また、同じ夢を見ていた。喫茶店の階上にある小さな子供部屋。真っ暗で明かり一つついていないその部屋の中で少女は一人たたずんでいる。バタン! ドタン! 窓の外は激しい嵐らしく、横殴りの風がガラスを殴りつける音だけが静かな部屋の中に響く。夜の闇とごうごうと吹き荒れる雨のせいで窓からの見通しは悪く、外に広がっているはずの景色を窺い知ることは出来ない。
虫の知らせ、というのだろうか。少女の胸の中に、得体の知れない嫌な予感が広がっていく。悪い予感に導かれるようにして少女は部屋のドアを開け、階段を下りていった。
喫茶店のホールへと続く、見慣れた廊下の風景。だが、一つだけいつもと違うのは廊下が不気味な静寂と闇に包まれていることだ。この時間は普段だと少女の父がバータイムの営業をしているはずだ。店内から明かりやお客さんの声が漏れてきてもおかしくないはずなのだが。
ジリリリリ! ジリリリリ! じめりと湿った空気を切り裂くような突然の大音に少女は心臓をギュッと掴まれたような気分になる。古めかしいタイプの電話機の呼び出し音が鳴っているのだ。いつもと同じ形のはずのその電話機は、今日に限っては歪な造形に見えた。
「……もしもし」
少女はおそるおそる受話器を取る。受話器の向こうから聞こえてくる声は、別の世界からの声のように妙に遠い。まるで電話回線がこの世ならざる場所に繋がってしまったかのようだ。ザザ、ザザという不快で耳障りな音に混じって、合成音かと思うような無機質で感情の無い男性の声が伝わってくる。
「もしもし、香風さんのお宅ですか。……病院の者ですが、………さんですが、…………容態が急変……………………今夜が峠かもしれま…………ご家族の方はすぐに集まって…………」
ガチャン! 少女はまるで一瞬でも触っていたくない不吉なものを手放すかのようにして電話を切る。そうだ、これは夢だ。夢の中で、あの一夜のことを永遠に繰り返しているのだ。少女の心の奥底の最も深いところで傷となっているあの夜の出来事を。この夜から一刻も早く抜け出さなくては。少女はふらふらと夢遊病患者のような足取りで玄関のドアに向かう。
びゅうううううう――
だが、扉を開け踏み出そうとした少女の歩みは激しい風雨に阻まれた。少女が実際に経験した「あの夜」はここまで荒天ではなかったように記憶しているが、この夜の世界には、地獄のような嵐と無明の闇とがどこまでも広がり続けているとでもいうのだろうか。傘を開いてもとても前に進めないような風に押し戻されるかのようにして少女は室内に戻ってくる。
ずぶ濡れのまま真っ暗な店内に戻ってきた少女の目に今度は別なものが映る。テーブルの上に置かれた漆塗りの真っ黒なフレームのモノクロの写真。写真に写る長髪の女性は歯を見せない程度の薄い笑いを浮かべている。女性はまだ幼い少女にとっては世界の半分とも言えるくらいに大事な意味を持つ存在。それが喪われてしまった事実を、黒いフレームの写真は残酷なほどに克明に伝えていた。
いや、よく見ると置かれている写真は一つではない。女性の写真の後ろには、連鎖するドミノのように黒いフレームの写真がいくつも並んでいる。その写真に写っている人々の顔は、どれも少女にとって大切な人たちで――
その光景が意味するものを考えた時、少女は眩暈を感じその場にうずくまる。世界は優しくはないのだろうか。大事な人たちは、みんな私を置いてどこかに行ってしまうのだろうか。私は一人、嵐の中に取り残されるしかないんだろうか、そう考えながら天井を見上げたとき、世界がゆっくりと回転し始める。「この」夢はようやく終わり、目覚めの時が近づきつつあるようだ。少女の心の中に消えない黒インクの染みのようなわだかまりを残したまま――