「くあ」
眩しい朝日にやられて目を開ければ、時間は既に9時すぎ。上半身を起こして、窓を開ければ、抜けるような青空が広がっていた。
「…うん」
寝ぼけた頭で洗面台の前に立ち、歯磨きを行う。シャカシャカと心地よい音を耳に聞きながら、そういえば今日は休みだったかと思い出した。
「…私が私になってから結構たったねぇ」
男の私が美少女の私になってから半月は経っているだろうか。夢かと思っていたこれは、どうやら目覚める気配が無い事からしてほぼ現実と言って良いだろうか。うーん。それとも昏睡しているからこんなに長い夢を見ているのだろうか。
「わかんないや」
口を濯いで、顔を洗う。100円均一で買った泡だて器で洗顔料を細かい泡にして、顔にやさしく乗せる。たづなさん曰く。
『女の子はスキンケア命です!シービーさんは元がいいので、メンドクサイでしょうけど洗顔、保湿をしっかりしていてください!』
と、かなり押されてしまっている。まじまじと鏡を見れば、泡で覆われた顔のミスターシービーがいる。ちょっと面白い。産毛を剃るために剃刀をついでに当てておく。うーん…なんだろう。こういう裏方の姿を見れるというのは、幸運なのか不運なのか。ちょっとばかり、邪な気持ちが沸き上がって来るものだ。
「よし、洗顔完了と。えーっと…化粧水で…美容液と乳液に…あとはこのクリームと」
化粧水を手にたっぷりと取ってから、顔にゆっくりと当てる。摩擦が起きないように、しかし、しっかりと浸透するように。少し時間を置いて美容液に乳液も同じように顔に乗せる。そして最後に、しっとりとしたクリームで顔を覆えば、見事な美少女ミスターシービーの出来上がり。
「本当は眉もそろえたいけれど、まだ技術ないしやめとこ」
男の時にはざっくりいじっていたが、明らかにシービーの眉は繊細だ。それに変にカットしたら違和感がものすごい事になりそうだし。こういうのは、美容院に任せよう。
「そういえば、美容院ってどこに通っていたんだろうか」
自らのことながら首を傾げてしまう。男の時は千円カットの常連だ。棚から名刺などを引っ張り出してみれば、あったあった、美容院の文字。
「ふーん、名前からすると、ウマ娘がやってる美容院かな?」
ウマ娘クイン美容室、と書かれた名刺。住所や電話番号、QRがしっかりと記載されているから、ま、必要となったら予約をしておこう。それはそうとして、今日は何をしようかな。
「練習…っていう気分じゃないし。車で出かける気分でもないしねー。バイクっていう気分でもないか」
抜けるような青空。しかし、どうも相棒とかで外に出る気分ではない。
「じゃあ、散歩にでも行こうか」
髪をさっとバンドでまとめて、部屋へと戻る。スカートの類はあるけれど、まあ、まだ違和感しかないのでパンツで良いだろう。上は…ゆるっとしたシャツでかまわないだろうか。服を併せて姿見の前ですっと立ってみれば、なるほど、何を着ても顔が良ければ似合うのかと納得がいく。
「アイドル。そう言われてみれば間違いなくそうだね」
シャツとパンツでこれほどに様になるか。ショルダーバッグを併せてみても『こういうファッション』と言われれば、そうなのだなと思う。まぁ、自画自賛はこれまでにして、さっさと外に行くとしよう。
■
「写真ありがとうございます!大切にします!」
「いーよー。気を付けてね」
「はい!ありがとうございました!シービーさん!」
犬も歩けば棒に当たる。ではないけれど、シービーが歩けばファンに当たるとはよく言ったものだ。繁華街で街の様子とかを見ながらコーヒーでも飲もうかと思った私の考えは少し甘かった、と言わざるを得まい。例えばそれは、コーヒースタンドの前を通った時の事。
「シービーちゃん。CM見たよー。相変わらず美人さんだねぇ」
「ありがと。でも、褒めても何も出ないよ?」
「あっはっは!会えたことが褒美だよ!ほら、好きな珈琲、どれでも入れてあげるよ」
「あはは、ありがと」
お言葉に甘えて、ということで、オリジナルのコーヒーを1つテイクアウト。手を上げて礼を言えば、あちらも笑顔を返してくれた。かと思えば、今度はケバブ屋のあんちゃんに声をかけられたりと、この世界の私は人気者である。
「これで私はまだデビューもしていないのか。うーん、何かちょっと違和感があるけれどね」
でも、もらえるものは貰っておく。ということで、頂いたコーヒーとケバブを片手に街中の公園で一休み。ケバブは鶏肉でさっぱりと食べれるし、コーヒーは良い香りで心を満たしてくれる。
「美味しい。それにしても。うーん…もしかして、私が中に入ったせいで、いろいろと世界が書き換わった?」
その可能性はあるのかな。デビュー前でこの人気というのも本当に違和感しかないところだ。あ、いや、ナイスネイチャという例や、ハルウララという例もあるから、一概には言えないが。うーん、誰か説明してくれる便利な人間などは居ないよねー。考えるのは諦めようと降参を頭の中で告げる。
「考えても仕方がない。ケーセラセラー」
などと適当な鼻歌を奏でながら、残ったコーヒーをぐいっと煽り、視線を周囲へと回す。昼間の休みの公園だ。親子連れもいれば、一人でのんびりと私みたいにすごす人もいれば、掛け声を併せながら何かの練習をする人々やウマ娘の姿が見て取れた。
■
散歩を続けていると、以前ルドルフが言っていたウマ娘の服のブランド、『ソメス』の店舗の前に差し掛かっていた。
「あ、これか」
私のバイクのジャケットもここのデザインだということだ。確かに着やすくて、すごくいいものという事は判る。よくよく外からディスプレイを見てみれば、ブーツや蹄鉄といったウマ娘の用品が並び、勝負服をイメージした服、つまりはゲーム中のモブウマ娘が来ていたような勝負服や、見たことのあるステージ衣装などもそこには飾られていた。
「へぇ。こういうメーカーが服を作っているんだね。一回入ってみようかな」
自然と体が入口へと吸い込まれていく。自動ドアを潜れば、威勢の良い、しかし、落ち着いた店員さんの声と、クラシック音楽で出迎えられた。
「いらっしゃいませ。ミスターシービー様。今日は、どのようなご入用でしょうか」
さっと声を掛けて来たのは、千明と書かれたネームプレートが眩しい老紳士。
「こんにちは。残念だけど特に用は無いんだ。近くを通ったから寄ってみようかなって」
「左様でしたか」
「あ、それと、以前作っていただいたバイク用のジャケット。すごく良いですよ。すっかりお気に入りです」
私がそう告げれば、千明さんは嬉しそうな笑みを浮かべてくれていた。
「それはそれは。ミスターシービー様にそういって頂けると、我々共も鼻が高いです。それでは、どうぞごゆるりと店内をご覧くださいませ」
「ありがと」
「何かありましたら、ご遠慮なくお声がけを」
承知の意味を込めて首を縦に振れば、千明さんはすっと、私の前から身を引いていた。うん、このお店、なかなか敷居が高そうだなと思う。けれど不思議と居心地がいい。改めて店内を見渡してみれば、壁や天井は木目調で安心感を与えてくれている。調度品やディスプレイ用の棚はアンティークだろうか。良い色合いだ。そこに、ウマ娘用の用品が引き立つように程よい間隔で置かれている。
「へぇ。蹄鉄も種類が多いね」
材質だけでも数種類。厚みや形で更に数種類。合皮底用、ゴム底用、本革用、そういった文言も並んでいる。その棚から少し進めば、今度はウマ娘のブーツ類が並んでいる。運動靴もあれば、デッキシューズやスニーカー、ハイカット、ブーツ、ハイヒール、編み上げなどの靴もそこには鎮座している。試しにその一つを手に取ってみれば、何やら説明書きが書かれているタグが目に入る。
「なになに。普段履きにもお勧めの一足。牛革を使用しているため使い込むほどに飴色の色合い。蹄鉄は鉄半月1番、鉄柿本1・2番がお勧め。普段履きなら不要です、か」
他の靴も手に取ってみてみれば、そういう文言が並ぶ。お値段はどんなものだろうとみてみれば、うん。人間用に比べると倍か、それ以上のお値段だ。やはり、相当な速度で走るウマ娘の靴は、頑丈に作られているからだろうか。結構お高めである。
「なるほどねー。いいものはやっぱりいいお値段がするものだね」
更に奥を見てみれば、パンツ、スカート、シャツなどが並び、更に奥には、表から見えないよう下着類が置かれていた。ま、ここら辺は暫くは不要だろう。家にまだまだ物はあるしね。そうやって店を見て回るうちに、少し肌色の違う蹄鉄が置いてあることに気が付いた。
「ねぇ千明さん、この蹄鉄って何?」
こちらを見ていた千明さんに、蹄鉄を指さしながら問うてみれば、ああ、という顔を見せながら、此方に歩み寄ってくれる。
「こちらは接着剤を使って靴に取り付ける蹄鉄ですね。新しい技術になりますので、まだレースで使えるほどの安定感は無いのですが、靴を傷めにくく、それでいてズレにくい特性を持っています。接着剤の種類によっては緩衝材の役割をするものもあるため、足への負担を軽減させる効果も見込めます」
「へぇ…いいね、それ」
「お試しになられますか?」
間髪入れずに頷けば、早速と言わんばかりに店の奥から、2足の靴が私の前に置かれていた。どれどれと、まずは普通の蹄鉄の靴を履く。…うん、普段通りの靴だ。軽くジャンプをしてみても、いつも練習で履いているそれとなんら変わりがない。
「普通だね」
そう言いながら、今度は接着剤で付けられた蹄鉄の靴へと履き替えた。すると、明らかに地面を捉える感じが違う。ダイレクト感が増しているというか。ジャンプをしてみれば、なるほど、普通の蹄鉄よりもしっかりと地面の感じが伝わって来る。これが、『ズレ無い』という感覚なのだろう。しかも少し衝撃も柔らかだ。
「いかがでしょう?」
「これ、靴は同じ?」
「ええ。同じモデルの同じサイズです。変わったのは蹄鉄の接着方法だけ、となっております」
なるほどなるほど。同じものでここまで変わるのなら、間違いなくこの蹄鉄のお陰と言うものなのだろう。それなら、試しに一つ買ってみよう。
「うん。接着剤の方がいいかも。ねぇ、今私が履いている靴の蹄鉄の打ち替えってここで出来る?気に入ったから接着剤の蹄鉄にしてみたいんだけど」
「いえ。申し訳ないのですが、ここでは接着剤タイプの蹄鉄の打ち替えは行っておりません。お預かりしまして、数日お時間を頂く形になります」
「そうなんだ」
それは残念、と両手を上げる。ただ、この接着剤でつける蹄鉄は気に入った。
「ですが、トレセン学園でも打ち替えは可能かと思います」
「そうなの?それなら、蹄鉄と接着剤を頂けるかな」
「畏まりました。材質や種類はいかがいたしましょうか」
「うーん…あんまり詳しくないから、お任せしてもいい?」
「畏まりました。それでは、少々お待ちくださいませ」
綺麗なお辞儀をして店の奥へと去っていく千明さんを見送りながら、私はルドルフへとメッセージを送っていた。