「ふわぁあー、大久野島では色んなことがあったけど、何だかんだ凄く楽しかったなー!」
「楽しかった……ですか? あんなに危ない目に遭ったのに」
「でもチノちゃんが助けてくれたでしょ? チノちゃんが私のことすぐに助けに来てくれたの、私はとっても嬉しかったんだよ。そりゃあ危ない目に遭わずにすむならその方が良いけど、あの経験をしたことで、何と言うか、チノちゃんのあったかい心みたいなのを感じることが出来たなら、それは決して無駄ではなかったんじゃないかって気がするんだ。あと、メイドさんとは最後ちゃんと話せずに終わっちゃったけど、きっと何かやむを得ない事情があってああいう行動を起こしたんじゃないかと思うな」
何と言うか――、何と言ったら良いのだろう。ポジティブ? 呑気? お人好し? 誘拐されかかって、下手すると命まで危ないような経験をしたのに、そのことをこんなふうに語れる人なんて、世界広しと言えどもココアさんくらいではないだろうか。チノは呆れるを通り越して逆に感心するような気分になった。ココアはさらにこう続けた。
「あっ、でもこれって逆にチノちゃんを私が怖い目に遭わせちゃったってことになるのかな……? ごめんね、本当は私がお姉ちゃんなんだからチノちゃんを守らなくちゃいけなかったのに……。ねぇ、チノちゃんは、この島で過ごした二日間はどうだった? 楽しかった? 怖かった? また来てみたい? それとももう二度と来たくないと思う?」
ココアはいつになく真剣な顔でチノの顔を覗き込む。真夏の夕刻特有の強い西からの日差しの中で、海風がココアの薄茶色の髪を空中にはためかせる様子がこの上なく綺麗だった。いつも口を開くと変な事ばかり言うココアさんですけど、こうやって黙って見つめられると凄く美人さんに見えて、ちょっとドキドキします――チノは思わず頭の片隅でそんなことを考えてしまった。ココアと至近距離で見つめ合うような形になり、戸惑い迷いながらも、チノは自分でも気づかなかった自分の気持ちを一つ一つ整理するかのように、言葉を紡いでいく。
「私は……私はこの島に来て、良かったと思ってます。ティッピーコンテスト自体はとても楽しかったですし。私もティッピーは大好きですが、私の興味関心はほとんどクラシックティッピー専門でしたので、ココアさんのようにティッピーのメカ的な側面や最新技術が好きな人とはちょっと違っていたんです。正直そういう方面の趣味の人を、ちょっとオタクっぽいというかアブないように感じたりすることもありました。でも、今回のコンテストを通じて、実際に切磋琢磨している人たちのど真ん中に飛び込んでみて……ココアさんの側の気持ちが少し分かったような気がするんです」
「確かに危ない目には遭いましたけど、世の中にはこういう危ないこととか、悪意……とまで言って良いのか分かりませんが、利害が対立したりして分かり合えない人もいるということが分かったのは、私にとってとても勉強になりました。そりゃあ確かに争いごとに巻き込まれるよりは、平和な世界で暮らしたいですけれども。でも、明日からはまた平和な日常に戻れるとしても、そういう争いのある世界もあると知った上で過ごすのか、知らないで目をつぶって過ごすのか……その二つは、同じようでいて大きく違うと思うんです」
「それにココアさんの、メイドさんを助けにすぐに飛び込んだ行動……泳げないのに、いや仮に泳げてもそんなことをするのは危ないので次からは絶対にやめて欲しいのですが、ちょっとココアさんのこと見直したのは確かです。でも本当に危険ですので次同じ状況があっても飛び込むのは絶対やめてくださいね。もし興味があれば、私がおじいちゃんから教わった水難救助の方法を伝授しますので」
ここまで喋って、チノは目の前のココアの目に涙が浮かんでいることに気付いて慌てた。
「どどどうしたんですかココアさん! 泣くほどどこか痛いんですか! やっぱり海に飛び込んだ時に体のどこか打ち付けていたのでは……船内で休んでいた方が」
「ううん、違うの、そうじゃないの」
ココアは涙を浮かべながらも笑顔でこう続けた。
「これはその、そう、充実感の涙だよ!」
「じゅ、充実感の涙?」
「ティッピーコンテスト参加して、準備とか色々大変だったこともあったけど……、でもこれで、私がティッピーコンテストに参加した一番の目的が達成できたからね。それが嬉しくて」
「一番の目的? それって優勝することではなかったんですか? 私たち棄権扱いになってるので、公式にはゴールすらしたことになってませんが」
「優勝も確かに大事だけど、でもそれが一番じゃないんだ」
ココアはちょっと照れた風に頭をかきながら言った。
「本人を目の前に言うのちょっと恥ずかしいんだけども……。ティッピーコンテストに参加したのは、ティッピー好きのチノちゃんが少しでも楽しんでくれれば良いなって思ったからなんだ。チノちゃん田舎から都会に来て、色々大変な事とか不安なこととかもあると思うけど、せっかくの東京生活だし、楽しいこととか、みんなで何かに参加した良い思い出も作ってもらいたかったから。まあもちろん、私が興味あったってのもあるけどね」
「ココアさん……」
そうだったのか――、チノは疑問が氷解していくのと同時に、心の中にあった色んな小さなわだかまりも、すうっと溶けていくのを感じた。ココアが何で突然ティッピーコンテスト参加を言い出したのか、ずっと疑問だったし、昨夜の千夜とリゼの話を聞いてしまってからは、「もしかしたらココアさんが本当に違法ティッピー事件の犯人で、何か悪いことを企もうとしているのでは?」という疑念も、ほんの少しだけあった。でも、今日の出来事で、ココアさんが犯人ではない、とチノは確信した。メイド店員が海に落ちた時、ココアさんは自分が泳げないのに真っ先に飛び込んだ。ココアさんと言うのは、自分のことをかえりみないでまず人のために行動することが出来る人なのだ。それに思い返すと、ココアさんは確かにティッピーを使って色々と怪しげなことをやってはいたが、それらは全部、私利私欲のためではなく他の誰かのためにしていたのだった(まあ、結果的に斜め上の方向の奇行に及んでいることもあったけど)。そんなココアさんが悪い人な訳がない――、チノはそう思い、一瞬でもココアのことを疑った自分のことをちょっと恥ずかしくも思うのだった。その時ココアが、空の遠くのほうを指さしながらこう言った。
「あっ! チノちゃん見て! あの雲、入道雲だよ! あんなに大きく綺麗に育ってるのは初めて見たなー! でも入道雲ができてるってことは雷が来るのかな? そうそう雷と言えば私思ってることがあって。雷ってもの凄いエネルギーを発するから、それを発電に利用できないか、ってアイデアはニコラ・テスラの昔からあった訳なんだけれど。今世紀の初めにはそれを一歩進めて、空気中の雷まで至らない微弱な電気を回収して発電利用できないか、って研究があったんだよね。最終的に実用化にまで至らなかったんだけど、私のアイデアではこういうところを改善すれば、と思うんだよね……」
さっきまで涙ぐんでいたはずのココアはあっという間にころりと表情を変え、生き生きと自分の得意分野の話をし始めていた。見ると確かに水平線に大きな入道雲ができている。穏やかな瀬戸内海に沈む夕日に照らされ、赤く染まっていく入道雲だ。そういえば天気予報では夜からは荒れ模様になると言っていた気がする。嵐が近づきつつあるのかもしれない。しかしチノの耳にはココアの独演はあまり入って来ていなかった。チノはチノで、別な思考を巡らせていたのだった。
(千夜さんは私とココアさんのことを、ナイトとお姫様、と言いました。でもココアさんが「お姫様」というのは、何だかしっくり来ないような気がします)
チノは欄干に腕を乗せて水平線を眺めるココアの横顔をそっと盗み見る。確かに、顔の作りだけを見ればどこの国のお姫様か、というくらい整っているかもしれなかったが。
(もしファンタジー世界でたとえるならば、ココアさんはそう、「魔法使い」なんじゃないでしょうか。「高度に発達した科学は魔法と区別がつかない」というのが、ココアさんの好きな作家の残した名言にあった気がします。冷静に考えるとココアさんはエンジニアとして凄い人です。ティッピーに詳しくて、改造したり色んなことが出来て、ネットでは天才女子高生なんて言われて。多分将来は大学でティッピーを学んで研究や開発で成果を残すのでしょう。ココアさんはきっと、ティッピーを通じて、科学と技術で、みんなの夢見ていた以上の光景を実現することが出来る人なんです)
だが同時にチノはこうも思うのだった。
(でも、魔法のように色んなことが出来るということは、魔女狩りのように気味悪がられたり、理解されなかったりすることと裏表なんです。あの特殊部隊?みたいな人たちが襲い掛かって来たのも、言ってみれば、ココアさんのことを理解しない人たちが一方的にココアさんのことを危険視して排除しようとした結果です。ただの女子高生でしかない今ですらそんな調子なんですから、もしココアさんが大学に進んで研究者とかになったとしたら、きっと無理解な人たちに潰されてしまうでしょう。ココアさん、泳げないのに海に飛び込んでしまうくらいに向こう見ずなところもありますし、下手するとお守り役がいないと自滅してしまうなんてこともありそうです。そう、「魔法使い」には必ず攻撃から守る「ナイト」が必要なんです)
魔法使いとナイト。チノの中でそのイメージはぴったりだった。いや、自分がナイトだなんて大したものかは分からないけれど、少なくともチノの「なりたいもの」のイメージにはぴったりだった。チノの好きなレトロRPGでも、魔法使いは盾役とパーティを組ませて守りながら運用するものと相場が決まっているのだ。
ちょうどその時、ゴロゴロと遠雷が鳴った。思ったよりも速いスピードで嵐が近づきつつあるのかもしれない。この船と同じように、私たちの人生と言う航路の行く手にもどんな嵐が待ち構えているのか分からない。今日私が学んだように、決してこの世界は優しいだけではない。世界には色んな危険が転がっているものなのだ。この嵐の世界の中で私は、せめて私にとって大切な人だけでも守れる「盾」になろう――、相変わらず無邪気な顔で水平線の果てを眺めているココアを見つつ、チノはそう決心するのだった。それにしてもココアは、本当によく飽きもせず水平線の果ての雲を眺めている。ココアの宝石のような瞳に、夕焼け色の雲が映りこむ様子が本当にきれいだった。そんなに雲の形が面白いのだろうか? それともココアには、チノには想像も及ばないような「この世界の果て」が見えているのだろうか。
とそこまで考えた時、チノが腕の中に抱いている(うさぎの方の)ティッピーが、ちょいちょい、と服の袖をくわえた。見るとティッピーはつぶらな瞳でチノの方を見上げている。その様子は何だかまるで「自分もいるぞ」とアピールしているように見えた。そういえば、ペットモンスターをパーティに入れられるのもレトロRPGでは定番なのだった。この先の人生という冒険のステージでは、仲間は多ければ多い方が良いです――、チノはそんなことを思った。