Roses fall fleetingly, violets bloom vividly 作:MIA
……視界が回る。
地面に着いているハズの足の感覚が、ふわふわ、と雲でも踏んでいるかのようだった。
力が入らない足をそれでも一歩、すみれは足を踏み出した。
微かに、じゃり、という地面の感覚がした。
「……ぅぅぅっ!!」
ガン、と言うことの利かない自分の足を思いきり叩く。
ぴり、とした痛みが、少しだけ、元の感覚に近づける。
ガンガン、と何度も叩く。がくがく、と震える足はそれでも言うことを聞かずに頼りない。
「……っ、はぁー……っ、はぁー……っ!!」
べちん、と両手で自分の頬を叩く。
暗闇に落ちそうになっていた視界に、ばち、と白い光が弾ける。
ぐる、と回る視界は未だ気持ち悪いが、それでもまだ、前が見える。
ぐにゃり、と歪んだ視界の先には、金色と赤色が見えた。
(……千束ちゃんは、そこにいる……)
短い期間であったとしても、ずっと隣にいた人だ。
はっきりと見えなくても、それが千束だと分かった。
……それに。
(……ノバラちゃんと、同じ……甘い匂い……)
大好きな人と同じ匂いのする彼女の存在が、すみれの意識を閉じさせることを許さない。
(……まだ……まだっ!)
ぎり、と歯を食いしばり、更に一歩。
「あああああああああああああ!!!!」
声を上げて、拳を振り上げる。
型も何もない、隙だらけの動作。
(……ノバラちゃんが見たら怒るだろうなぁ……)
すみれは、見取り稽古でノバラを見ているのが好きだった。
自分よりも一回りも二回りも小さい体でありながら、その堂々とした動きはその体を何倍にも大きく見せた。
拳での突き。足での蹴り。
格闘技というものは、人間が自分の身を守るために試行錯誤した結果。
計算され尽くしたその動きは、人間が単なる野生の動物だったとしたら、考えられなかったものである。
だと言うのに、ノバラのその動きは野生の獣を彷彿とさせる。
牙を剥いた狼の如く、容赦なく、それでいて美しい。
闇を映したような黒々とした狼の姿をすみれはいつも幻視していた。
そんな彼女が、極めて短い時間。すみれの体を触りながら、型の手解きをしてくれた。
型を乱すな。変な癖を付けるな。イメージの中で完全に再現しろ。
体質上、すみれは運動が厳しく制限されているからこそ、実際に体を動かすときは、最低限で、イメージ通りに動かすよう仕込まれた。
その教えからすれば、今のすみれの動きは零点だ。
……しかし、それも仕方あるまい。
すみれに今できるのは、無様であろうとそれくらいしかない。
鉛のように重く感じる拳を振り上げ、自重のままに振り下ろす。
それが精一杯なのだ。
それでも……すみれには負けを認めることが許されなかった。
◇◆◇
「あああああああああああああ!!!!」
精彩を欠いた動きで、すみれが拳を振り上げ、ぐらり、と一歩踏み込みながら、不格好に拳を振り下ろす。
それは、もはやパンチとも言えないような代物だ。それでも辛うじて、千束を射程範囲内に入れているのは、すみれの執念と言ってもいいだろう。
……無論、そんな大振りなパンチが千束に当たる訳もない。
スッ、と足を引いて、避ければ、がくり、とすみれが自分の重心を崩して倒れそうになる。しかし、何とか足で支えると、がくがく、と震える足を誤魔化すように何度か叩く。
そして、また、拳を振り上げるのだ。
「……もう、止めろ、すみれ。決着は付いただろう?」
妹分の必死な様子に、千束は泣きたい気持ちになっていた。
負けたくない、負けられない。
その言葉とその言葉の裏にあるすみれの想い。
それだけが、既に限界を迎えているすみれの体を突き動かしている。
……しかし、負けられない勝負をしているのは、千束も同じ。
だが、今のすみれに止めを刺すのは躊躇われた。
「……すみれはっ!……まだ、負けてないっ! 殺されない限り、絶対に、倒れない……からっ!!」
言葉とともに、ぐぉん、とすみれの腕が振るわれる。
「アンタ……何だって、そこまで……」
肩で息をして、髪を振り乱し、全身に汗を掻いているすみれ。
その只ならぬ形相と執念が千束を困惑させる。
「……っ、はぁー……ノバラちゃんが、いない世界なんて、すみれには意味がない……ノバラちゃんだけ、いればいい……っ、ふぅっ、ふぅぅ……ノバラちゃん、以外、何もいらない……お父さんも、お母さんも……だから、すみれから……ノバラちゃんを、取らないで……っ!」
(ちっ……すみれの言葉、支離滅裂なところがあるが……断片的に聞いても胸がざわつく……嫌な予感しかしない。楓さんといい、ノバラといい、一体何を考えて……? それに、すみれの口から『お父さん』に『お母さん』? 二言目には『ノバラちゃん』としか言わないこの子から、どうして、そんな言葉が……)
千束が考えを巡らし、少し気を逸らした瞬間。
ぴしゅ、とすみれの拳が頬を掠める。
(……あれ?)
意識しなくても避けられたハズのそれが、避けきれなかった。
当然、余計なことを考えていた、という理由もある。
……だが。
ゆらり、と拳を振り上げてすみれが構え……振り下ろしてくる、その瞬間が読めなかった。
しかし、さすがに集中していれば、避けられる。
すみれが万全の状態であったならともかく、今のすみれは半死半生。
通常時の半分のスピードもあるまい。
それでも避けられなかったその理由。
(……振り下ろす、その瞬間の予備動作が消えた)
構えているからこそ、未だ避けることができているものの、今のすみれは、攻撃を打つ瞬間がまるで分らない。
動く、その瞬間が分からなければ、千束の避ける技術は使えない。
疲労の極致。一切の体力の無駄が許されない状態のすみれだからこそ、その予備動作が消えた。
……そして。
最後の火を灯すかのように、すみれの動きが徐々に良くなり始める。
ぐぉん、と再び、腕を振り下ろした後、すみれは、すぅぅ、はぁぁ、と大きく深呼吸をした。
だらん、と腕を垂らしたその様子は力尽きたかのようにも見える。
だが、未だ意識が朦朧とし、焦点の合っていない目でありながら、その視線は正確に千束の姿を射抜いていた。
(……すみれはまだ終わってない!?)
肩幅程度に開いた足、だらりと下げられた腕。
(……これは……脱力か? ……だとすれば来る!)
千束がそう認識すると同時。
すみれは全身の力を抜く。
体は前側に倒れるようとするも、両の足がつっかえ棒のように、体を受け止める。。
しかし、その重心の崩れすら利用し、つっかえ棒となっている足を後方に
抜けて行く足が、最後、わずかに地面を食んだとき、それまで緩めていた全身の力をその一点に集中させて、爆発的なスピードで千束に向かって突進を始める。
……不思議と、地面を蹴る音はほとんどしなかった。
一秒が何秒にも引き延ばされるような感覚の中、すみれは、笑みを浮かべる。
さすがの千束もこれを避けられないだろう、と。
そして、すみれには見えていた。
全てが終わった後、ノバラが優しく抱きしめてくれる様子が。
……だが、現実は甘くない。
すみれが飛び出そうとする、その同時。いや、そのわずか早く。
千束の蹴りが、すみれのアゴ先を撃ち抜いた。
すみれは、地面を蹴ることができないまま、ぽすん、と千束の腕に収まる。
「……ご苦労さん、すみれ。アンタ、ほんとに強かったね」
ぽんぽん、と千束はすみれの頭を優しく撫でる。
その声を聞いて、すみれは、負けたことを、理解して、意識を闇に委ねた。
……最後の抵抗、とばかりに、千束の制服を握りしめて。