Roses fall fleetingly, violets bloom vividly 作:MIA
K=1/2mv^2という有名な運動エネルギーの公式がある。
その意味するところをざっくりと説明すると、運動エネルギーは物体の重さと速度に依存しており、とりわけ速度が重要な要素となっている、といったところだろうか。
ノバラがすみれの戦い方を評して、ジェノサイドエクスプレスなどと表現したが、これはあくまで比喩表現であり、すみれが実際に新幹線(特急が本来の訳だが、意味合い的にはこちらが正しかろう)と同等の運動エネルギーで相手を吹き飛ばしている訳ではない。
この比喩の意味するところは、すみれは見た目以上の重さと速さのパワーで相手を蹴散らす、ということであろう。
さて、先に述べたようにこの公式では速度がとりわけ重要な要素となっている。運動エネルギーは速度が2倍なら4倍に、10倍なら100倍になる。だが、逆に0.5倍であれば、運動エネルギーは0.25倍になる。単純計算では速度が乗る前のすみれのパワー、破壊力は4分の1になるということだ。そして、動き出せなければ、当然、運動エネルギーは『0』だ。
また、過去、偉い人は言いました。
『当たらなければ、どうということはない』
すみれを攻略する方法は単純だ。
第一に当たらないこと。
第二に動き出す前に封じること。
この二点が満たせるならば、すみれの無力化は容易い。
……無論、言葉の上で、の話であるが。
千束の基本戦略は第一のみであったが、それだけでは勝利することが難しい、と分かったので、リスクを取ってでも第二も戦略に組み込んだ。
即ち、完全密着して攻撃を避けるあるいは初動を潰す、だ。その間にすみれの頭部に銃弾を放てればなお良い。
千束はすみれの突進を躱しながら、再びすみれが踏み出そうする膝に銃弾を当てることに成功し、すみれが動きを止めると同時、その懐に飛び込んだ。
「えぇ!?」
すみれが戸惑ったように声を上げる。
すみれがリコリスとして活動を始めて二年弱。幾度となく鉄火場に放り込まれているものの、逃げる敵こそあれ、自分から密着してくる敵は皆無であった。
まして、今回は『殺すな』と念押しされている。
よって、すみれはどうしたらいいのか分からずに困惑していたのだ。
(あわわわわわっ!? えっ!? これ、どうしたらいいの!? 力加減間違えたら潰しちゃうよ!?)
半ば本能的に抱きしめて圧殺しそうになる両手を止めて、そんなことを考える。
ふわりと目の前をチラついた金色の髪からは、ノバラと同じで、だがちょっとだけ異なる甘い匂いがした。
その驚きにちらりと見下ろしたすみれの目と挑戦的な笑みを浮かべた千束の目が交錯する。
『遠慮するな、来いよ』
すみれはその目からそう読み取った。
すみれは左手で顔をガードしながら、右腕を振りかぶり、そして、振り回す。
しかし、するりと千束はその腕をすり抜けた。
背中合わせになるようにすみれの腕を躱した千束は肩越しにすみれの体に銃口を密着させるようにして、銃弾を放つ。
「んぅ!」
苛立ったようなすみれが、なおも振り向きざまに右腕を振るうもまたもするりと懐に避けられる。
顎先に銃口を向けられたすみれは慌てたように左手で銃口を押さえようとするも、それよりも先に銃弾が放たれ、機先を制される。一度止まった左手でそのまま千束を押し潰そうとすれば、千束は逃げるように少しだけ後ろに下がると、そのまま顔を狙ってくる。
(えぇ!? 何でなんでぇ!? 何で当たらないの!?)
すみれが何とか右手で顔をガードしながら後ろに下がると、今度は千束が前に詰めてくる。
(なら、左でぶん回す!)
すみれが、左腕を振るうため、わずかに引いたその瞬間、千束は極近距離ですみれの左肘の内側を撃った。
「えっ!?」
衝撃ですみれの左腕が弾かれる。
それで初めてすみれは気づいた。
(何でぇ!? あ……ノバラちゃんが言ってた。千束ちゃんは『相手の服や筋肉の動きで次の行動を予測している』って!)
自分の次の動きが読まれている。だから、躱され、潰される。
それに気づいたとき、すみれはゾッとした。
自分の動きが見透かされていること。
このままでは自分の攻撃が相手に当たらないこと。
結果、自分は何もできずに負けること。
……そして、千束の『もしかしたら死ぬかもしれない』という状況で前に出てくる精神性に。
「ズルい! 千束ちゃん、ズルいよぉ!」
すみれは駄々っ子のように叫びながら腕を振り回す。それでも顔のガードは外さずに。
わずかに触れれば致命の一撃になるすみれの腕を千束は内心で冷や汗を流しながら避けていた。
「ズルくねぇ! 相手が自分の思う通りに戦ってくれるなんてことあるわけないでしょ!? 甘えるんじゃない!」
千束の言葉にすみれはぽろぽろと泣き出し始める。
「やだ~! ヤダヤダヤダ! すみれ、負けないもん! 負けたくないんだもん!」
すみれの感情の昂りに比例するように、その腕の振りには、容赦が無くなってきていた。
完全に冷静さを欠いている状態であるのは見た通りだ。
だが、そんな中でもすみれがガードを崩すことはない。
それを見て、千束はノバラがすみれをどれだけ大事に思っているのかが分かった気がした。
精神的に幼いすみれが絶対に生き残れるように。致命の一撃を受けないように。徹底して反復させ、条件反射あるいは本能的に頭部を守るように教え込まれ、それが体に染みついている。
ノバラがすみれを可愛がっていることは見ていれば分かる。
だが、ここまで教え込むには、心を鬼にしなければならないことが幾度もあったことだろう。
その厳しさを受けてなおすみれがノバラに懐いているのは、ノバラのその気持ちを分かっているからだと思う。
あの人形のようだったノバラが、今は人を育んでいるのだと思うと感慨深い気持ちと自分の手を離れて行ってしまうような寂しさがあった。
だが、だからこそ、千束は今、すみれに負ける訳にはいかなくなった。
この模擬戦。ノバラは確かに勝ちに来ているが、それと同時にすみれに負けを経験させたいとも思っている。勝てば、他のリコリスにも認められるという喜びを、負ければ、勝負に負けることの悔しさをあるいは死への恐れを与えるために。ノバラからすれば、どちらでもすみれの良い経験になると思ってのことだろう。
だが、すみれのポテンシャルを考えれば、現状、すみれを後腐れないように負かせることのできる者は千束以外に適任がいない。
(やれやれ、ノバラにいいように使われるとは……)
ノバラの厚かましさに辟易する気持ちもあったが、いや、これも姉の定めか、と腹をくくる。
すみれが大きく右手を振りかぶって、勢いよく振り下ろす。
千束はむしろそれに向かっていくようにしてすれすれで躱すと、トントンと軽いステップですみれの体を土台にして宙に舞った。
「え……?」
千束を見失ったすみれは自らの体に軽い感触を受けたことに気づき。
パァン、と乾いた音と、強い衝撃を頭に感じた。
(……ごめん……な、さい……ノバラちゃん……)
すみれの視界がくらりと傾き、やがて暗闇が訪れる。
(あぁ……イヤだ……止めて……すみれをそっちに、連れて行かないで……)
全身が真っ黒な何かに引きずり込まれるような感覚に、すみれは何かにすがるように手を伸ばす。
意識を失う寸前。
すみれは手の平には暖かい感触がして、大好きな人と同じような甘い香りを嗅いだ気がした。