リゼのお父さんから指定された約束の日。チノは約束の場所である大学のキャンパスを訪れていた。ココアのお母さんに言われたとおり、バラバラに家を出て現地集合の予定だ。渋谷駅から地下鉄に乗って、丸ノ内線に乗り換えて十五分ほどの駅で降り、ココアのお父さんの研究室のある大学へと歩いていく。
「わぁ……ここが最高学府……。何だか、ここに足を踏み入れるだけで頭が良くなりそうな気がします」
厳密には「最高学府」とは「この大学」だけを指す訳ではなく大学全般のことを指す語なのだが、チノにとっては大学に来ること自体が初めてなので、あながち間違ってもいないつぶやきだった。おそるおそる敷地内に足を進めていくチノ。チノにとってはここで目にするもの全てが物珍しかった。歴史的事件の舞台となったことでも有名な講堂を初めとする、伝統ある建物群が醸し出す荘厳な雰囲気。レポートか試験勉強か何かで行き詰っているのだろうか、険しい目つきでキャンパス内を早足に歩く学生。この大学のシンボルとも言える銀杏並木は、もう少し季節が下れば葉が黄金色に色づいてきっととても綺麗だったろう。比較的新しく建てられたらしいガラス張りの現代的な建物の中で、どうやらこの大学のマスコットであるらしいカラスのキャラクターの描かれたグッズがまるでお土産物か何かのように売られているのには、ちょっと笑ってしまったが。
そんなアカデミックな空気を胸いっぱいに吸いながら歩いていると、どうしても難しいことを考えがちになってしまう。チノは一人こんなことを考えていた。
(私が高校に入って早くも半年が過ぎてしまいました。大学受験までは、実質あと二年とちょっとです。正直私の成績では「この大学」を受験することなんて考えつきもしませんでしたが……、ですが、ココアさんだったら「この大学」にも軽々と合格してしまうのではないでしょうか)
難関国立大学に合格するには全教科満遍なく成績が良くなければならない、なんて時代は既に過去のものになった。今や難関国立大でも一芸入試は当たり前のものとなった。社会の各方面でも、一芸枠出身のOBやOGが活躍している。
(文系が苦手なココアさんでも、一芸入試なら軽々と通ってしまいそうです。ココアさんのティッピー好きと、ティッピー改造技術の高さは誰にも負けない才能ですから。そして大学に入った後は、お父さんの研究室に入って、お父さんの後を追って研究者の道のりを進むのでしょうか。それとも私のおじいちゃんのようなティッピー公社の内部技術者の道を選ぶのでしょうか)
そしてチノは思うのだった。ティッピーコンテストの帰りのフェリーの中、チノは確かにココアの「盾」になろうと決心した。だが、実際にその決心を貫くのは、中々大変なことなのではないか、と。ココアを守ろうと思ったら、まずはココアのそばにいなければならない。チノにはチノで、経営学を学んでラビットハウスをもっと大きくして世界一のバリスタになるという夢があるので、将来にわたって全く同じ進路を選び続けるのは無理だ。だとしても、せめて学部学科は違っても進学する大学くらいは同じところを選びたい、と思っていた。でも果たして、日本で最難関の大学に合格することなんて出来るでしょうか――、とチノは不安に思う。しかも越えなければならないハードルはそれだけではない。ティッピー研究者か技術者になるであろうココアを、世間の無理解や偏見から守るためにすべきこと。チノにもそれが何なのか具体的に分かっている訳ではなかったが、チノには思っていることがあった。
(ココアさんを襲う「世間の無理解」は、いつもあのメイドさんのように物理的な形を取るとは限らないでしょう。こう、政治的な何かとか、外圧的な何かとか、そういうのに襲われることもきっと出てくるはずです。それに対抗するには、私もただ筋肉を鍛えれば良いとか物理的に強くなれば良いという訳ではなさそうです。たぶんきっと、説明下手なココアさんに代わって、ココアさんのやろうしていることを広くみんなに理解してもらう、スピーカー役のようなこともしなければならないんです。そのためにはまずは私自身がココアさんのやっていることを良く理解しないといけないです。もちろん全部を理解するのは無理だとしても、ティッピー学についてそれなりに深い知識が必要になります。大学受験の勉強程度でくじけている訳にはいかないですね)
ココアのそばに立ち、ココアと同じ風景を見続けようと思ったら、きっと常に努力し続けることが必要になるだろう。なぜならココア自身が、無限の好奇心をエンジンに常に前に進み続ける人だから。ココアがそう遠くない将来歩むことになるであろうキャンパス内の坂を上りながら、チノは武者震いをするような気持ちになった。そう、チノの冒険はまだ、始まったばかりなのだ。