「ふぅー」
大きく息を吐くと、空に向かうはずの煙がテーブル型の分煙機に吸い込まれて行く。その煙をゆらりと眺めながら、再び、パイプの煙を口内に啜る。肺まで入れないのがパイプタバコの嗜みという奴だ。
「ふぅ」
今度は鋭く息を吐いて、煙を直接分煙機にかけてやれば、これまた見事に煙を吸い込んでくれた。そして、チタンのダブルウォールマグカップに淹れてあるコーヒーを煽る。タバコのバニラフレーバーの香りがアクセントとなって、このコーヒーがまた進むわけだ。
「うーん、美味しいね。っていうかマルゼン。君は外に出てたほうがいいんじゃないの?」
喫煙所の端、私が自分用に用意したリクライニングチェアに座りながらコーヒーを飲むのは、マルゼンスキー。彼女はタバコを吸わないわけなのだけど、よく、コーヒーをやりにここには現れている。
「問題ナッシング。その香り、私も好きだもの」
「そういう問題じゃなくない?副流煙とか」
私がそう言うと、マルゼンスキーはあっけらかんと笑ってみせた。
「ウマ娘は毒に対する耐性が高いのよ?知らなかったでしょう?」
「そりゃあ初耳だ」
そうだったのか。うーん…確かにアプリで見た記憶があるけれど…。っていうか、それならむしろこっちのほうが心配だ。
「むしろこの場にいて、マルゼンの体に入っちゃうタバコのニコチンが心配だよ。いや、喫煙所を作ってもらった手前色々いうのもなんだけどさー」
そう。ニコチンだ。スポーツでもかなり禁止されている薬物の一つ。喫煙…確かスポーツでは喫煙はまだドーピングには当たらないはずだけどさ。
「そうねぇ。喫煙自体は禁止されているわけじゃないわ。ニコチンっていっても、喫煙の量程度だったらウマ娘だったらすぐに抜けてしまうでしょうね。でもね、喫煙は間違いなく運動のパフォーマンスを落とすものよ?ドーピング対象じゃないにしても、吸うウマ娘はいないわよ」
そりゃあ道理でございます。思わず咥えていたパイプを外して、眺めてしまった。うーん。どうせ私もこれからレースを走るんだろうしなぁ。禁煙、考えるか?
「ま、シービーちゃんは喫煙が一つのストレス解消の道具なのでしょう?今のところ、という注釈がつくけれど、今はまだ禁止されているわけじゃないし、無理して辞める必要はないと思うわよ?」
「そう言ってくれるとありがたいね。マルゼン」
改めてパイプを咥えて吹かしてみれば、バニラの香りが鼻の奥をほのかに突き始めていた。
■
マルゼンの差し入れのシュークリームを頬張りながら、喫煙所の外でコーヒーを飲むこのひととき。顔面偏差値がものすごく高い彼女と対面になるというのは、なかなかテンションが上がるというもので。
「うん。シュークリームもコーヒーも美味しいし、マルゼンもキレイだし。言うことないねー」
素直にそう感想を述べてしまうぐらいには、私の気持ちは昂ぶっていると言えよう。タバコのせいで誰も寄り付かないと思っていたのだけれど、案外、ルドルフとマルゼン、しかもたづなさんまで結構ここにやってきたりもする。その都度テンションが上ってしまうのは仕方がないことであろうか。
「あら。シービーちゃんったらお上手ね。でも、シービーちゃんも可愛いわよー」
これは見事なカウンター。笑顔でそんなことを言われてしまえば、頭をかくぐらいのことしか出来ない。気の所為ではなく熱くなった頬を誤魔化そうと軽く手で顔を仰ぎながら、コーヒーを煽った。
「そういえばシービーちゃんはスカウトは受けていないのかしら?」
スカウトか。そういえば、私が私になってからは受けてないな。首を横に降っておく。
「そう…。うーん。ここだけの話なんだけれど、あなたが…記憶を無くす前のシービーちゃんなら、毎日のようにスカウトを受けていたの」
「ん?そうだったの?」
「そうよ。引く手あまた、っていう言葉がピッタリなぐらいにね」
そうか。結構私は、トレーナー目線でも人気のウマ娘であったらしい。とは言え、まぁ、スカウトされた記憶がないので実感はないけれどね。
「そうなんだ。でも、全然スカウトされた記憶がないよ?」
「不思議よねぇ…。練習する様とか、カツラギエースとかと並走する様なんかはシービーちゃんそのものだから、スカウトが多くても不思議じゃないのだけれど…」
確かに不思議だ。以前ならば間違いなくスカウトを受けている状況。でも、今は受けていない。となれば…まぁ、答えは明白だろう。
「多分だけどマルゼン。私へのスカウトは、学園長からストップがかかってるんじゃない?」
記憶の無くなったウマ娘。理由は言わずとも、例えば、体調不良で安定するまでは、スカウトをしないようにとトップが言えばトレーナーはそれに従うものだろう。
「なるほどねぇ。それなら辻褄も合うかしら。後でルドルフちゃんに聞いてみようかしら」
「もし答えを聞けたら私にも教えてほしいかな。何も言われないよりは、それなりの気持ちの準備もできるしさ」
うん。我関せずもいいのだけれど、情報は得ておきたいというのも正直な気持ちである。
「判ったわ。聞けたらシービーちゃんにもしっかりと教えてあげるわね」
「ありがと、マルゼン。お礼にコーヒーをもう一杯どう?」
空になったマグカップを指させば、笑顔で頷くマルゼンスキー。2杯目は、そうだなぁ。一杯目はキリマンジャロだったし、二杯目はステイゴールドあたりで良いだろうか。
■
練習場に降り立って、早速、例の接着剤の蹄鉄を履いてから、軽くコースをダッシュする。
『当社比二倍の強度です』
と自信を持って送り出されたわけなのだが、どれどれと八割ぐらいの力で駆け抜けていく。最初のコーナーの入りはよし。首を下げて、ぐぐっと加速をかけてみる感じもダイレクトで良し。
「そーれっ!」
ストレッチに入って更に加速をかけてみたところで、違和感を覚えたのでスピードを落として靴を確認すれば、右の蹄鉄が剥がれかけていた。
「NGでーす!」
苦笑を浮かべてそう告げてみれば、メーカーの人はがっくりと肩を落としていた。完全に剥がれたわけではないので、ジョギング程度の速度でコースを回って、メーカーの人に靴を手渡す。
「走った感じなどは如何でしたか?」
「グリップは最高だね。やっぱりダイレクト感があるし。でも、力をいれるとはいこの通り」
プランと蹄鉄が剥がれかけている靴を目の前に見せてやる。蹄鉄のかかと側のほうから少し剥がれが見える。
「…うーん。まだまだ改良の余地ありですね」
「あはは。まぁ、まだ改良始めですから。長い目でがんばりましょう」
私がそう告げれば、メーカーの人は気合の入った目でうなずいて、練習場を後にしていった。うん、でも改良はしっかりとなされているようだ。前は軽く流すだけで剥がれかけていたものが、結構な本気で走ってコーナーを一つ抜けてまでは間違いなくしっかりと蹄鉄の役割をしていたわけだしね。
「お疲れ様です。ミスターシービーさん。蹄鉄、どうでしたか?」
「お疲れ様です。たづなさん。そうだねー…。感触はいいけど、まだまだレースに関わるには時間がかかりそうかな」
ぐっと背伸びをして、近づいてきていたたづなさんへと言葉を返しておく。
「左様ですか。本当に協力して頂いていますが…よろしいのですか?」
「ん?全然いいよ。興味もあるしね。それにダイレクト感がすごい好みなんだ。これでレースを走れれば最高かなーって」
普通の蹄鉄よりもダイレクト感がある。これは、つまり、私にとっては走ったときの爽快感に繋がっているわけだ。っていうか、私の靴底もかなり薄い方であるから、きっと蹄鉄を打つと靴の寿命というのは短くなってしまうこと間違いなしだろうね。
「そうですか。シービーさんがそういうのなら。ああ、あと差し入れのタオルとドリンクです。どうぞお使いください」
たづなさんはそう言いながら、スポーツドリンクのペッドボトルと、乾いたタオルを渡してくれる。これは有り難いと、笑顔で受け取る。
「わ、ありがと。ちょうど喉が乾いていたんだ。気が利くね、たづなさん。流石できる秘書ですねー」
たづなさんは笑顔を浮かべてくれる。うん。やはり、顔面偏差値が高い。
「褒めても何も出ませんよ?それでは、お邪魔でしょうから。私はこれで失礼しますね」
「はーい。ありがとねー」
手をひらひらとさせれば、たづなさんはきれいなお辞儀を返してくれた。スポーツドリンクを早速喉に通してみれば、体の熱がさっと引いていくようだった。
「さて、たづなさんの差し入れも頂いたことだし。普通の蹄鉄で練習をしますかねー!」
靴を履き替えて感触を確かめる。うん、いつもの蹄鉄の接地感だ。ぐっぐっと足の健を伸ばしてから、軽く、飛ぶように、ターフへと足を進めていた。
…というか、走り出して気づいたのだけれど、接着剤の薄い靴底の練習靴を履いた後に、この普通の蹄鉄を履いていると何か少し…足の先の爪あたりに違和感があるから、もしかしたら私の適正靴底厚というのは、もっと薄いのかもね。無理をしないように、ちょっと気をつけて走っていこうかな。