選抜レース当日の朝。泡立てた洗顔料で顔を優しく洗い、剃刀を軽くあてる。温めの水でやさしく泡を落としてから、クリームを顔に塗り込む。
「うん、顔は良し」
ミストを髪に当てて、いつもの髪型へと整えていく。とはいえ、ほとんど手を入れる必要なんてないのだけれど、ま、そこは気持ちの問題だ。最後にヘアピンで前髪を纏めて、準備は完了。
「今日はプリウス…だね」
ジャグは机の引き出しに仕舞ったまま。バイクも今日は封印である。鏡の前で静かに眼を瞑り、気持ちを落ち着かせる。
「………よし、オッケー」
精神統一ってわけじゃないけれど、いわゆるけじめみたいな物だろうか。プレゼンの朝。打ち合わせの朝。試験の朝。今日はそんな気分である。着慣れ始めた女生徒の制服に袖を通し、そしてレース用のジャージをしっかりとバッグへと突っ込む。
「蛇が出るか。それとも何か別のものが出るか」
バッグを助手席に叩き込んで、運転席へと座る。リモコンを押せば、ゆっくりとシャッターが開いていく。明るい日差し、青い空。絶好のレース日和というやつであろう。
「練習はそれなりにしたけれど、不安は絶えないね」
ミスターシービー。私がそうなって暫くたったが、本当にその名前は重いものだ。…どうせなら三冠取った後ぐらいのミスターシービーに成っていればもうちょっと気が楽だったんだろうけど…。
「言っても仕方がない事だね。だって今、私はミスターシービーになっちゃったんだもの」
アクセルをゆっくりと踏み込めば、モーターが車を前に押し出した。
■
マルゼンの真紅のスポーツカーの隣にプリウスを停める。車のエンジンを切り、地面に降り立ってみればトレーナーが私を待ち構えていた。
「おはよう。シービー」
「おはよう。トレーナー。いよいよだね」
我ながらやはり緊張しているようで、なかなかどうして挨拶も固くなってしまう。そんな私の気持ちを察したのか、トレーナーは苦笑を浮かべるとポケットからなにか棒のようなものを取り出していた。
「そんなにガッチガチじゃあ実力も出せないだろう?」
差し出されたのは飴。緑色のそれを受け取った私は、包を外して早速それを口に含む。
「…甘いね。いい感じ。メロン?」
「ああ。北海道のメロン果汁入り。なかなかのレア物だぜ?」
「そりゃあ有り難いね」
飴玉を口の中で転がしながら、トレーナーと共にトレセン学園を歩く。うーん。やっぱり我ながら緊張しているんだね。なかなか言葉が出てこない。どうしたものかなぁ…なんて思っていたら。
「ひゃっ!?」
「うん…見事に鍛え上げられたトモだ。これだけしっかりしていれば、まず悪い結果は出ないだろうよ?」
いつの間にか私の背中に回ったトレーナーが、私のふとももとふくらはぎを入念に触っていた。おいおい。ちょっと前にそれをやって、ルドルフとたづなさんにめちゃくちゃ詰められたじゃないか。そう思ってじとりと睨めば、彼はどこかあっけらかんとした顔で笑ってみせた。
「トレーナー?急に女の子の足を触るなんて君、やっぱり変態だよね?」
「ははは。あまりにもらしくない緊張をしていたからな。どうだ?少しは解れただろう?」
「解れた解れた。でもさー、もうちょっと別のやり方あったんじゃないのー?」
「はは。悪い悪い」
思わずつられて笑う。全く、このトレーナーは。でも、たしかに緊張はいい具合に解れたというものだ。胸を張って、トレセン学園の空気を胸いっぱいに吸い込む。ターフの青い香りが鼻を突き抜ける。
「良し。いい顔になったじゃないか、シービー」
「うん。トレーナーのお陰。やり方は褒められたものじゃないけれどね」
そう言いつつ、お礼代わりにしっぽを彼の足に絡めておく。テレビで見たのだ。親愛の証、だとか。
「ずいぶん俺を信頼してくれているようで。―それで、今日はどう走るつもりだ?」
一転。真面目になった彼の顔。そうだね。どう、走るか。か。
「気ままに走るつもりだよ。スタートをしっかり決めて、あとは気のママ。1600でしょ?そのぐらいの距離なら」
きっと、私のスタミナでも全力で走れる。そう思って彼の顔を見てみれば、軽く頷いてくれていた。どうやら、自己分析は間違っていなかったらしい。
「ああ、それでいいだろう。ま、俺がとやかく言うもんじゃないしな。好きに走って、お前の実力を見せてくれ」
「もちろん」
トレーナーのお眼鏡に叶えばスカウト…という言葉も口から出かけたけれど、それは野暮っていうものだろう。―さてさて。ひとまずは、私の実力を彼に見せよう。そして、自分の実力を知ろうじゃないか。