治癒室を出たところで授業が終わる鐘が鳴った。僕は急いで教室に戻る。ボードン先生にヘルは一日治癒室にいると伝えて、最前列のサタナースを呼び止めた。
「アルウェスくん、ナナリー大丈夫だったか?」
「ヘルは一日治癒室だ」
「へ? そんなに具合悪いんか?」
「サタナース、一緒に来てくれ」
素早く階段を駆け上がって、自分の席に置いてあった鞄の中から薬の小瓶と注意書きを取り出す。
「アルウェス、ナナリーの具合はそんなに悪いのか?」
「殿下、お願いがあるのですが……」
使っていない紙に魔法で注意書きの写しを作り、ゼノンに薬の小瓶と一緒に渡した。
「魔法薬の先生に頼んでこの薬を解析してもらってください。解毒薬が作れるならそれもお願いします」
「お前は一緒に来ないのか?」
「僕は調べなければいけないことができました」
チラッと教室の時計を見る。
「……昼過ぎには調べ物も終わると思います」
「昼過ぎって、魔法型の授業が終わっちゃうぜ。何するんだよ?」
「サタナース、君は殿下を手伝ってほしい。僕の代わりにはならないだろうけど、殿下の護衛も頼む」
「俺が黒焦げの護衛? マジで?」
サタナースはにやにやとゼノンを見る。
「王子様は大変だな~。護衛がいないとトイレにも行けませんってか?」
「お前の護衛なんぞいらん。だが先生の手伝いは必要だろう。一緒に来い」
ゼノンとサタナースが連れ立って教室を出て行く。一度ゼノンが振り返って僕を見たので心を込めて礼を返した。ゼノンは何か勘付いているようだが、深く詮索しないのは僕に任せるという意味だろう。
魔法型別の授業に向かう生徒の合間を縫って僕は一人の令嬢を探した。伯爵家の令嬢で名前はイレーネ。彼女はゼノンを慕う令嬢の一人で、王宮の舞踏会や貴族の夜会で何度も顔を合わせたことがある。長い銀髪の儚げな美人だ。ゼノンと卒業パーティーでダンスの約束もしている。早い時期にダンスの申し込みに来て、その後は遠巻きにゼノンを見ていた。
そのイレーネが、昨日の放課後ずっとヘルの後を追いかけていたのだ。
彼女が在籍する教室にはすでにいなかった。彼女の魔法型は水型だ。水型の実習室でブルネルと話をしているのを見つけた。
「イレーネ、ちょっといいかな」
「アルウェス様?」
イレーネを連れて無人の六年生の教室に戻った。途中で始業の鐘が鳴り響き、
「手短に話をするよ。──これを見たことがある?」
例の薬の注意書きを見せるとイレーネの顔がみるみる赤くなった。
「君はどうやってこれを手にいれたの?」
「……私は魔女から直接買いました。一つだけです。他の方がどうやって手に入れたのかは知りません」
「その魔女の名前は? 居所は知ってる?」
イレーネは
「私から話すことはできません。魔女と『血の守り』を結ばされるのです」
『血の守り』の盟約を結んだ事柄については口外できなくなる。控えめで
「こんな薬のために『血の守り』を結ぶとはね……」
思ったよりも冷たい声音になってしまった。イレーネの肩がビクッと震えて、赤かった顔が青褪めていく。
「……ゼノン殿下に私のことを話しますか?」
「殿下に告げ口したりはしないよ。君は魔女から一つしか買ってないんだろう? 貴族の間に広めた人間は他にいる」
イレーネはほっと胸をなでおろした。彼女のことをどうこうするつもりは元々なかった。彼女はヘルを
魔女から直接買ったというイレーネに聞きたいことは山程あるが、今は時間がない。
「──で? この薬は本当は何の薬なの?」
僕は
*
イレーネは薬について喋ることはできなかった。『血の守り』が邪魔をしたのだ。「月の雫を使えばわかります」と言い残して水型の実習室に戻っていった。
僕は無人の教室に残り、防音の魔法をかけ直して、念のため防御の魔法もかけた。
薬の注意書きを机の上に置き、ヘルが氷に閉じ込めた月の雫を取り出した。手の平の上でじわじわと氷を溶かす。ほんのり輝く月の雫をふわっと紙の上に落とすと、転がるように淡い光が広がった。
光が転がる端から文字が消えて違う文章が浮かび上がってくる。
♢♢♢♢♢
『これは惚れ薬ではありません』
『あなたの心の内に眠る恋情を最大限に呼び覚ます薬です』
『薬を飲むと少しずつ効果が出はじめ、半日後に最大になります。そこからまた少しずつ効果は薄れて、一日もすれば落ち着きます』
『月の雫を一滴加えると効果が増します。満月の月の雫が最も効力があります』
『一回につきティースプーン一杯、飲み物などに混ぜてお飲みください』
『何度服用しても体に害はありません。ただし、最低三日は間を空けてください』
『引き出される恋情によって性的欲求も高まります。どの程度まで高まるかはあなた次第です』
『この薬で明らかになるのは、あなたが気づいていない、あなたの本心です』
『あなたが本当に好きな人は誰なのか、それがわかります』
『薬によって呼び覚まされた恋情を忘れることはありません。もともとあなたが抱えている恋心だからです』
『本心を自覚した影響で今の人間関係を壊してしまう危険性があります』
『御自身の責任の
♢♢♢♢♢
文字は頭に入ってくるのに、意味を理解するのに時間がかかった。繰り返し、何度も文章を目で追う。
頭に浮かんでくるのは抱きかかえていたときのヘルの顔。耳まで赤く染めて、熱っぽい潤んだ眼差しで僕を見つめ返してきた。
僕の腕の中にいるときにあんな顔をするなんて。僕は心臓を鷲掴みにされ、息が詰まった。ヘルは体調を崩して熱に浮かされていると自分に言い聞かせて、治癒室ではかろうじて平静を装うことができた。
記憶探知でヘルが薬を飲んだとわかったときは、薬の副作用か或いは暴走だろうと予想した。しかし、『自分の恋情を
何か裏があるかもしれないと探ってみたが、まさかここまで人の心を
『あなたの心の内に眠る恋情を最大限に呼び覚ます』
ヘルは満月の月の雫を使った。最も効果が高い、完成された薬だ。
どくん、どくんと僕の鼓動が早くなる。
「ヘルの恋情を最大限に呼び覚ます……」
あの潤んだ碧い瞳は。熱情のこもった眼差しは、誰に向けられたものなのか。
たまたま僕の腕の中にいるときに薬が効いてきただけなのか。
それとも────?
*
私は治癒室の床にぺたんと座ってベッドに寄りかかり、シーツを握り締めていた。
「はぁ、はぁ」
お腹の底に火が付いて、燃え広がった炎が全身を廻っているようだ。こんなに体が熱いのは生まれて初めてだ。
額から汗がこめかみを伝い、シーツに
いったい私に何が起きているのか。
ベンジャミンが薬を飲まなくて良かった。
それともこれは魔法薬の暴走なのだろうか。
私に好きな人はいない。だからあの薬が効くわけがない。
きっとそれで薬の魔法が暴走しているんだ。
握り締めたシーツが凍り始めた。ベッドも凍りついていく。体の中で魔力が
苦しい。苦しい。
「あぅっ……!」
何かが──何かぞわぞわとした感覚が腰の辺りから這い上がってくる。
「ぐぅ……」
得体の知れない大きな感情が胸に
息が、苦しい。
目を瞑っても瞼の裏に赤い瞳が浮かんでくる。
「ロック……マン……」
治癒室の床が凍り付き、壁や天井に向かって氷が広がっていく。