東京レース場の喧騒は彼方へと消え、日常が戻ってきた校舎の屋上。我がいとしの喫煙所ではいつものメンツというか、私とトレーナーの2人がのんびりと紫煙を楽しんでいる。
「落ち着いたな。ようやく」
「落ち着いたねー。ほんっと」
ここ一週間ほどは、ずーっと出ずっぱり。雑誌取材に音源取り、パカチューブにテレビに新聞にと、乾く暇がないという奴である。今日はそれが落ち着いてひさびさのお休みという奴だ。ま、メディアの仕事をしているうちは練習はお休みしているわけで、身体的にはちょうどいい休養になっているんだけれどね。
「いやはや、勝ち続けるっていうのもなんか、損な気がするよ」
「贅沢な悩みだなぁ、シービー」
そう言いながら、私とトレーナーはいつものピースを咥えていた。気づけば、20本あったそれは、8本にまで減っている。記念すべき初勝利、ホープフルでのG1制覇、皐月、ダービー、菊花の3冠、そして、ジャパンカップで世界の冠。このTHE Peaceもあと4回吸えば、その役割を終えてしまう。
「うーん…新しいのを買うか、悩むね」
「ん?何をだ?」
「ああ、このTHE Peaceのこと。ほら、勝ったレース全部で吸ってるわけじゃないけれど、私とトレーナーの勝利記念、みたいなものじゃない?」
「ああ、確かにな」
「残り8本。だから、正味4勝でなくなっちゃうでしょう?新しく買っとかないとなぁって思ったんだけど、なんか、それも違うなーって」
言いながら、ふわあと煙を空中に漂わせる。バニラの香りが鼻をくすぐった。
「…ま、確かに、このタバコだからこそっていう面もあるな」
「でしょ?同じものでも、新しいものじゃあ何か違うって気がするんだ。トレーナーはどうしたら良いと思う?」
缶を手のひらで弄びながら、トレーナーへそう質問を投げてみた。せっかくならばこの煙草はずっと味わいたい。でも、新しいものもなんか違う。言葉にするのが難しいけれど、私にとってはそういう類のものなんだ。ふう、と煙草の煙を吐き出して、トレーナーの返事を待った。
すると、なんの気無し。そういう雰囲気を醸し出しながら、トレーナーは私にこう、告げる。
「別に、無くなったら無くなったままでいいんじゃないか?」
無くなったら無くなったままで。ふむ。どういうことだろうと、トレーナーの瞳を覗き込む。
「なんだ、不思議に思うか?」
「そうだねー。トレーナーだったら、俺がまた用意する、とか言いそうかなーって思ってた」
「ああ。ま、つまりは…これが無くなっても、お前と俺の関係が消えるわけじゃないし、走らなくなるわけでもないだろ?」
「確かに」
「ジャグだってあるわけだし、これからも楽しめるさ」
そう言って、ぐっとトレーナーは紙巻きを吸い込んだ。赤くなった先端が、みるみるとその体積を減らしていく。私もそれを真似して、ぐっと、肺に息を吸い込んだ。
「それに、数が限られていたほうが、これからはどのレースを走って吸うか。その取捨選択も楽しみの一つになるだろう?」
「…確かに。その考えは無かったかも。となるとー、有マと来年のジャパンカップは走るから、他2つのレースかぁ」
「宝塚とか天皇賞はどうだ?」
「んー…今のところピンとこないんだよね。エースが走るなら出たいけど。あ、でも、実はちょっと走りたいレースはあるんだ」
「ほう?」
エースとの勝負、ルドルフとの勝負、これはきっと、来年のジャパンカップで楽しめるはず。だから、その先で一つ、どうしても走りたい相手がいる。
「ニホンピロウイナー、最近短距離路線で勝ち始めたでしょう?彼女と走りたいから、再来年あたりにマイルを一発って思ってる」
私がそう言うと、トレーナーはふう、とため息のような煙を吐き出していた。
「マイルで再来年か。そりゃ、また気の長い話だな」
「ふふ。でも、そのぐらい先のことを考えても楽しいかなって思ったんだ」
例えば、ゲームのアプリは3年で終わり。それはつまり、私にとっては来年だ。でも、それは勿体ない。せっかくなら、その、先を。
「だから、その一服までは付き合ってくれる?トレーナー」
「当たり前だろう?俺はお前のトレーナーだぞ。それに、その一服までなんて勿体ない。その先も一緒にやってやるさ」
やれやれといった顔で肩をすくめるトレーナー。ふふ、流石、アタシのトレーナーだ。
■
「ついに、シービーの前で猫を被るのを辞めたんだね。エース」
「おう。面と向かって言われちまった。本当のあたしを魅せてくれって」
練習場の片隅で、トレーナーと話しているのはカツラギエースである。軽くストレッチをしながら、カツラギは屋上へと視線を移していた。
「今頃、あいつはあいつのトレーナーと一服中だろうな。ったく、マイペースっつーか」
「いいんじゃない?その間に、一歩でも二歩でも彼女に近づければ」
「おう。で、今日は何をすればいい?」
カツラギエースはそう言いながら、トレーナーに視線を向けた。
「2000メートル2本。その後筋トレ。今年の有マに出ない分、基礎トレをしてしっかりと身体を作る」
トレーナーはといえば、微笑みを浮かべたまま、カツラギエースの視線に答えるように、淀みない返事を返す。
「わかった。で、その先は?」
「エースさえ良ければ、来年の春、大阪杯から始動してもらおうと思ってる。宝塚記念でG1に挑戦して、天皇賞秋を経由してジャパンカップでシービーとルドルフを捉える。っていうのでどうだろう?」
気軽な感じで告げられたその言葉に、カツラギエースの口角がぐっと上がる。
「いいね。いいねぇ!気合が入るってもんだ!じゃ、早速行ってくるぜ、トレーナー!」
「うん。でも、無理はしないこと。まだ、ジャパンカップの疲れが抜けきってないんだからさ」
「わかってるよ!」
大きくそう叫ぶと共に、カツラギエースは大地を蹴る。ズドン、と大きく捲れた練習場のターフが、彼女の成長ぶりを示すようだ。
「壁は大きいけれど、きっと、キミならば超えていけるさ。カツラギエース」
トレーナーはその背中を眼で追いながら、そう呟いていた。