軽く足を伸ばしてストレッチを行えば、ターフの感触が足にダイレクトに伝わってくる。今日の状態は俗にいう良というやつかな?いい感じの反発が返ってくるし、濡れてもいない。
「うん、絶好のレース日和」
天高く上がった太陽と、青空。そして気持ちの良い風を浴びれば、誰だってその気になるというものだ。他にもウマ娘たちがレース場にはいるけれど、彼女らの顔は緊張を孕んでいた。私もトレーナーにほぐされていなければ、あんな顔をしていたのだろうね。
「ま、とはいっても油断は禁物と」
気合を入れ直すように、顔を叩く。なにせ今日は選抜レース。私の走りが何処まで通用するのか。そしてそれがあのトレーナーのお眼鏡に適うのか。それが決まる大切なレース。
「気負いはしないけれど、後悔のないように」
つぶやきながら、靴に視線を落とす。そこにあったのは、接着剤でつけられた蹄鉄である。メーカーでの改良が進み、なんとか1レースだけならば持つ材料が出来上がったのだ。無論、ロングのレースにはまだまだ課題が残るが、今回の選抜は1600。十分に耐えられる強度であろう。
「うん…外れそうではないね」
お陰様で私の好きな薄い靴底のシューズでレースが出来る。舞台は最高、準備も万全。あとは私の実力次第。
『選抜、1600メートル。第2グループ!スタート位置に並んでください!』
どうやらお呼ばれだ。周りのウマ娘を見てみれば、どうやら11人で競うらしい。さあ、正念場だ。三冠をとらねば、という重責はあるけれど、まずはしっかりとここで勝って見せないとね。
■
『第2グループ!位置について!よーい、ドン!』
眼下でスタートを切った11人のウマ娘。今回の大注目は、間違いなく、ミスターシービーそのウマ娘だ。CMや歌などですでにURAの広告塔とも言える有名人の彼女がついにデビュー。そのような話題でトレーナーたちは持ちきりだ。無論、メディアも数社駆けつけて、彼女の走りをしっかりとその眼に収めようとしていた。
「お疲れ様です。西崎トレーナー」
「お疲れ。シンボリルドルフ」
その中に、しっかりとトレーナーとシンボリルドルフの姿があった。片方は彼女を心配して、片方は彼女と夢を見れるかその試金石として。
「学園長から話は聞いております。あなたが彼女をスカウトするのだとか」
ルドルフがそう問えば、トレーナーは頭をかく。
「ああ。学園長からはそう言われた。けれど、俺は彼女を強制的にスカウトする、なんてことはしないさ。それに彼女に言われてててね」
「何をですか?」
「今日の走りを見て、あなたの判断で私をスカウトするか決めてくれ。ってな」
ルドルフとトレーナーは、眼下を走るミスターシービーを見下ろした。スタートは上々。先行といった位置に彼女はついて、レースを進めている。足元には例の接着剤の蹄鉄が取り付けられていて、見るからに走りやすそうに足を動かしていた。
「調子は良いようですよ」
「だな。あの蹄鉄もシービーにはよく合うようだ」
彼女とメーカー、そして学園が勧めていたレース用の接着剤の計画はひとまずは完成を見ている。弾性を持ち、剥がれにくさを持ちながら、しかしターフへの力の伝達を確実に行う蹄鉄。レギュレーションには違反していないことは確認済みだ。
「厚み、幅、重さ。よくレギュレーションをクリアした上で、しかもこの短期間で実用化したもんだな」
「ええ、なにせ彼女がやたら力を入れてメーカーと開発していましたから。走りやすいんだって嬉しそうでしたよ。一つのレースで靴ごとだめになる。とぼやいてはいましたけれどね」
毎日試してはダメ出しを繰り返し、メーカーとの切磋琢磨を繰り返した結果の産物。とはいえまだその能力は不具合も多く、接着剤のせいで靴底が痛んでしまうのが課題のようだ。
「なるほどな。でも、シービーが走りやすいのなら、それが一番いいんだろう」
「ええ。私もそう思います…っと、そろそろ最終コーナーですね」
シンボリルドルフがそう言うと、トレーナーは視線を最終コーナーを迎えた彼女に向けた。
「さあて、どういう脚を見せてくれるんだ?ミスターシービー」
■
走りにくいね。というのが初めてのレースの感想だ。やはり他人がいて走るのと、一人や少人数で走る事とはなかなか状況が違うらしい。
「まだまだー!」
「負けるもんか負けるもんか!」
気迫もまた凄いものがる。レース中盤だけれど、皆、その気持ちは本物だ。思わず体力が削れていくような、そんな幻想すら覚える。
『さあ各ウマ娘が最終コーナーへと入っていきます!注目のミスターシービーは前から3番手!ここからどういう展開を見せてくれるのでしょうか!』
なるほど、注目と来たか。アナウンスを聞いたウマ娘たちの殺気にも似た気合が一段と増したのは気の所為ではないだろう。
「抜かせない抜かせない抜かせない!」
「抜かす抜かす抜かす!」
「ハアアアアアアアアアア!」
最終コーナーに入って一気にペースが上がる。同時に、落ちていくウマ娘と、競り合うウマ娘とに分かれてレースが展開してく。
「無理ぃいいいいい!」
「くそおおおお!」
叫びながら後ろに落ちていくウマ娘を後目に、私はなんとか前を競り合うウマ娘たちの間に割って入れた。順位にすれば4番手。前にいる3人は内側の良いコースを取ってしまっている。普通にやってしまえば、なかなか前には行きづらいであろうね。ならば。
『おっとここでミスターシービーが外によれた!これは致命的か!?』
よれたんじゃなくて、体を外に振っただけ!私は頭の中でそう訂正しながら、上半身をぐぐっと下げた。脚に力を叩き込み、蹄鉄でターフを掴む。
「さぁ、そろそろ行こうか!」
大きく手を振り、脚を上げる。ターフがめくれる感覚が脚から伝わってくるけれど構っちゃいられない。なんせ、トレーナーがこっちを見ていた。ここで無様な負けは見せられまいよ!
『外によれたミスターシービーが凄まじい追い上げだ!一人抜いて、二人抜いて!先頭に襲いかかる!』
先頭のウマ娘が思わずこちらを見た。ふふ。いいのかい?レース中によそ見なんてして、さ!
「ムリィイイイイイイイ!」
『並ばない!一気に追い抜いてミスターシービー!一着でゴールイン!!』
アナウンスに答えるように右手を上げてみせた。軽い拍手と歓声が私を出迎えてくれているように降り注ぐ。後ろを振り返ってみれば、おそらく、ゴール時には2~3メートルの差はあったであろうウマ娘が息を上げて立っていた。うん、どうやらこのレース、楽勝とは言わないけれど、納得の行く勝利を収められたらしい。遠くにいたトレーナーが親指を立ててくれている。ならばと、私も親指をしっかりと立てて彼への返事としておいた。
■
選抜レースの後、私をスカウトしてくる幾多のトレーナーをのらりくらりと交わしながら、彼を連れて屋上の喫煙所へとやってきていた。手にしているのは、私にしては珍しい紙巻きタバコ。この日のために用意しておいた少々特別な煙草だ。
「おめでとうミスターシービー。お前はこれで、間違いなく、デビューへの道筋が約束された」
「ありがとう。トレーナー。ふふ、改めて言われると嬉しいね」
そして、煙草の箱を開けながら、彼と珈琲を煽る。今日はいつものステイゴールド。良い香りが鼻と、気持ちを満たしてくれる。
「それでどう?私の走り。君のお眼鏡に適ったかな?」
「ああ。十分すぎる実力を見せてもらったよ」
頷きあう私と彼。ならば、私の行く末は決まったと言ってもいいだろう。
「じゃあ、これからよろしく頼むよ。トレーナー」
「ああ、こちらこそ頼む。シービー」
そう短い言葉を交わしながら固く握手を交わす。そして、煙草の厚紙の箱の中、そこにあった金属の箱、さらにその中に大切に仕舞われている日本を代表する紙巻きタバコの逸品。彼に向けて箱の中身を一本、手渡した。
「…これは?」
「ふふ。ちょっと良いタバコ。知ってるでしょ?」
その名も、ザ・ピース。この日のために用意しておいた特別な煙草だ。そして、シルバーのジッポを使い、彼の煙草に火をつける。
「ん」
そして、彼にシルバーのジッポを渡せば、同じように私の煙草に火がついた。
「これで運命共同体。ね、ミスタートレーナー?」
「ミスター…トレーナー?」
「そ、私がミスターシービー。それなら、私のトレーナーはミスタートレーナー。悪くないでしょ?」
「…ふ。確かにな」
芳醇なバニラと煙草の香りが喫煙所を満たす。そしてタバコの煙をくゆらすように、彼に一つの夢を告げた。
「それでね、ミスタートレーナー。正式に私のトレーナーになってもらったわけだけど、私の夢、聞いてもらっても良いかな?」
「…ああ。お前の夢か。聞かせてもらってもいいか?」
「うん。私の夢。それはね」
トレーナーの顔を見据えて、しっかりと言葉を告げた。
「URA史上初。