コールとかも練習しといてくれると助かるかなー。盛り上がると楽しい曲だから」
「わかった。まかしとけって!」
そう言いながら、笑顔を見せてくれたエースに少し安堵する。彼女が味方についてくれるのならば、心強い。きっと、夏のライブもうまく行くことだろう。
「さって、余計な話しちゃったね、エース。次は坂道ダッシュ?」
「ん、ああ!いずれはお前を追い越してエースになりたいからな!付き合ってもらうぜ?」
「あはは。その意気やよし!じゃあ、しっかりついてきてね?」
「それはこっちのセリフだぜ?」
軽くジャンプをしてから、歩調を合わせて走り出す。そして、坂路の近くまで来ると。
「じゃ、おっ先!」
言うやいなや、私を置いて走り出したエース。ふむ、なるほど。私から逃げるわけか。
「でも」
腰をぐっと落としてから、ゆらりと手を顔の目の前に持っていく。
「エースが逃げが得意なようにさ」
一息を吸い込んで、体を沈める。
「私も、追い込みなら大得意なもので」
沈んだ勢いで、脚を蹴り出す。地面を軽く刳りながら、体が一気に景色を置いてきぼりにする。我ながら、いい脚だ。まるでCBみたい。
でもまぁ、エースも。
「なんだ来ないのかぁ!?」
簡単には追いつかせてくれなさそうだね。
「ご心配なく。今、行くからさぁ!」
もう一歩、更に踏み込む。頭は冷静に、しかし、心は熱く。
「うわっ!?」
「おっ先い!」
私は地面をがっつり刳りながら、エースにその背を見せた。まだまだ、まだまだ私のほうが強いんでね。手は抜かないよ、エース。
■
したたる汗を無視しながら、ぶっ倒れたエースを横目にトラックへと脚を進めた。
「まだやれんのかよ…!」
悔しそうなエースは、しかし、体が動かないようだ。ま、本来持っているものなら君のほうがきっとスタミナは上。でも、駆け引きの経験は私のほうが上。練習でもそれは効果を発揮するもんだ。
「まだやれるんだなぁ、これが」
エースにはスポーツドリンクをプレゼントしながら、回復したらついてくるようにと一言を残して、トラックで走り込みを行う未来の最強に歩み寄る。
「やールドルフ。精が出るねー」
へにゃりと、自分でも顔が緩んでいるなと判るような表情で声をかけると、ルドルフも柔らかい笑みを浮かべてくれた。
「やぁ、シービー。人のことは言えないだろう?君だって、カツラギエースと競い合うようにしていたじゃないか」
「まぁね。ただ、エースがバテちゃってね。練習、付き合うよ」
私がそう言うと、ルドルフの顔が引きしまる。
「それは有り難い。今日は練習相手が居ないものでね」
「今日は?」
「…今日は、だ」
少し遠くを見たルドルフ。…まぁ、彼女の同期はなかなか変わり者が多い。一緒に練習することもなかなか少ないのかねぇ、と少しだけ心配になる。
「前みたいに私達やマルゼンと一緒に練習してもいいんじゃない?」
彼女は、クラシック戦線を戦い始める前から私との練習を少しだけ避けている節がある。まぁ、節というか、戦略的にも別々の練習をして然るべき、なのだけれどさ。
「そういうわけにもな。君たちとは年末に戦うのだから。それまではなるべくは」
共に練習はしたくない。と申すか。まぁ、気持ちはよく分かる。エースと同じレースに出ない私の気持ち。それを更に煮詰めたのがルドルフの気持ちなのだろう。だが、しかし。
「固いって、ルドルフ」
固い、固すぎる。君のその固さはきっと、強みでもあるのだけど、同時に弱さであるのだ。だから以前、彼女にはもっと周りを頼るようにと伝えたのだがねぇ。クラシック戦線を戦う中で少し、悪い方の昔に戻ってきたような感じがするね。
「固い、か?」
「固い固い。固くて煙草が不味くなる」
肩を竦めると、ルドルフの眉間に皺が寄った。ちょっとイライラしているね。うんうん。そういう感じ、大切よ?
「だってねぇ、気づいてる?ルドルフ」
「何に、だ」
威圧感。言葉に、重さが乗ったね。おお、怖い怖い。
「君さ。『練習方法を選んでいる』なんて、随分と―」
私も顔から力を抜いて、ルドルフの顔を、目を睨む。
「無意識に上に立っているもんだね。『あたし』を随分と」
ルドルフが一歩引いた。逃さないと、一歩踏み込む。彼女と私の息が交錯する。
「下に見てくれているね?」
「―あ、いや」
そういうわけでは…と、小さく聞こえた。まぁ、きっと、彼女はその考えには至っていないのだろう。高潔に、正しく、まっすぐに。胸の中の炎をたぎらせたとて、シンボリルドルフというウマ娘は、馬は、誇り高い最強なのだろう。
「そういうところ、私は、あたしは気にいらないなぁ、ルドルフ」
だから私は、あたしは気に入らない。そんなもの、投げ捨てろと言いたくなる。さっさと投げ捨てて、ただただ、本気の走りで、私と競えと。
「…ま、別に良いけど。ルドルフらしいからさ」
ぱ、と両手を顔の間で開いて、ルドルフとの距離を取る。…全く、ほとんど徹夜でバイクに乗ったからだろうか。我ながら、ちょっとテンションがおかしいや。
「でもまぁ、使えるものはなんでも使いなよ」
「…それは、君ですら、か?」
「そりゃあもちろんだよ。なんてったって私は今、ウマ娘の中では最強だから。その背中、借りないつもり?」
「―いや」
ルドルフが微笑みを浮かべなら、引いた私に一歩近づいた。
「ならば、今日は、とは言わん。毎日練習に付き合ってくれないか?ミスターシービー」
「勿論。ああ、エースとか、マルゼンも一緒だけど、いいよね?」
「無論だ。全てを飲み込んでみせるさ」
ならばと、右手を差し出してみれば、ルドルフも右手を差し出してきていた。ぐっ、と強く、それを握り合う。
「じゃあ、早速。今はスタミナ練習?」
「ああ。トラックを走り込んでいた。並走をお願いしても?」
「もちろん。ああ、変な期待はしないでねルドルフ。坂路を走ったといっても、まだまだ、イケちゃうから」
「はは。むしろ好都合。坂路を走ったせいで、などと言い訳をされても困る」
うん。いい顔になったねぇ、ルドルフ。と、その時だ。
「楽しそうなコトになってんじゃねーか、シービー。会長さん」
復活したエースが、にこにこ顔でこちらに近づいてきていた。いいね、いいタイミングだ。
「エース、おはよう。並走しない?」
「寝てねぇよ!並走はやるやる!」
「じゃ、やろうか。ルドルフもいいよね?」
「もちろん。願ったり叶ったりだ」
では、と、軽く息を整えて。
「じゃあ、トラック10周行こうか!位置について!」
私の号令で、彼女らの腰が落ちる。私も腰を落として、タイミングを見計らって―。
「よーい、どん!」
ズダン!と土が抉れる。2人の背中が前に出る。さあさあ、楽しい楽しい、追いかけっこの始まりだ。