「おとうさん、ティッピーがびょうきだからおいしゃさんにつれていかなくちゃいけないってどういうこと……? ティッピーはどこもわるくないよ! ティッピーをつれていかないで!」
幼年時代のチノは父や祖父からすればとても聞き分けの良い子供だった。ちょっと素直すぎるところが逆に心配になるくらいに。だがこの日は珍しくチノは父に反抗していた。父は、ティッピーは病気だからお医者さんのところに「しばらく」連れて行かなくてはならない、と言い始めたのである。
今のチノになら分かるが、「ティッピーをお医者さんのところに連れていかなければならない」というのは父の方便であり、実はこの頃ティッピーオーナーにとって、いや社会全体にとってもっと重大な事件が起こっていたのである。――ティッピー大規模リコール事件。まだ短いティッピー史の最初期の汚点として刻まれている事件である。ティッピーの歴史は闇と秘密のベールに包まれており、リコールの原因が何だったのかは今もって分かっていないことが多い。公式には「ティッピーを特殊な条件で使い続けると内部が過剰に発熱して発火することがあり危険」という理由であったが、少なくともチノを始め当時ティッピーを所有していた人のほとんどは、ティッピーを使っていて危険や問題などは感じなかったのは確かである。しかしこのリコールでは当時市場に出回っていたティッピーのほぼ全台が回収対象となり、チノが与えられていたティッピー――Xpetit TGFOP-04 Premium型、「ティーヨン」と呼ばれるクラシックティッピーの名機で、今もチノはこれを使い続けている――も回収を命じられ、交換で最新機種が公社から提供されることになっていた。しかし幼いチノにとってティッピーはお気に入りのぬいぐるみやペットのようなもの、いやそれ以上に大事な家族のような存在であった。新しいものに交換すると言っても聞き入れるはずがなく、父は仕方なく「ティッピーをお医者さんに連れて行く」という方便を使ったのだ。だがチノは子供心にも父が嘘をついていることを感じ取り、祖父譲りの頑固さを発揮して頑なにティッピーを手放そうとしなかったので、父はほとほと困り果てることになった。
「チノ、今は大丈夫でもこのままにしておくとティッピーは病気になってしまうんだ。良い子だから、ティッピーをこっちに渡して……」
「いやだもん!!!」
ラビットハウスの夜のバータイムのマスターを務める父はいつもクールで冷静沈着な印象だ。額に汗を浮かべて困り顔になるような姿を見るのは、この時が初めてだったかもしれない。その時、やりとりを見ていた祖父が横からこう言った。
「『お医者さん』になぞ連れて行かなくともよい。チノ、ティッピーのことはわしが治してやろう。わしに一晩預けてもらえるか」
「ほんと!!??」
「おい、親父!!」
父は何か言いたげな表情だったが、結局チノは信頼する祖父にティッピーを預けることを選び、しぶしぶながらも父もそれを了承したので、祖父がティッピーの「治療」をすることになった。それでもその夜はチノはあまり寝付けなかった。普段はティッピーを抱き枕のように抱きしめて眠っているので、一晩とはいえそれが無いのは気持ち的に落ち着かなかったのだろう。浅いまどろみを何回か繰り返しているうちに深夜になった。トイレに起き出して階下に下りていったとき、チノはダイニングから明かりが漏れているのを発見した。ドアの向こうから祖父と父が何やら言い争うような声が聞こえてくる。いや正確に言うと、父が何事か祖父を責めていて、祖父がそれを受け流しているような言いぶりだ。父と祖父の親子関係といえば、いつもは頑固な祖父が小言を言ってクールな父がそれを受け流すような関係性だったので、まるで普段とは逆転してしまったかのようだ。
「親父! 自分のやろうとすることが何だか分かっているのか。本当に親父の改造なんかで危険性をなくすことが出来るのか。チノの身に何かあったらどう責任取るつもりなんだ。
そもそも、その改造って違法改造じゃないのか。公社の定期点検でその改造がバレたら捕まるのは親父自身だぞ」
「何を言っておる。わしが退職前にどこに出向していたのか忘れておるのか。だいたい、『発火の危険があるから回収する』なんて表向きの理由じゃ、わしの手がけたティッピーにそんな初歩的な危険性などありゃせんよ。それに違法性と言ったな。息子よ、覚えておくが良いがどんな法律にも抜け穴はあるものでな、ティッピー法も例外ではない。公社がティッピーの回収にやっきになっている本当の理由は…………………じゃ。…………………を、…………………ようにしておきさえすれば、検査課もそこまで目くじら立てはせんわ……」