亡くなったはずのお母さんから私にメッセージが? 正直、理解が追いつかない、現実感がないというのがチノの正直な気持ちだった。促されるがままに、ココアのお父さんが用意したティッピーと向かい合う。家でよく見るココアのお父さんの私用端末ではなく、研究所の端末のようだ。チノには良くわからないソフトウェアが立ち上がり、何かの動作を行った後に、ホログラム画面が表示されてパスワードを要求される。
「パスワードは、君のお母さんの名前だ。僕たちもまだ中身に目を通すことまではしていない。それを最初にするのは、チノちゃんにだけ与えられた権利だ」
ココアのお父さんもまだ見ていないという、並行世界からのメッセージ。いったい何が書かれているのか。ごくり、とチノは唾を飲みタッチキーボードに手を伸ばす。
K、A、F、U、S、A、K、I
慎重に、一つ一つ入力する。
パスワードが通り、画面に文章が表示された。
[私とは、違う世界線を生きるチノへ。
突然、こんな手紙を送ってしまってごめんなさい。びっくりするわよね。私は、あなたとは違う世界線を生きている、あなたのお母さんです。この世界の私は訳あって、様々な並行世界を観測することが出来る立場にいます。ある日いつもように観測の最中、ある一つの世界でたまたまあなたの姿を見つけてしまい、居ても立っても居られずにこんな手紙を送ってしまいました]
チノは真剣にメッセージを読み込んでいく。その中には色々なことが書かれていた。「あちらの世界」でもティッピーに近い端末が開発されており、並行世界との通信が出来ること。「あちらの世界」では並行世界との通信技術はそこまで厳密な秘匿技術とはなっておらず、むしろ並行世界との通信を発展させていくための研究開発が進められていること。チノのお母さんは「あちらの世界」では並行世界通信の研究者であること。ある日並行世界を観測している最中に、とある一つの世界で自分の娘の姿を発見してしまったこと。観測を進めるうちに、その世界では自分は既に亡くなっているらしいことに気づいてしまったこと――
[並行世界のこととはいえ、今の自分の年齢より若くして自分が死んでしまっている、という事実は私にショックを与えました。そして私が何より心配したのは、一人娘であるチノ、あなたのことでした。ですがそんな世界でも、あなたは沢山のお友達に囲まれ、強く生きている。そんな事実に、私はまずは安心したのです。でも、もしかしたら母親特有の心配性なのかもしれませんが、あなたが時折見せる寂しそうな顔、そんな顔を見過ごすことがどうしてもできませんでした。生きる世界線が違えど、私はあなたの母親です。母親として自分に出来ることが何かないか……、そう思うようになったのです]
だが、並行世界通信技術の発達している「あちらの世界」においてすら、特定の世界線の特定人物を観測し続け、さらに干渉までするというのはかなり困難なことらしい。「膨大な水をたたえる大河の流れの中から、特定の水分子だけをピックアップして追いかけ続けるようなものなのです」と手紙の中では説明されていた。それでもチノのお母さんは試行錯誤を繰り返した。その結果、ようやく二〇五二年四月一日からの数か月間のこの世界のチノの座標を特定し、メッセージを送る術を手に入れた。ただそのメッセージも最初は技術的制約で容量がわずかのものしか送れず、文字数にして一文字にも満たない断片情報や数文字程度のメッセージを送ることの繰り返しだったという。
[そしてようやくある程度まとまった容量の情報を送信することに成功したのが今回、という訳です。おそらく、ちゃんと意味を成すだけの量のメッセージを送信できるのはこれが最初で最後になるのではないかと思います。次に送ることが出来るのは十年後か二十年後か、もしかしたらチノがお祖母さんになる頃かも……。特定の世界線の並行世界同士の通信、それもある特定の座標に向けた通信というのはそれほどに不安定なものなのです。しかしそれでも、ついにあなたにこの手で書いたメッセージを届けられる……私の胸は高鳴りました。ですが、今になって重大なことに気づきました。いざこうやって書き始めてみると、あなたに何と声をかけて良いのか分かりません。そういえばもともと、私は手紙を書くのは得意ではないのでした。言葉であなたを励ますことが出来れば、それが一番良いのだけれど、上手い言葉を見つけることが出来ないから。だから、私は私の一番得意な方法であなたにメッセージを贈ろうと思います。そう、あなたに歌を贈ることに決めました。歌って素敵よね。時に言葉よりもはるかに雄弁に、言いたいことを伝えてくれる。私が昔バーでアルバイトしていた時、お父さんの伴奏でよくこの曲を歌ったのよ。もしも『そちらの世界』でも作られている歌だったら、その時は笑って聞いてください。
From Saki Kafu]
メッセージはそこで終わっていたが、よく見るとその下に音符のアイコンが表示されていた。チノはアイコンをタップする。すると、しっとりとした曲調のピアノのイントロが流れ始めた。直後にピアノを追いかけるように力強いサックスの音色。そして次に流れて来た声を聞いた瞬間、チノの目に涙が浮かんだ。
[ふわり 小さな寝息は春のよう]
生きている人間は多かれ少なかれ亡くなった人のことは忘れていくが、その中でも「声」の記憶は最も忘れやすいものだと言われている。だが、この「声」はどうして忘れることが出来ようか。生まれて初めて聞いた人の声。世界に生まれ落ちた不安の中でただ一人、自分を光へと導いてくれた人の声。
[私あなたに何をあげられるでしょう もっと]
チノの聞いたことのないメロディの曲だったが、声は紛れもなく、チノのお母さんのそれだ。陽だまりのように暖かかったチノのお母さんの手が、まだ小さいチノの頭を優しく撫でながら子守唄を歌ってくれたことを思い出す。
[一緒に成長させてね 「今」を重ね]
残酷なこの世界では時間は一方向にしか流れない。一緒に成長したいというチノのお母さんの願いは叶うことはなく、チノのお母さんとチノの時間は、もう二度と重なることはないはずだった。しかし今、音楽の力が起こした奇跡と言うべきか、量子論の起こした必然と言うべきか、世界線の壁を越えて二人の時間はもう一度重なったのだった。
[銀色のスプーン 愛をすくって いつもいつまでも あなたへと]
[訳なんてないわ 出会う前から ずっとずっとずっと 愛してる]
いつしか曲の再生が終わり、静寂だけが部屋の中を支配していた。ココアのお父さんとリゼのお父さんはチノに気を使ったのか、いつの間にか席を外してどこかに行ってしまったようだ。部屋にはココアのお母さんとチノだけが残され、静かに嗚咽するチノの体をココアのお母さんが優しく抱きとめていた。
「ううっ……うえっ……」
幼年時代のチノは親からすればとても聞き分けの良い子供だった。ちょっと素直すぎるところが逆に心配になるくらいに。ぐずって母親を煩わせるようなことなんてほとんどなかった。そのチノが母親の胸の中でこうやって泣くのなんていったい何年ぶりだろう。チノのお母さんは遠いところに旅立ってしまい、二度と母の胸には還れないはずだったが、今こうしてチノは再び母親の胸の中にいる。
香風サキの歌った愛は、本来超えられるはずのない世界線の壁を越え、今、確かにチノのもとへ届いた。