忠海駅でチノ達が歓声に包まれているのとちょうど同じ頃。東京都・霞ヶ関にある中央合同庁舎ビルを一人の男が訪れていた。男は彫りが深い顔立ちに頬が隠れるほどの長さのある髪型をしていて、深みのあるワインレッドのスーツに身を包んでいる。そして何と言っても特徴的なのは鋭い眼光のうち一つを覆い隠している黒の眼帯だ。この眼帯といかつい顔立ちのおかげで男は「どこの組の方ですか?」と声をかけられかねないような外見になっていて、いかにもお役人風のお堅い風貌の人の多いこの街の中では浮いていた。だが、実は男が普段勤めているビルもここから目と鼻の先の距離にある。警視庁本部庁舎。それが男が勤めている組織の入るビルの名前だ。男の所属する組織の名前は、警視庁浮遊型量子通信機器類犯罪対策室と言い、男はその組織を預かるトップの立場にあった。そう、この男は東京都内のティッピー犯罪全般を取り締まるティッピー室の長であり、リゼの父でもある、天々座室長その人なのである。
「車を出しましょうか?」という部下の申し出を「すぐそこだから」と断り歩いてきたが、天々座の足取りは重かった。 警視庁本部庁舎と中央合同庁舎、距離にして徒歩数分であったが、心理的な距離は果てしなく遠い。ましてや今日呼び出された用件は何なのか予想がつくだけに――間違いなく本日予選が開催されているティッピーコンテストの警備の関係だ――この建物を訪れるのは憂鬱でしょうがなかった。
流石に休日なだけあって建物の周りに人はまばらだった。だが呼び出してきたのは休日も平日も関係ないような人物だ。今もこのビルの中では多くの部下が昼夜の区別もなく働かされているのだろう。もっともそれが前世紀から変わらない中央官僚組織というところの常ではあったが。正規の受付は閉まっているので、裏口で名前と用件を告げて建物に入り、エレベーターで高層の一角に向かう。数多くの官庁の部局が同居する寄り合い所帯となっているこのビルの中でも人目を憚るようにして配置されているその組織の名前は、「内閣府浮遊型量子通信機器類安全振興局」と言う。文字通り、今や国民生活に必須のデバイスであるティッピーの安全な使用方法の普及を図るために設置された組織――とされている。表向きには。
しかしながらその実態は、ティッピーの「危険な使用方法」をする者を、時と場合によっては強制的に「排除」することでティッピーの安全使用を確保する、いわば超法規的な実力行使を行う権限を持った諜報機関兼特殊部隊といった組織なのである。中でも実際に「実力行使」を行う部隊は、さながら正規軍の特殊部隊のような要員と装備を有していた。この部隊の名は、TIEST (TIPPEE Emergency Support Team、ティッピー緊急事態支援チーム)の略称で呼ばれ恐れられている。もっとも独自の指揮系統や採用体系を持つこの組織の実態について知る者は極めて少なく、この部隊の存在を知るのは内閣府と警察の一部の幹部クラスに限られてはいたが。
ティッピーのような、旧来のスマホやPCとは桁違いの演算能力と物理性能を持つデバイスが国民一人ひとりに行き渡ることによる弊害は従来から指摘されていた。高性能のティッピーを悪用するティッピー犯罪者の増加もその一つであるが、その中でもティッピーテロリストとでも言うべき凶悪な犯罪者への対処は、警察で行うには限界があった。しかもティッピーの性能は刻一刻と上昇し続けており、国民世論を形成し、国会で法規の改正を審議して――といった時間のかかる民主的な手続きを踏んでいては日々巧妙さを増すテロリスト側の攻撃に対処できないという問題点もあった。そこで時の内閣総理大臣は、内外に情報網を張り巡らせ、警察では対応しきれない大規模ティッピー犯罪や国外からのティッピー技術の秘匿性を侵犯しようとする行為の察知・事前排除に努め、芽のうちに摘み取れなかった場合は実力行使によって対応する役割を持つ超法規的組織――ティッピー安全振興局の設置を極秘のうちに決定したのである。
その安全振興局の目下の関心は、渋谷を起点として発生している連続不正アクセス未遂事件と、ティッピーオリンピックの前哨戦として国家の威信をかけたイベントになったティッピーコンテストの安全な遂行だった。そして、その二つを結ぶ点である、保登心愛という少女の動向には安全振興局も目を光らせていた。いやむしろ、事態の対処に当たっている天々座の姿勢は弱腰過ぎると不満を持っていた。現に安全振興局は、渋谷の事件に関して、ティッピーの製造開発を行っているティッピー公社内部で関与できる可能性のある職員全員の身柄を長期間拘束するという強硬策を取っている。一方の警視庁は、あくまで法に則った捜査を行わなければならず、ココアをいきなり逮捕するようなことは出来ない。安全振興局としては、一般人に過ぎないココアの拘束は流石に今まで見送ってきたようだが、「ティッピーコンテストの運営に介入してでもココアの出場、せめて決勝進出だけは妨害すべき」との意見を持っているようだった。しかし競技の公平性を破ることになる介入には、警察は反対した(もちろん天々座個人の思いとしても、娘のチームのせっかくの頑張りを妨害したくはないというのはあった)。その結果、決勝に進出した四チームの中にはココアのチームも含まれているという報告を既に受けている。ココアをティッピーコンテストの安全を保つ上での最大の不確定要素とみなし、不確定要素は実力をもってでも排除すべきとの考えの安全振興局がこれを快く思うはずがない。そして今、天々座は安全振興局長その人からの呼び出しを受けているのだった。これで良い話をされると期待するほど天々座は楽天家ではない。何重にもロックのかかった厳重なセキュリティの局長室へ吸い込まれていく天々座の足取りは、やはり重いままだった。
――一時間後。
中央合同庁舎ビルの一階では、帰りの遅い天々座を心配した部下がわざわざ迎えに来ていて、所在なさげに上司の帰りを待っていた。上に上がって様子を見に行ったほうが良いだろうか? と思ったそのとき、ようやく彼の上司はエレベーターホールに姿を見せた。部下はエレベーターから下りる天々座の方に駆け寄って行った。天々座は元々喜怒哀楽をはっきり表現するタイプのリーダーで、それが部下から慕われる素質でもあったが、この時の天々座の表情に表れていたのは「憤り」と「憔悴」だった。
「遅かったじゃないですか、室長。よっぽど先方はお怒りだったんで?」
「お怒り、で済めば良かったんだがな」
そう言うと、天々座は吐き捨てるようにこう続けたのだった。
「ティッピーコンテスト決勝会場である大久野島の警備について、あちらさんは全ての権限を警察から取り上げて自分とこの指揮下に置くつもりなんだとよ。局長様は何から何まで自分流じゃないと気がすまないって訳だ。そして決勝会場で、あいつら一体何をするつもりだと言ったと思う……?」
「何と言ったんですかい……?」
不安そうな顔でごくり、と唾を飲む部下の問いかけに答えて、天々座はこう言った。
「保登心愛を決勝会場で急襲し、遭難に見せかけて拉致・拘束するそうだ。一般人でただの女子高生でしかない保登心愛を、だ。そのために既にコンテスト参加者に扮したTIESTの兵士を含む若干名を会場に潜伏させているんだとよ」