__何ていう事なんだ、アドニス。可哀想に。
世宇子中サッカー部。
練習の最中であるのだがアフロディは1人、焦燥した様子で物思いにふけっていた。
戦国伊賀島戦で、足を負傷させられてしまったアドニス。何て痛々しい。
だからサッカーはキミには危険な事だと忠告したのに。
……これも雷門中のせいだ。奴らが彼女をたぶらかしたりしなければ、サッカーをさせなければこんな事にはならなかった。
このまま雷門中にいては彼女は危険だ。次は怪我では済まないかもしれない。
一刻も早く、自分のもとへと連れ戻してあげなくてはいけない。
___ここはどこだろう。
アドニスは広い草原に立っていた。
僅かに見覚えがある、この景色。ここは前世の神話の世界だろうか。
近くにある泉で自分の姿を確認すると、水面には古代ギリシャの丈の短いキトンを着ている黒い髪の少年が映っていた。
これは自分なのだろうか?そう泉を見つめながら呆然としていると、すぐ近くで女性同士が言い争っている声が聞こえた。
驚いたアドニスは、その方向を向く。
「アドニスは私のものよ!」
「何言ってるの!?ふざけないでっ!」
「あの子は元は私の所にいたのよ!?返しなさいよ!!」
「今はこっちにいるのよ!返さないわ!!」
アドニスを巡り、いがみ合う美しい2人の女神。
それは美の女神アフロディーテと……冥界の女王であり春の女神でもあるペルセポネだった。
事の発端は、赤ん坊だった頃のアドニスを甚く気に入ったアフロディーテは、誰にも見られる事のないように彼を箱の中へ隠すと、それを冥界にいるペルセポネへと預けたのだ。冥界へ預ければ彼が人目に付く事がなく独り占め出来ると思ったからである。
しかし、ペルセポネもアドニスを気に入ってしまい、成長した彼を引き取りに来たアフロディーテとこうして争いが勃発してしまった、という訳であった。
だからと言ってアドニスがこの場を収める事が出来る訳でも無く、ただあたふたと2人の言い争いを見ているしかなかった。
ただ、ペルセポネの姿を見ていると何かを…誰かを思い起こしそうな感じがする。
ペルセポネは……春。………それは花が咲き誇る季節。
春?……誰かに似ているような?身近にいる誰かに…
そう思い回していると、アドニスはいつの間にか目が覚めており、いつものベッドに寝ていた。今のは夢だったようだ。
でも、夢と言う一言で片付ける事の出来ないリアルな感覚。恐らく前世で本当にあった出来事。
「みんなっ!いよいよ次は準決勝だな!ここまで来たら、優勝まで一直線だ!!」
「おうっ!!!」
雷門サッカー部。集まった雷門メンバーの前に、いつにも増して威勢の良い円堂の声が響く。
いよいよ次は準決勝戦なのだ。威勢が良いのは彼だけではない。
もっと特訓をして次の試合にも挑まなければならないのだ。
イナビカリ修練場で、いつにも増してハードな特訓をし始める雷門メンバー達。
アドニスは足の怪我が完治していない為練習は控え、春奈や木野のマネージャーの手伝いをしていた。
彼女達と雑談しながらの仕事は楽しく、世宇子の1人だった時とは全然違うと感じた。
でも、皆と一緒に特訓する事が出来ないのは残念だった。こうしている間にも身体は鈍ってしまう。何か良い方法はないかと考えるが、今のところ何も思いつかない。
そして時が経つのは早く日は既に沈んでいるのだが、それに気が付く事なく練習をずっと続けている雷門メンバー達。
イナビカリ修練場は地下にある為、外の様子が分からないのは仕方がないのだが、それ以前に円堂に負けず劣らず全員がサッカーバカなのだ。
どんなにクタクタになっても一つ一つ、また強くなっていく事に全員が嬉しさを感じていた。
何より、いよいよ準決勝まで来る事が出来たのだ。ここで負ける訳にはいかない。
「あなた達!もう夜も遅いのよ!程々にしなさいっ!」
しかし、とうとう夏未によるイナズマがその場に落とされ、今日は解散になった。
帰り支度を終えたアドニスは一緒に帰ろうと春奈を待つが。
「あっ!…忘れ物しちゃった。取りに戻るね!」
鞄の中を見ていた春奈がそう呟いた。
「じゃあ一緒に……」
「ううん、大丈夫!先に行ってて!」
そう言うと春奈は走って戻って行ってしまった。
アドニスはそのまま1人で外に出る。空はすっかり暗く、校庭には既に誰も残っていなかった。そのまま帰ろうと歩いて行くと。
「!」
突然、突風が吹き荒れる。さっきまで風なんて出ていなかった筈なのだが。
風はすぐに収まるが、アドニスは目の前に人の気配を感じ、顔を上げた。
「…あ……」
そして…すぐ目の前にいる人物に目を見開き、思わず息を呑む。
白いギリシャ風のユニフォームを着ている長い金髪の彼は、赤く淀んだ瞳でアドニスを見つめていた。口元には笑みを浮かべている。
それは美しく不気味な…そんな雰囲気を醸し出しており、思わずゾッとしてしまう。
アドニスは冷や汗をかきながら後退る。
しかし彼は距離を詰めて来て、彼女の手をがっしりと掴んできた。
「な、なんですか?!」
「アドニス。やれやれ、こんな時間まで練習をさせられているのかい?足もそんなにされて……酷い学校だな。」
彼…アフロディは哀れむ様子でそう言いながら、アドニスの怪我をしている足に目を向け、優しく彼女の手を引く。
「この足は皆さんのせいではありません。離して下さい!」
「可哀想に…脅されているんだね。もう大丈夫だよ。このまま一緒に行こう。」
優しい口調ではあるが淀んだ瞳のまま、彼はアドニスを連れ去ろうとする。腕を振りほどこうとするが、その力は凄まじく強い。
彼もアドニスを取り戻そうと必死なのである。
このままではいけない。でもどうすれば___
「アドニスちゃん!?どうしたの?その人は…」
そこに忘れ物を取りに戻っていた春奈が、ただ事ではなさそうな状況に不思議そうな顔をしながら駆けつけて来た。
しかし、彼女を見てもアフロディは大して気にする様子を見せる事無くアドニスを離さないまま淡々と、しかしどこか高飛車な口調で春奈へと言う。
「この子はボクのものなんだ。返してもらうよ。」
上から目線の物の言い方。それを聞いた春奈はムッとする。
「どうしてアドニスちゃんがあなたのものになるんですか?!それは違うと思います!」
そして春奈もアドニスのもう片方の腕を取り、引っ張り出した。
それを見たアフロディは、目を吊り上げ強い口調で怒り出す。
「この子は元はボクの所にいたんだ!…返せ!」
「今は雷門にいるんです!返しませんっ!」
引っ張りだこにされてしまったアドニス。
この光景はまるで、神話におけるアフロディーテとペルセポネによるアドニスの奪い合いである。
神話の世界だと、この後に主神ゼウスによる仲裁が入るのだが、当然ここには出て来ない。
アドニスは思い出す。これは、今朝見た夢そのものだ。
花が咲き誇るような可愛らしい笑顔。春という名前がよく似合う明るい雰囲気。
そうだ。春奈ちゃんは……春の女神ペルセポネに似ているんだ。
今まで彼女を見る度に蘇りそうだった記憶は、これだったのか。アドニスはようやく思い出した。
だが今は、記憶の世界に没入している場合ではない。
アフロディは更に強い力を入れ、強引にアドニスを引っ張り取り返そうとしてきた。
怪我をしている足が痛んだのかアドニスの表情が一瞬、苦痛に歪む。
「…!!」
その表情を見たアフロディは咄嗟に力を抑えた。
「誰かっ!来て下さいっ!」
その隙に春奈は大声で人を呼ぶ。
するとその声を聞き、ただ事では無いと察知した鬼道が全速力で駆けつけて来た。
「春奈っ!どうしたんだ!?………お前は!!」
アフロディの姿を見た彼は敵意を剝き出しにした。アフロディも鬼道を静かに睨む。
「……。」
そしてアドニスの腕をゆっくりと離すと腑に落ちないというような表情をし、一言も発する事なくいつの間にか消えてしまった。
「き、消えた?」
片方の腕が解放されたアドニスは春奈に支えられながらも、その場にへたり込む。
「アドニスちゃん!大丈夫?引っ張っちゃってごめんね…。」
「ううん。ありがとう。春奈ちゃん。鬼道さん。」
「今のは世宇子のアフロディだな?」
鬼道が警戒を解かない様子で言った。
アドニスは頷く。
「何なの!あの失礼で偉そうな人!アドニスちゃんをもの呼ばわりするなんて!大体、女の子なのに自分の事をボクって……」
春奈はアフロディに対し
アドニスと鬼道は顔を見合わせる。
「春奈、あいつは一応、男…だぞ。」
「えええ?!あれで?そういえば力はあったような…」
鬼道から言われたその事実に、大きな目を丸くしながら驚く春奈だった。
一方、アドニスを取り返す事の出来なかったアフロディは悲しさと悔しさに、瞳の奥で静かに憤りの炎を燃やしていた。
「アドニス、どうして……」
どうして一緒に来てくれなかったんだ。
ボクを裏切るのか?神であるボクを?
先程の彼女の目は、自分に対して怯えながら拒絶の反応を見せていた。あの時腕を離したのは、彼女の表情が痛みに歪んだように見えたからだ。
アフロディの中で、胸の痛みが増していく。
「そんなにあの子を取り戻したいならさ、これを飲ませれば済む話じゃないか。」
暗然としているアフロディにへパイスが、透明な液体の入ったグラスを差し出す。
「それは…」
「それさえ飲んでしまえば、すぐここに戻って来るんじゃない?」
へパイスは怪しく得意気な笑みを浮かべ、自分より背の高いアフロディを見上げる。
一方アフロディは、グラスの中に入っている液体を凝視する。その瞳には迷いが生じていた。
それだけは駄目だ。
何の為に、彼女にサッカーをさせなかったか。
危険な目に遭わせたくなかったからだ。それに___
その液体…神のアクアは飲んだ者に強大な力を与えると同時に、高い依存性をもたらす。へパイスの言う通り飲ませてしまえばすぐに液体に取り憑かれ、こちらの物になるだろう。
しかしその効果を発揮できるのは、元より神のような身体能力を持ち、鍛え上げられた者にのみ。飲んだからといって誰もが力を得られる訳ではない。
普通の者が口にすれば、無事では済まされないだろう。最悪の場合は___
それだけではない。そんな物で彼女を取り返す事が出来たとしても、自分のプライドが許さない。
とにかく、絶対に駄目だ。
「いや…もう一度、彼女の所へ行く。その時にまた説得する。」
アフロディは差し出された神のアクアを押しのけ、静かにそう言い放った。