〈序〉
『これは惚れ薬ではありません』
そう、魔女は言った。
無理やり自分を好きになってもらうのはちょっと悲しい。
だから惚れ薬じゃないほうがいい。臆病な自分の背をぽんと押してくれるなら。
『月の雫を加えればより効果が出ます』
魔女が湖の上に輝く月を見上げる。
私に月の雫を取る魔法は使えない。そんな高度な魔法を使えるのは、ゼノン殿下やアルウェス・ロックマン様、ナナリー・ヘルのような優秀な人たちだけだろう。
『どうか後悔のないよう、使用方法を守ってお使いください』
月の光に照らされて、フードの陰から魔女の美しく整った顔が
私は頭を下げると、ドレスの裾を
〈魔法学校編1〉
私はナナリー・ヘル。魔法学校の六年生である。卒業後の進路がひと通り決まり、教室の空気が少し浮き足立ち始めたころ、ゼノン王子の周囲がおかしくなった。正確には王子の親衛隊の様子がおかしい。
これまで五年半、王子の親衛隊は遠巻きに王子をみつめる貴族女子の集団であった。しかし、最近は休み時間になると王子の席の近くにやってきて、堂々と王子に話しかけているのだ。まるでロックマンの周りの貴族女子たちのように。
進路が決まった同級生たちの最近の関心はもっぱら卒業パーティーについてである。卒業パーティーにはパートナーと一緒に行く子が多いそうで、ベンジャミンはサタナースから誘ってほしい、でも無理だったら最後は自分から誘う、と毎日のように話していた。
私はダンスをするつもりはないし、パートナーも必要ない。パーティーのご馳走には興味がある。
こんなイベントとなれば隣の席のあいつ、ロックマンの周りは女子が群がっていつもより騒がしくなる。六年間も隣の席に座っていれば慣れてしまって別に驚いたりしない。貴族女子の『邪魔だからヘルはあっちにいけ』という視線を完全に無視して、私はいつもと変わらず自分の席で勉強をしていた。
ところが、予想に反してロックマンよりもゼノン王子の周りがとても騒がしくなった。
王子やロックマンは何人もの女子とダンスの約束をするそうで、ダンスの約束をした女子がダンスの相手だけじゃなくてパートナーにしてくれとアタックしていた。王子が断ってもまったくめげていない。二度三度とやってきては王子に積極的に話しかけているのである。
移動教室や食堂でも同様で、女子に囲まれて身動きが取れない王子をロックマンが庇いながら校舎内を移動しているらしい。ロックマンが本当に王子の護衛をしている姿を初めて見た。
授業が終わるとロックマンは王子を寮まで送り、また校舎に戻ってきている。その後は図書室で勉強していたり、マリスたちがロックマンを取り囲む日常の光景を見かける。
私と王子は授業の前後にちょっと話をしたり、魔法や勉強について意見交換をするような交流があったが、王子にそんな暇はなくなってしまったようだ。
王子の親衛隊の異変はエスカレートしていって、とうとう休み時間に教室で王子に「好きです」と告白する女の子まで出てきた。王子の席の近くでお喋りをしていた私とサタナースは目を真ん丸にして空いた口が塞がらなかった。王子とロックマンも数秒固まるくらいは驚いていた。
いったい何があったんだ貴族女子!?
「どうやら妙な薬が広まっているようですわ」
「妙な薬?」
放課後、王子を寮に送り届けて校舎に戻ってきたロックマンとマリスが
「何でも、惚れ薬みたいなものらしいのですけど」
「惚れ薬にしては変じゃないかな。惚れ薬なら普通は殿下に盛るだろう? むしろ彼女たちの気持ちが異様に
「そうですわね。これまで抑えていた気持ちが暴走しているように見えますわ」
「そんな薬が広まっているなら恐ろしいね」
「ナナリーはどう思います?」
「へ?」
私は王子の親衛隊の異変について何も知らない。マリスと一緒に廊下を歩いていたところを、マリスがロックマンに呼び止められ、私が一人で図書室に行こうとしたらマリスに手を掴まれて連行されたのだ。
「貴女、わたくしたちの話を聞いてました? こういうときに貴女の知識と頭脳を使わないでどうしますの?」
「うーん、でも実害が出てるわけじゃないんだよね?」
「実際に問題になってるじゃありませんの! ゼノン殿下もアルウェス様も迷惑に思ってらっしゃいますのよ!?」
「そ、そっか」
マリスも王子の親衛隊と同じようなことをやっているじゃないか……と思ったが、口に出すのは
「殿下を慕うのは仕方ないよ。ただ、節度をもって接してくれればいいんだ」
「同感ですわ。それにしても、この
「
ロックマンが窓に視線を移した。マリスも私もつられて窓を見る。
「もうすぐ満月だね」
「ええ、確か明後日ですわ」
満月が何か関係があるというのだろうか?
ロックマンはそれ以上は何も言わず、顎に手を当てて考え込んでしまった。
「アルウェス様? どうかなさいまして?」
「いや、何でもないよ。ありがとう、マリス。また何かわかったら教えてほしい」
「ええ、もちろんですわ」
マリスにだけお礼を言うと、ロックマンは教室から出て行った。
「変な話ですわね。殿下を慕っている方たちは、心証を悪くしないように細心の注意を払っていると思っておりましたのに……」
「そうなの?」
「そうですわよ。貴女とサタナースが怖いもの知らずなだけですわ」
「だってこっちは平民だし。卒業したら王族や貴族と関わる機会なんてほとんどなくなるだろうし?」
ニケのように騎士団に入れば貴族と一緒に仕事をすることも多いだろうけど、私はハーレの受付で、サタナースは破魔士だ。
「そんなことは……」
マリスがちょっと寂しそうな顔をした。
「ナナリー、学校を卒業した後も……わたくしは貴族、貴女は平民ですけれど、わたくしたちは親友ですわよ?」
「うん。当たり前でしょ、親友なんだから」
私はニカッと笑って、マリスもふふっと微笑んだ。
「ええ、なかなか会えなくなりますから、わたくし手紙を書きますわ。貴女もちゃんと返事を書いて下さいね」
「ゔぇ……手紙?」
「なんですの! その嫌そうな顔は!! まったくこれだから貴女は……」
マリスは図書室に着くまで私の筆不精についてお説教を続けた。
*
翌日にはまた変な事態になった。今度は私が何度も貴族女子から廊下に呼び出されたのだ。用件は皆同じで、明日の夜に『月の雫』を手に入れてほしいという頼みごとだった。
「月の雫?」
「ヘルなら月から取り出すことができるでしょう?」
「できるけど。何に使うの?」
「そんなことは貴女に関係ありませんわ」
「それが人にものを頼む態度なの?」
何回も同じやりとりをして腹が立った私は、話もそこそこに自分の席に戻った。もう二度と呼び出しになんか応じてやるものか。
前の席では椅子に座ったゼノン王子を囲むようにロックマンとサタナースが立っている。これも護衛なんだろうか。サタナースはただお喋りしているようにしか見えないけれど。
「ナナリー、どうしたんだよ。今度はお前が女子から告白されてんのか?」
「違うわよ、サタナース! なぜか皆同じ頼みごとをしてくるのよ!」
「「頼みごと?」」
サタナースと王子の声が重なった。
私は机の上に頬杖をついて溜息を吐く。
「明日の夜、私に『月の雫』を取ってほしいんだって」
「月の雫?」
一番早く反応したのはロックマンだった。
「なんだそりゃ?」
「お前は『月の雫』も知らないのか?」
「知ってるに決まってるだろ。俺が言いたいのはそうじゃなくて……」
王子とサタナースが仲良く口喧嘩を始めた隣で、ロックマンは何かを考えているようだ。
「月の雫」とは、月の光を抽出してクリスタルなどに封じ込めたものだ。月から魔力を取り出す高度な魔法である。
六年生の夜間特別実習で「月の雫」を取り出す訓練があったが、成績上位の常連の生徒しか成功しなかった。うちのクラスでは私、ロックマン、ゼノン王子である。
私には相性の良い魔法だったようで、自分で作った氷の中に月の雫を封じ込めることができたのだ。
王子やロックマンに頼みごとなんてできないから私に頼みに来るのはわかるが、休み時間ごとに呼び出されては迷惑でたまらない。確かにこんな風に女子から呼び出されたり声をかけられていたら王子も迷惑だろう。王子に心から同情した。
「ヘル」
「何?」
「その頼みごとは聞いてないよね?」
「当たり前よ。あれだけの数を頼まれたら、月の雫を取るだけで夜の時間がつぶれるじゃない」
「そうじゃないよ、相変わらず馬鹿だね。怪しいからそんな依頼は無視した方がいいと言ってるんだよ」
「誰が馬鹿よ!」
机にバンッと両手をついて立ち上がる。喧嘩が始まりそうになったところで王子が間に入ってきた。
「アルウェス、何か気づいたのか?」
「まだ分かりません。でも明日は満月です。心に作用する薬には月の雫がよく使われます。何か関係があるかもしれません」
心に作用する薬?
気になってロックマンをじーっと見つめると目を逸らされた。王子がロックマンにもっと詳しく訊いてくれないか期待したが、話はそこで終わってしまった。
私は放課後図書室に行き、月の雫に関する本と心に作用する魔法薬の本を借りようとしたが、それらは既に貸し出されていた。きっとロックマンだろう。仕方がないので魔法薬の事典を借りて寮に帰った。