ある宿の一室で、一人のウマ娘が静かに椅子に座り、何かを読んでいるようだった。
『ミスターシービー、ジャパンカップで連覇なるか』
『無敗の三冠に突き進むシンボリルドルフ』
『無敗の三冠馬の対決はジャパンカップか、それとも有マ記念か』
カツラギエースが読んでいる新聞。そのスポーツ欄には連日、ミスターシービーとシンボリルドルフの記事がやたらと並ぶ。
「やっぱりすげぇな。あの2人」
溜息を吐いて、新聞を適当に机にぶん投げる。あの2人の対決は確かに盛り上がるんだろうなぁ、とカツラギエースも思っている。
「ま、相手にとって不足はねぇだろ」
ある所では、カツラギエースの活躍というのは目立たず、注目もされていなかった。だが、この世界ではそれは少々、状況が違う。
『今年の秋戦線の注目はやはり、ミスターシービーとシンボリルドルフでしょうかねぇ?』
『ええ。確かに。しかしながら忘れてはならないウマ娘がおります』
『ほほう』
『カツラギエースですね。昨年のレース結果こそ惜しいものでしたが、今年は間違いなくシニア級のエースと言えるでしょう』
『なるほど。確かに宝塚の走りは圧巻でしたからね』
『そうでしょうとも。確か、彼女たちが最初に当たるのは秋のジャパンカップ。今から、彼女らのレースが楽しみで仕方がありません』
どこからか、テレビか、ラジオか。そんな音声がカツラギエースの耳に届いていた。彼女は間違いなく、今のこのウマ娘レース界で5本の指に入る強者である。
「こう、名前を出されるってのは悪い気はしないよな」
それに、何よりも。
「誰よりも早いのはあたしだ。なんせ、あたしはミスターシービーのライバルだから。あの背中を最初に追い越すのは、私以外じゃ、嫌だ」
手のひらを顔の前に上げて、目の前で握りこぶしを作る。
「シンボリルドルフにだって、先を越させてたまるかよ」
勢いでは負けているのかもしれない。実力や、才能でも負けているのかもしれない。だが、それがどうした。私はカツラギエースだ。
「それに、ファンのみんなからこんな良いもん貰っちまったしな」
ホテルの部屋、その片隅に立てかけられているのは『葛城栄主』の旗。ファンがこの合宿中に届けてくれた、願いの結晶だ。
「悪くないな。こういう、『願い』を背負って走る、っていうのも」
カツラギエースの口角が上がる。
「ああ、シービーもルドルフも、きっとこれ以上の重いものを背負ってるんだろうなぁ」
世代を代表し、レースをけん引する。その重圧たるや、いったいどれ程の願いの重さなのだろう。カツラギエースは一瞬だけそれに思いを馳せた。
「うん。…さぞ、気分がよさそうだ」
その姿は、どこか、走りを楽しむミスターシービーを彷彿とさせるものだった。
「…と、まぁ、それはそうとして…アレ、取るなら合宿中だよなぁ」
■
連日の激しい基礎トレーニングをこなしながら、カツラギエースは自らの実力が確実に向上していることを自覚しながら、その実力に合わせるように確実に自信を付けていく。
「もう一本行くぜ!トレーナーさん!」
今日も今日とて浜辺でのタイヤ曳き。スタミナとパワーを伸ばし下半身を苛め抜く、過酷な鍛錬である。行いすぎれば無論故障を引き起こし、かといって抑えすぎればおいて行かれるという、絶妙な力加減が必要なのだが、残念ながらカツラギエースにその見極めは難しい。
故に、このまま行動してしまえば、故障の可能性が増えていく領域に彼女はいた。
「ストップ!いったん休息を挟んでからね」
その領域に突入する直前、止まれの声がカツラギエースの耳に入った。その声は、耳馴染みのある声で、カツラギエースの体がその場に留まった。
「まだまだイケるぞ!?」
「駄目なものは駄目。傍から見てると、フォームも崩れて変なところに力が入り始めてる。少なくとも、乳酸を抜いてからね」
「はーい」
しぶしぶといった具合で、トレーナーの元に戻ったカツラギエース。間髪入れずに、トレーナーはドリンクを彼女に手渡し、敷物を砂浜に敷いた。
「じゃ、座って休もう。1時間とは言わないけれど、15分ぐらい休憩しよう」
「判ったよ」
ふう、と一息をついて腰を下ろしたカツラギエース。さらさらと、夏の風が彼女らの間を抜けていき、その心地よさに思わず目を細めた。トレーナーの用意していたドリンクも良く冷えているようで、カツラギエースの喉がよく動く。
「美味しい。ありがとう、トレーナー」
「どういたしまして」
その眼前の砂浜を、よく見慣れたウマ娘達が通り過ぎる。ピロウィナーが浜辺ダッシュをしていると思えば、シンボリルドルフとミスターシービーがタイヤを曳いて競い合い、マルゼンスキーがそれを見ながらランニングを続けている。
「トレーナーさん。やっぱりすぐに再開したいんだけど」
どうやら今日は、見知ったウマ娘が浜辺に一堂に会しているらしい。そんな彼女らに刺激を受けているのだろう、カツラギエースの耳が我慢できないとばかりにピクピクとせわしなく動いている。それを見たトレーナーは、思わず苦笑を浮かべていた。
「気持ちは判るけど駄目」
再度ストップをかけて、よぉくカツラギエースを観察するトレーナー。顔色はさっきよりは戻った。だけれど、まだ息は上がっている。汗も引いていない。足元はまだ震えているし、手先の爪がまだ白い。貧血気味と言ってもいいかもしれない。少なくとも、まだ走らせることは出来ない。
「はたから見れば限界だよ。カツラギエース」
「…ちぇ」
自覚はあったのだろう。その言葉に、耳がしょんぼりと垂れて、大人しく休むように息を吐いていた。そして、改めてドリンクを口に含む。
「やっぱりシービーはすげぇなぁ」
どこか遠くを見ながら、そう呟いたカツラギエース。ミスターシービーはまず、怪我をしない。そのうえで、毎日の練習を休むそぶりを見せていない。それがまた、周りのウマ娘の気力を引き出していた。
とはいえ、その実態はミスターシービーとはいえレース前などは練習を軽くし、休息も十二分にとっているわけであるが、傍から見れば、練習の鬼と捉えられる事だろう。
「ふふ。そうだね」
カツラギエースのトレーナーは、ミスターシービーの息抜きに気が付いている。今日もああいう風にタイヤ曳きを繰り返しているが、案外と午後の暑い時間などは宿に帰っていたりするし、かき氷を楽しく食べていたりもする。
ただ、その隠し方が旨い。昼食と見せかけて姿を彼女のトレーナーと共にくらますものだから、知らぬものからすると、どこかで秘密の特訓をしているのだろう、と映るのだ。ある日、カツラギエースのトレーナーは偶然に、ウマ娘が寄り付かない『喫煙可』の海の家で休んでいる彼女らを見つけた。
『なるほどね』
と、納得してしまったのは仕方のない事だろう。狙っているのか、普通のウマ娘のトレーナーすらも寄り付かない場所で、ひとしれず息を入れる。確かにこれは有効な手段である。しかし。
「でも、練習内容はエース、あなたも負けていない」
これは間違いなく言えるであろう。少なくとも息を入れつつ練習を繰り返すミスターシービーよりは、その時間は、負荷は大きい事だろう。だからこそ、その見極めをしなければならないと、トレーナーは深く決意を固めている。自らが手塩に掛けるウマ娘、カツラギエースがミスターシービーと、時代の皇帝に勝つ。その瞬間を夢見て。
「判ってるよ。トレーナーさん」
それはきっとカツラギエースも同じだ。何度負けようとも、必ずミスターシービーに勝って見せる。その信念が灯る瞳には、強い輝きが湛えられている。