ターフの重い感じを足裏にしっかりと覚えながら、体を斜めに傾けながらコーナーへと入る。ラチが顔に近づいてくるが、構わず、蹄鉄とターフのグリップが失う寸前まで体を寝かせてスピードを維持しながらコーナーを駆ける。
「もっと踏み込め!気が緩んでいるぞ!」
遠くでトレーナーの声が聞こえた。ふむ。踏み込むか。脚を下げる力を意識して、ズドンとターフに蹄鉄を沈めれば、ぐぐっと体が前に出る。なるほど、言われた通りだね。まだまだ私は踏み込みが甘いらしい。気づけばホームストレッチ。体を垂直に立てて、頭を下げる。上半身の反動を使って、脚でターフをえぐるように。
「よしいいぞ!ラストスパート気合入れていけ!」
言われた通り、すべての体力を脚に叩き込む。残り200メートルのラストスパート。雨粒が眼に入る。顔に当たる。痛いし寒いが、それがまた気持ちが良い!
「ハァアアアアアアア!」
気合を入れてラスト100メートル!腕を上げて、脚を蹴って、上半身を首ごと動かして、推力を全部前に!
「ゴール!2000メートルのタイムは2分8秒3!上がり3ハロンは39,8秒!」
息を整えながら、トレーナーの元へ歩み寄る。今日の天気は最悪で、不良バ場。そこで2分10秒を切れたのはなかなかいい仕上がりなのではないだろうか?
「よし、この不良バ場で2000メートル2分10秒を切っているなら上々だろう。ただ、まだ改善点もあるのはわかるな?」
「うん。私はどうやら、時々踏み込みが甘くなる。その上で、どうも気が散ってしまうらしい」
トレーナーがついて解ること。やはり第三者の遠慮のない意見というのは大切だ。カーブを楽しむあまり、踏み込みが甘くなったり、レース場の外の出来事がきになってしまうきらいがあるらしいのだ。トレーナーに指摘を受けてようやく自覚できたものだ。
「その通り。特にカーブでの踏み込みの浅さはレースでは致命傷になることが多い。そしてなにより、その踏み込みの浅さが脚に負担をかけている」
「脚に負担…」
「そうだ。蹄鉄でしっかりと地面を踏みしめない。ということは、その代わりに体のどこかがそのパワーを受け止めている、ということが言える」
なるほどと頷いておく。
「踏み込みが浅くなることによって他の部分に力が分散すると言い換えてもいいか。となると、それは推進力が弱まるということもあれば、負荷が体にかかるという事にほかならない。例えばその一つには、靴と足の僅かな隙間が余計な力が加わることによって大きくなって、大きくなった隙間の間を動いてしまった足の指や爪、そういった末端を痛めてしまうキッカケにもなっている」
うんうん。たしかにね。最近、少しばかり自分の爪が割れている事に気がついて、トレーナーには相談した事が記憶に新しい。
「とはいえ、これを治すということは、いままで走り続けた癖を治すってことだからな。まぁ…のんびりやるしか無いだろうな」
「そうだね。いやでも、ホント、トレーナーに私を見てもらってよかったよ」
「はは。ま、不幸中の幸いってやつだな。それにお前の、自分の体を痛めつけるほどの踏み込みの力強さ。これは、癖を解決出来た上で推進力に変換できれば相当な武器になる。なんとか、クラシック初戦、皐月賞までにはフォームをある程度は完成させたいな。その靴と一緒に」
トレーナーが指を指したのは私の靴であった。レースペースで2000メートルを走りきった私の靴の蹄鉄…正確には接着剤が微妙に剥がれかけていた。
「ありゃ。2000はまだ厳しいかー」
私がそう呟けば、トレーナーも軽く頷いていた。
「そうだな。とはいえ、まだ時間はある。今日の結果をしっかりと伝えて、靴は…また良いものを持ってきてもらおう」
「そうだね。トレーナー」
仕方がないので靴底が少し分厚い、普通の蹄鉄の練習靴に履き替えながら、私はトレーナーに頷きを返していた。さてさて。これからどうなることやらね。
■
練習上がりにパイプでタバコを吹かしてみていれば、そこに現れたのは久しぶりのマルゼンスキー。
「や」
軽く手を上げてみれば、向こうも笑顔を浮かべて私に手を降ってくれた。
「無事スカウトされたんですってね。やったじゃない、シービーちゃん」
「うん。まさか私がスカウトされるなんてねー」
「ふふ。私もそう思っていたわ。でも、あのトレーナー、すごい評判がいいから、お姉さんも安心よ」
ウインクをしながらそんなことを言う彼女に、珈琲を出してやる。今日はブルボン。オレンジの香りでさっぱりと気分をリフレッシュ。
「はい、かけつけ一杯」
「あら、ありがと。…うん、オレンジみたいないい香り。美味しいわ」
「そう言ってもらえると恐悦至極だね。おかわりもあるから、いつでも言って」
彼女が珈琲を楽しみ、私がジャグを楽しむ。お互いに会話はあんまりないけれども、なんとも居心地のよい空間である。というか、こう見るとマルゼンはやはり美しい。足も速くてスターホース。本来の馬であっても、人気が出るのは納得である。
「あら、どうしたの?熱い視線。お姉さん恥ずかしいかも」
私の視線に気づいたのか、軽く頬を赤らめながらそんなことを言うマルゼンスキー。うん。その仕草も可愛いじゃないか。
「マルゼンの横顔が可愛いと思ってね。つい見とれちゃった」
「あら、お上手ね。ふふふ」
「あはは」
お互いに笑い合いながら、マルゼンは珈琲を飲みきり、私は灰を灰皿に落としていた。
「それで、少し小耳に挟んだのだけれど」
「うん?」
「無敗の三冠ウマ娘を目指す、って本当?」
おや、それを何処で小耳に挟んだのか。たしかまだトレーナーぐらいにしか告げていないはずなのだけれど。
「隠すことじゃないから。本当だよ」
「ふぅん…」
どこか、試すような眼でこちらを見てくるマルゼンスキー。視線が私の視線と混じり合う。
「本気?」
「うん。本気」
「難しいことよ?」
「承知の上さ」
「トレーナーには?」
「いの一番に告げてあるよ。協力してくれるって」
軽い問答を繰り返した私達。そして、マルゼンは私から視線を外すと、どこか遠くを見つめ始めていた。憂いを含むような表情。そしてついて出てきた言葉が。
「羨ましいわね」
ああ…そう来たか。確か、このマルゼンも、速いのだけれどURAの規定によって出れるレースが少ないのだったか。それにあまりに速すぎて、相手の心ごと折ってしまうのだとか聞いたこともある。それはまるで、史実のマルゼンスキーのようだ。
「羨ましい、か。じゃあ一つ約束してよ」
「約束?」
「しばらく、ドリームにいかないで現役を続けてくれない?」
私の言葉に、首を傾げたマルゼンスキー。まぁ、そりゃあそうだろうねぇ。マルゼンは現在、すでに現役時代が長いしね。そろそろドリーム入りなんじゃないのーなんて声も囁かれ始めた頃合いでもあるのが一つの事実。
とはいえ、私はそんなことは許さない。なんせあのマルゼンスキーだ。私も彼女と同じウマ娘になったんだったらさ、一つ、試してみたいじゃない?
「私が無敗の三冠ウマ娘になったらさ。その冬。ジャパンカップで一番を掛けて走ろうよ?マルゼンスキー。君は
そう言いながら、私はパイプタバコに葉を詰める。
一段目は、緩めに。
二段目は、少しキツメに。
三段目は、更に詰め込むように。
特に三段目は、普段のセオリーならばカステラぐらいの弾力が望ましいと言われている。でも、私が好きな吸い方は少し違う。更に固めに詰めるのが好みだ。セオリーなんて無視しても良い。自分の好きなように吸えるのが、パイプタバコの良いところであろう。
マルゼンスキーに視線を戻してみれば、ああ、なるほど、彼女も生粋のウマ娘であるなと納得がいった。
「…本気?」
「本気本気。だってせっかく速いウマ娘が現役にいるんだもの。今はまだ目指している段階だけど、クラシック三冠のウマ娘とその速いウマ娘、どっちが速いか決めたくない?」
「…決めたいわ。すごく、すごく決めたいわ!」
ぐぐいっと顔を寄せてきたマルゼンスキー。ふふふ。いい顔をしているね。まるで、獲物を狩るライオンのような笑みじゃあないか。
「じゃ、そういうことで。ああ、でもマルゼン。能力が下がってきてるってことを言い訳にしないでよね?そんなの、退屈だから」
「あはは。シービーちゃんこそ。無敗の三冠を目指して脚を使い果たしました、なんて不甲斐ないこと、言わないでね?」
そう言いながら、お互いの右手を差し出して、固く握る。うん。これは一つ楽しみが出来た。史実ではまず行えない。アニメやアプリでも行えない真剣勝負。ミスターシービーとマルゼンスキーの叩きあい。
「ふふ…本当に楽しみだ。
ポツリと出た言葉を噛み締めながら、パイプを口に加えてマッチで火をつける。赤くなっていきながら、盛り上がっていくジャグ。そのさまは、まさしく私とマルゼンの気持ちそのものであろう。