数分後。チノはさっそくホット・ベーカリーの更衣室へと案内されていた。
「チノちゃんはこのクローゼットを使ってね」
「ありがとうございます」
「じゃあ、制服持って来るね~」
「制服あるんですね」
ホット・ベーカリーは見てのとおりパン屋としてはそこまで流行っておらず、ティッピー部門の方もネットでの売上が中心でわざわざリアル店舗に来店する客はさほど多くないので、人手は十分足りてるとのことだったが、ココアは早速働きたいというチノの申し出を快く受け入れてくれた。
(店があんなだから、奥はどんな風になってるかと思いきや、更衣室は意外と普通ですね)
そんなことを考えながら、ココアが去って一人きりになった更衣室に荷物を下ろしようやく一息つく。そういえば、今朝家を出てから今まで、慣れない都会の空気にずっと緊張し通しだった。父は今頃どうしているだろうか? そろそろラビットハウスのお昼の戦い(ランチタイム・コンタクト)が始まる頃だろうか。そうだ、無事に着いた連絡くらいは入れなくては。そう思ってティッピーに呼びかけようとした瞬間、ふとある違和感に気付く。
(?? 誰もいないはずなのに、誰かに見られてるような……)
更衣室である。こんなところに他の「誰か」がいるなんてこと、ありえるんだろうか。でも、確かに一番奥のクローゼットから誰かの気配のようなものを感じるのだ。意を決して、クローゼットを開けてみると――、
「うわあああぁぁ!! 下着姿のドロボウさん!?」
「馬鹿な! 完全に気配を殺してたつもりなのに……、お前は誰だ!?」
クローゼットの中にいたのは、紫色の下着をつけ、ツインテールに前髪が「ぱっつん」の特徴的なヘアスタイルをした女の子のドロボウ(?)だった。ドロボウは紫色のボディに眼帯をしたデザインのティッピーを連れている。ドロボウがティッピーに何事か小声で命じると、小さなティッピーの本体にどうやって格納していたのだろうか、するすると長い棒のようなものが飛び出してきて、チノに向けられる。まるでこれは江戸時代に曲者を捕まえるのに使われた「刺股」のようなデザインだ。ティッピーにこんな外付けパーツがあるとはチノは今まで知らなかった。
「わわわ私は、今日からここにお世話になることになった、チチチチノです」
「そんなの聞いてないぞ、怪しい奴め……!!」
ドロボウのティッピーは問答無用で刺股のようなものをさらに近づけてくる。チノは思わず床に膝をつきへたりこんでしまった。
(い、今のこの状況で怪しいのはどっちなんでしょう)
その時、まるで助け船が入るかのようにドアがノックされ、ココアが更衣室に入ってきた。
「制服持ってきたよ~……ってあれ? 何かあったの?」
「ココココココアさん! クローゼットの中に強盗が!」
「ち、違う! 知らない気配がして隠れるのは普通だろ!」
「じゃあそのティッピーは何なんですか!!??」
「護身用だ! 私は父が警官で……。幼い頃から護身術というか、色々仕込まれてるだけで、普通の女子高生だから信じろ!」
「説得力なくないですか!?」
互いに不信感丸出しの二人のやりとりを見て、ココアが「ああ」という感じで合点が行ったように手をポンとして、説明し始める。
「チノちゃんにはまだ紹介してなかったよね。彼女はここのバイトのリゼちゃん、怪しい人ではないから大丈夫……ってうええええ!!! リゼちゃん!!! 何でいるの!?」
「っていやいやいや、何でココアまでびっくりしてるんだ!?」
「いやだって、今日はリゼちゃんバイト非番でしょ? 別にいてくれてもいいけど、何の気配もなくいつの間にかうちにいるとかおかしいよ!?」
「! そ、それはつまりだな……そう訓練だよ! 潜入訓練! 今日から新しい学年になる訳だしな、私は高校三年でココアは高校二年……、春休み中とはいえ鍛錬を欠かしちゃいけないと思って」
「理由も行動も意味不明すぎるよ!!??」
ココアとの会話からすると、「リゼ」という名前だという下着姿のドロボウさんがどうやら本当にここのバイトさんであることは間違いないようだが、ココアと同じくらい、あるいはそれ以上の変な人であることも間違いないようだ。こんな変な店でちゃんとやっていけるんだろうか――、チノの不安は深まるばかり。そんな、春の始まりだった。