学園の屋上で吸う煙草。クラシックの冠を被ったこの体で吸うそれであったのだけれども、良くも悪くもその味に変わりはない。
「うーん…なんだろうか。レース中は興奮したんだけれど、レースが終わるとなんだか…」
身体が気だるくなるというか。車やバイクで言えばクラッチを切っている状態というか。ただ、エンジン…そう、エンジンだな。頭というか、心は回っている感じ。早くレースをしたい。しかしながら身体はまだそこに追いつかない。
「違う。そうじゃないね。どちらかというとこれは…」
自分の思考を言葉で否定しながら、自分の心を感じ取る。ゆっくりとくゆらせる煙草の煙が青空へと吸い込まれていき、芳しく香る煙草の匂いが春風に乗り、辺りに漂い始めた。
「…」
憧れ?いや、違うな。闘争?そうでもない。ミスターシービーへの責任感?そんなものはどうでもいい。楽しい?うん。楽しいけれど、この気持はまたそれとは違うもの。
「…焦り?」
そう呟いた瞬間、なにかがカチリとはまり込んだ。ストンと腑に落ちるとも言える。
「焦りか。とは言え、何に焦っているんだろうね、アタシ?」
実力?いいや、実力は十分だ。ダービーへのプレッシャー?いやいや、勝負は時の運。負けても勝ってもそれはきっと楽しいことだろう。
「楽しいよね。きっとワクワクするよ。でも何を焦っているんだろうか、私は」
ふと、煙が消えた。どうやらジャグが完全に燃え尽きたらしい。コーンパイプを灰皿の上で軽く叩いて、灰を灰皿にしっかりと落とす。そして軽く中を掃除してみれば、何か違和感が伝わってきた。
「…ありゃ。コーンパイプの底、抜けちゃった」
パイプを覗けば底から見える向こう側の景色。あっちゃあ。寿命だね。確か新しいパイプ…は、家か。あ、いやまてよ。こういうときのために…。
「あったあった。メープル」
いつものコーンパイプとは材質の違うパイプ。カエデで作られたソレ。コーンパイプは正直に言ってしまえばすぐダメになる代物であるから、予備で喫煙所に置いてあったものだ。
「ま、味は好きじゃないんだけど」
メープルの木材は、コーンパイプに比べると癖が少ないのが私にとっては欠点。ま、ジャグの味を感じるにはいいんだけどね。好みの問題だ、好みの。
「そうだねー…このパイプに合うジャグ…」
家から持ってきているジャグはアークロイヤル、ダ・ヴィンチ、あとはチューチュートレイン。この中で比較的重いもの…。
「うん、チューチュートレインでいいかな」
缶を手に取って開けてみれば、うん。この香り。甘いバニラの香りだ。そして、この煙草の特徴、刻んでいない煙草であるという点がある。
「ちょーっとほぐすのがめんどくさいんだけど、この手間もまたいいんだよね」
缶の中でほどよくジャグを解しながら、メープルのパイプに煙草を詰める。この煙草は結構細かく解れるので、少しキツメにジャグを重ねて、マッチを擦った。
「………ゲホッ!きっつー。うん、でも、いい香りだね」
アークロイヤルやダ・ヴィンチにはないガツンと来るジャグの香りとニコチンの感じ。ぐーっとくるこのきつい感じ。一瞬頭がくらりとするけれど、5分もすれば慣れるものでいつもの調子で香りを楽しみ始めた時、頭の中に一つの言葉が浮かび上がった。
「ああ、キツイのか」
そうだ。どうでもいいと思っていたミスターシービーという名前への責任感。三冠ウマ娘への責任感。更には、一般人、男のときには味わったこと無い、すごい人数からの期待。そういったものが、私の気持ちを少々焦らせているようであった。つまり―。
「成り代わったのか。それとも成ってしまったのかは判らないけれど、やっぱり、ミスターシービーっていう名前は、ただの一般人だった私には重いみたいだね」
重いのだ。ああ、そうだな。やっぱり重いのだ。ミスターシービーを背負うのは。そう思った時、口から不思議とこんな言葉が漏れていた。
「諦める?アタシ」
不意に出た言葉に、くすりと笑ってしまう。
「冗談。諦めるなら無敗の三冠ウマ娘の宣言なんてしていないし、マルゼンに宣戦布告もしないよ」
ああ、そうだ。焦ったぐらいで諦めるなら、そんな大きなことは最初から言わないさ。まったく、こんなことで少しでも悩むなんて私らしくもない。自由に、楽しく、わくわくしなきゃ。せっかく相手は本気で来るんだ。私も、私も本気でやって、レースを走って、あとは。
「野となれ山となれ、だ!」
気分を変えるようにぐーっと伸びをしてみれば、心の焦りが少しは軽くなったような気がする。と、そんなときだ。ふいに、喫煙所の扉が開けられた。
「よ。俺も一服付き合っていいか?」
トレーナーだ。その左手にはいつぞのコーンパイプが握られている。しかも右手にはマックスコーヒーなんてものが2本。
「もちろん。ああ、きついジャグだけど試してみる?」
「お?いいぜ。ほい、差し入れのコーヒーだ」
トレーナーはそう言いながら、私の隣に腰をおろしていた。受け取った缶コーヒーを開けて一口、口をつけてみれば、練乳のあま~いコーヒーの味が、それはコーヒー牛乳じゃないのかな?と言わんばかりの甘い味が舌を刺激する。
「相変わらず甘いねー。このコーヒー」
「ん?ああ、まるでコーヒー牛乳みたいだよな?」
どうやらトレーナーも同じ感想らしい。頷いてみれば、しかし、トレーナーは首を横に振る。
「ま、コーヒー牛乳みたいだとしても、これはれっきとした缶コーヒーなんだけどな」
なんの気無しに告げられた言葉。ああ、そうだ。コーヒー牛乳みたいだとしても、これはれっきとした缶コーヒー。
「そうだね。確か、『人生は苦いから、コーヒーくらいは甘くていい』だっけ?このコーヒーのキャッチコピー」
「なんだそりゃ。初耳だぞ?」
「あはは。そりゃそうだよ。これ、ライトノベルの小説のセリフだし。でも、いい言葉でしょ?」
人生は苦いから、コーヒーくらいは甘くていい。そうだね。きっとミスターシービーっていう馬の生涯をなぞろうとするのならば、苦味もあるだろう。だけど、ここにいるのは私だ。
「酸いも甘いも、トレーナーが付き合ってくれるのなら問題ないさ」
そう言って私はパイプを咥えた。コーヒーの甘さと、ガツンと来るジャグの香りのお陰だろうか。―少しは、落ち着けたようだ。