皐月賞からダービーまでの間は驚くほどに短い。ほぼほぼ1ヶ月と少ししか無いその練習期間で、私達ウマ娘は、2400の距離や、皐月の行われる中山レース場とは全く違う東京レース場の構成に対応したり、戦略を変えてみたりと様々な調整を行っていくわけだ。
具体的に皐月賞とダービーを較べてみれば、ウマ娘の私が感じる違いは大まかに3つ。距離、起伏、直線の長さだ。
距離は言わずもがな。400メートル伸びている。たった?と思うかもしれないが、たかが400メートル、されど400メートル。このスタミナは、一朝一夕でつくものではないし、そもそもの適性もある。
起伏は中山と東京では明確に違う。中山はスタート直後に坂を駆け上がり、そして向正面で下り、そしてもう一度坂を登ってゴールだ。
しかし東京レース場はスタート直後に坂はない。向正面、通称、大欅のあたりで緩やかに登る。だから、本当の私の知る競馬ですら大欅周辺では馬群が固まるわけだ。そして4コーナーから相当駆け上がる急な坂が待ち構えている。この坂で皐月の2000メートルを好走したウマ娘であっても、結構スタミナを持っていかれてラストスパートが鈍るウマ娘も居るんだ、とはトレーナーの談だ。
そして最後に、直線の長さ。この直線の長さとは最終直線のことを意味する。―中山の直線は短いぞ、という実況にもある通り、中山は300メートル強の直線しか無い。だから、4コーナーを抜ける前から結構スパートに入るウマ娘が多い。私もそうだった。
だが、東京は坂も含めて500メートル強の直線が最後に待っている。しかも前半は先に述べた通り急坂だ。おおそよ200メートルの急坂でスタミナを持っていかれ、300メートルの平場の直線、どれだけスパート出来るのかで勝負が決まる。たとえ200メートル弱の坂をトップで登りきっても、300メートルの平坦で差されてしまっては意味がない。しかし、300メートルの平坦があるからと言って200メートル弱の坂で気を緩めれば逃げられる。
「…難しいねー」
トレーナーから渡された資料を練習コースの脇で眺めながら、思わず天を仰いだ。アニメやゲームとかだとそんなにコースを意識していなかったけれども、実際走るとなると…これがなかなかねぇ。
「シービー。難しいのは当たり前だ。なんていったってウマ娘の頂点を決めるレースだ。並大抵のコースではないし、他のウマ娘も全力を超えてすべてを賭けてくる。しかも同期に『無敗三冠』を目指しているウマ娘がいるとなれば、その気合は天元突破しているだろうよ」
「わかってるよトレーナー。モンスニー、カツラギ、ダーバン、皐月で競い合った彼女らの気合は見てて…ヤバいって言葉しか浮かばないもの」
他にもビンゴカンタやウメノシンオーなど、史実のミスターシービーと競い合った馬の名を持つウマ娘たちも相当気合がノッている。実際、トレセン学園で練習をしていると、彼女らの視線をひしひしと感じることが出来る。まるでそれは、焼けるような夏の日差しのように真っ赤で、輝いていて、目眩がしちゃいそうだ。―ただ。
「…ニホンピロウイナー。彼女がダービーを辞退してしまったのは少し、残念だなぁ」
しみじみと呟けば、トレーナーも静かに頷いてくれていた。
「担当トレーナーと相談して、これからはマイル・短距離路線に向かうそうだ。2000は長すぎたって話をしていたよ」
馬としての史実を知っていると、彼女はきっとこれからマイルの王者として君臨すること間違い無しではあるのだろう。でも、皐月賞で競い合ったあの熱。できれば、ダービーでも味わいたかったものである。
「さて、シービー。話はここまでにしよう。ひとまずはダービーまで最後の追い込みだ。今日は左回りで3000を2本、その後、筋トレでトモを鍛えるぞ」
「ん。わかったよトレーナー。早速やろうかー」
ぐっと伸びをして、コースへと入る。すると、見慣れた顔が、コースをゆったりと回っている姿を確認することが出来た。
「お、ルドルフー!」
手を降ってみれば、あちらも私に気づいたのであろう。笑顔で手を振り返してくれていた。
「やあ、シービー。これから練習かい?」
「うん。ダービーに向けて3000を2本。ルドルフは?」
「精が出るな。私はメイクデビューに向けて調整中だよ」
「そうなんだ?でもルドルフ。君、秋ごろにデビューとか言ってなかったっけ?」
確かそう。秋のデビュー、それを目指していたと思ったのだけれど、ルドルフは首を横に振った。
「そうなんだが…すこぶる調子が良くてね。夏頃に新潟でデビュー戦を走ることにしたんだ」
そう言いながら、ルドルフは笑みを浮かべる。なるほど、調子が良くてときたものか。いやはや、慎重とも言えるルドルフが予定を早めるということは、本当にすこぶる調子がいいのだろう。となると、ちょっと試してみたいものである。
「そうなんだ。ふふ。じゃあ、どうかな、並走なんて」
「皐月賞を獲った、クラシック最強の君とか?―もちろん、願ってもない。3000を2本だったか」
「うん。ああ、ただ並走するのもつまらないから、勝負しない?」
少し悪戯っぽく笑顔を浮かべてそうルドルフに声をかけてみれば、仕方ないな、と苦笑を返された。
「いいだろう。では、負けたほうが今晩の夕食を奢る、というのはどうかな?」
「いいじゃない。じゃ。やろう!トレーナー!そういうことだから、スタートの合図、よろしくー!」
トレーナーにそう声を掛けてみれば、やれやれと呆れ顔で頷かれた。いいじゃないか、楽しくやったほうがさ。そう思いながら視線を送って催促してみれば、トレーナーは、苦笑を浮かべながらも、右手を天に高く掲げてみせた。
「位置について、よーい、ドン!」
トレーナーの声に合わせて、私とルドルフは同時に地面を蹴る。さてさて、未来の皇帝はどんな走りを魅せてくれるのだろうか。
■
練習終わり、喫煙所でのんびりと煙を漂わせて居たのだけれど、ふいに、喫煙所のドアが叩かれた。トレーナーかな?と視線を向けてみれば、そこにいたのは一人のウマ娘。
「お邪魔しても?」
「どうぞ。たばこ臭いけど」
招き入れたウマ娘は、煙草の匂いを気にすることもなく、私の正面の椅子へと腰掛けた。さてさて、一体なんの御用でしょうか?
「どうしたの?」
「詫びをと思いまして」
そう言いながらそのウマ娘は静かに頭を下げた。…さて、詫びをされたのはいいんだけれど、その理由が全く判らない。頭の中にハテナマークが思い浮かぶ。それがきっと表情に出ていたのだろう。ウマ娘は言葉を続けていた。
「ダービー、辞退しました。聞きました、私との競い合いを楽しみにしていたと」
「…ああ、確かに楽しみにしていたよ。ニホンピロウイナー。でも、それは君が決めたことでしょう?私がとやかく言うことじゃないよ」
「それでも。クラシックを共に走った者として、ミスターシービーさんに直接、ご挨拶せねばなるまいと」
そう言いながら、さらに頭を下げたニホンピロウイナー。なるほどね。どうやら彼女はなかなかに義理堅いウマ娘であるようだ。
「そこまで言うなら受け取るよ。聞いたよ?短距離路線に行くんだって?」
「はい。2000は長い旅路でした。私は、私の旅路を行こうかと思います」
「そっか」
沈黙。どうやら彼女はそんなに口数が多いウマ娘では無いらしい。―しかし、クラシックを共に走ったとはいえ、こんな風に詫びを入れられるのはなかなか謎である。
「…コーヒー、飲む?」
「頂ければ」
ステイゴールドを淹れて彼女に手渡してみれば、静かに、しかしそれを楽しむように、穏やかな笑顔でコーヒーに口を付ける彼女。
「でもわからないな。クラシックを君と走ったけれど、私とピロウイナーはそんなに親しくはないでしょう?」
疑問をそう投げてみれば、彼女は、視線を足元へと落としていた。…ああ、そういえば、彼女にも接着剤を紹介していたっけ。
「…この蹄鉄。いえ、接着剤。このおかげで私は不良馬場でも全力で走ることが出来ています。この受けた恩。私と貴女の絆です」
ふと思い出す。彼女は、私と走った皐月賞では馬群の中ほどでレースを終えていた。史実ならば最下位だったはずなのに。後に天皇賞秋、2000メートルを3着で走り抜けたニホンピロウイナーは距離が苦手なのではなく、不良馬場が苦手だったのではないか、とも言われているのだ。
「きっと、この蹄鉄で走る前に皐月賞を走ったのであれば、気持ちの何処かにクラシックへのあこがれが残ったことでしょう。しかし、全力で走って、私の才の上限が2000メートルであると知りました。知ることが出来ました」
ニホンピロウイナーが視線を上げた。その瞳に宿るのは、まるで、満月のような強い光。
「だから心置きなく。短距離で全力を出すと決意することが出来たのです。故に、貴女が無敗のクラシック三冠を目指すのであれば、私は、短距離覇者となる決心がついたのです」
そしてまた、私に向かって頭を下げる。
「だから、貴女には詫びなのです。貴女のお気持ちを、少しでも曇らせてしまった」
吐き出された言葉に宿るのは、確かな重み。私にとっては些細なことだとしても、彼女にとっては非常に重いものだったのだろう。
「ニホンピロウイナー」
「はい」
「正しく、詫びを受け取るよ。ただ、何か勘違いしていないかな?」
私がそう疑問を投げかければ、下げていた頭を上げて、あの強い光が私を射抜く。
「勘違い、ですか」
表情は戸惑いを見せている。私は微笑みを浮かべながら、言葉を続けた。
「うん。別にクラシックでなくても、君とは走れるじゃない?」
「…いや、しかし。ミスターシービーさんの適正距離と、私の適正距離は違います」
「あはは。勘違いだよ、それは」
私は案外と勘違いされているけれど、スタミナを訓練で伸ばしているクチだ。トレーナー曰く、もともとお前は2000メートルまでの適正だろうな、とのことだしね。幸いにして、ニホンピロウイナーに比べて伸び代があった、というだけの話だと思っている。だが、目の前のウマ娘はどうやら納得はしていないようだ。
なら、こういうときは、発破をかけるしかあるまいて。
「じゃあ、一つ提案しよう。今回は君は私の距離でレースをしてくれた。だから次は、君の距離で勝負がしたい」
「私の、距離」
「うん。どうだろう。短距離覇者となった君。無敗三冠の私。何年後になるかは判らないけれど、君の距離…そうだな。マイルチャンピオンシップで、スプリント対決なんてさ」
私がそう言い切れば、ピロウイナーはゴクリと、喉を鳴らしていた。
「しかし…全力でない、ミスターシービーさんとレースをしても…」
「あはは。ニホンピロウイナー。舐めないでよ?アタシはこう見えても、最終直線のスプリントが大得意なんだ。例えそれが1600であっても、誰にも負けないくらいにはね」
「…左様ですか。ですが、皐月賞の第四コーナーでは、ミスターシービーさんより私のほうが速かったように思いますが?」
「あはは!言うねー!じゃあ、勝負の約束は成立、ということでいいかな?」
「無論です」
私とニホンピロウイナーはそう言うと、お互いに右手を差し出し、固く握りしめていた。ふふ。これは一つ楽しみが増えた。秋のマルゼンスキー、そして無敗三冠対決シンボリルドルフ、その先に、また一つ。