日差しが強く、蝉の鳴き声が響き渡る暑い季節。
今は夏休み真っ只中である。
「………。」
アドニスは1人、自分の部屋で目の前にある物を、じっと見つめていた。
それは、ハンガーに掛けられている浴衣。
白地に真っ赤なアネモネの柄が入った華やかで可愛らしい浴衣である。生地もしっかりした物で作られており、高級な感じが漂っている。
それもそのはず。この浴衣は普通の中学生のお小遣いでは買えないくらいの値段だったのである。
当然アドニスに買える物ではなかった。
では、なぜ彼女がこれを持っているのか___
それは2日前の事。
「ねえ、アドニス。」
世宇子中のサッカー部部室。
夏休みではあるが、部活動は練習がある。
キャプテンであるアフロディが練習終わりにアドニスへ声を掛けてきた。
普段は自信に満ち溢れている彼であるが、今は若干緊張気味である。
「あのさ…明後日は予定、空いてない?」
「明後日ですか?…特に予定はないですけど。」
それを聞いたアフロディの顔が明るくなった。
「本当かい?!ちょっと一緒に出掛けたい所があるんだけど……」
「どこですか?遠出でサッカーの練習ですか?分かりました!」
「違うよ!……これなんだけど。」
そう言いアドニスへ差し出したのは、一枚のチラシだった。
それは、神社で開催される夏祭りの告知チラシである。
花火の写真と開催時間が書いてあり、最後に『浴衣でお越しの方限定!夜店割引きあり!』という文字があった。
「夏祭り?」
「うん。是非キミと一緒に行きたいんだ。良いよね?」
楽しそうだと思った一瞬、アドニスは思ったのだ。
そういえば浴衣を持っていない、と。
浴衣じゃないと行けない訳では無いが、割引があるし……折角なのだから雰囲気も楽しみたい。
「か、考えておきますね…。」
とりあえず保留という事にして素早く帰り支度をすると、そのままショッピングモールへと立ち寄る事にした。
夕方の時間帯。人通りが多くガヤガヤとしているモール内を歩いていると、呉服屋のトルソーが着ている物が目に入り足を止める。
「…!」
それは白地に真っ赤な花……アネモネの柄の入った浴衣であった。
赤い帯が合わせられており、下駄等の小物類も素敵にコーディネートされている。
この花は以前、入院中にアフロディから贈られた花と同じ。自分とは切り離せない物に感じるのだ。
しかし、アドニスはその浴衣の値札を見た途端がっかりとした。
「…駄目。これじゃ買えないよ…。」
中学生には痛すぎる値段が付けられていたのである。
でも他に気に入ったものがある訳でもなく、浴衣は諦める事にしてアドニスはアイスでも食べてから帰ろうと思った。
その時だった。
「アドニス。何を見ていたんだい?」
突然、アフロディが後ろから声を掛けてきたのだ。
「わあ!?……キャプテン、なぜここに?」
「ちょっと買い物に。それでキミを見掛けたから、声を掛けたんだよ。」
そう言いながら彼は、アドニスが見ていた浴衣を見る。
するとハッとしたように目を見開く。
「…この浴衣。絶対キミに似合うよ。アドニス。」
至って真面目な表情でそう言われるが、アドニスは首を横に振った。
「でも高くて…私には買えないので、諦めます。」
「……」
「…キャプテン?」
じっとその浴衣を見つめていたかと思えば、呉服屋の店内に入って行くアフロディ。
店員に声を掛けると、その店員はトルソーが着ている浴衣を手際よく脱がしていき丁寧に畳み、付いていた帯や小物類と一緒に袋の中へ入れていく。
そして彼は何の惜しげも無く金を払うと、浴衣を受け取った。
「…?」
どうして買ったんだろう?自分で着るのかな…と考えて呆然としているアドニスへ、にこにこと微笑みながら浴衣を差し出す。
「全く…店員さんからボクが着るものだって勘違いされちゃったよ。……はい、アドニス。これはキミのものだよ。」
「…え?……いや、こんな高い物を受け取る訳には…!」
受け取れない。彼から受け取る理由が無かった。
「ボクが買った物をボクが好きにして何か問題でもあるのかい?」
この柄。真っ赤なアネモネの美しい柄。これは絶対にアドニスが着るべきもの。
アフロディは瞬時にそう思ったのだ。
「本当に貰っても良いんですね…?ありがとうございます!」
有無を言わせない言葉に、アドニスは戸惑いつつも浴衣を受け取ると、彼は嬉しそうに微笑んだ。
…というより、こんな値段の物をためらいも無く買えてしまうキャプテンの経済状況はどうなっているのだろう。
そう思った。
「ふふ、じゃあアドニス。明後日の夏祭り…ボクと一緒に行ってくれるよね?」
先程、誘われていたものの曖昧にしたままであった。
高い浴衣を受け取ったからには、もう断る事は出来ない。
アドニスは笑顔で頷いた。
そして話は冒頭へ繋がる。
時間は夕方になろうとしている時だった。
「あ、そろそろ支度しなくちゃ。」
アドニスは、浴衣の着付けを始める。
雷門中にいた頃、弓道部に一時的に入部していた際に袴を着付けた事があった為、和服類の扱いには少しだけ慣れているつもりなのであった。
浴衣の着付けの説明書を見ながら進めていく。
「あれ…ここはこれで良いのかな……」
とは言え、弓道着と浴衣は全然違う。少々手こずりながらも、小一時間後。
何とか無事に浴衣を着付ける事が出来たアドニスは鏡で自身の姿を確認した。
「何とか出来た…。って、もう行かなくちゃ!」
安心したのも束の間、時計を見ると、急がないと約束の待ち合わせに間に合わなくなってしまう時間だった。
アドニスは下駄を履き、急いで家を出る。
待ち合わせ場所。今日は祭りという事もあり、かなりの人数で賑わっていた。
そこには早めに到着していたアフロディが立っていた。
「見て、あの金色の髪の子、女の子だよね?なのに男子用の浴衣着てる!」
「本当だ!でも可愛い~」
通りかかる女子2人が浴衣姿のアフロディを見てひそひそと噂をしていた。
彼は声がした方を睨む。
睨まれた女子2人は、そそくさと去って行った。
「全く…失礼だな。」
性別を間違われる事はよくある事なのだが、せっかくの祭りなのに嫌な気分にされてしまった。
「アドニス。早く来ないかな。」
アフロディは1人そう呟き、しばらく待っていると。
「キャプテン!お待たせしました!」
「あ、アドニス……!!」
現れた彼女を見た途端、アフロディは言葉を失った。彼の中でだけ時間が一瞬止まる。
例のアネモネ柄の浴衣に身を包んだ彼女。思った通りその浴衣は彼女の可愛さを存分に引き出していた。あまりに似合い過ぎて、あまりにも可愛過ぎる。
いつもとは違う雰囲気で…まるで別人の様にも見えた。
やはり自分の目に狂いは無かった。
値段なんてどうでもいい。良かった。この浴衣を買って本当に良かった!
天にも昇る気持ちに溢れる。先程の嫌な気持ちはどこかへ吹っ飛んでいた。
「……変でしたか?やっぱり……」
アフロディが目を大きく開けたまま固まってしまい、何も言わないので、アドニスはちょっと不安になった。
アフロディは我に返る。
「アドニス、キミがあまりにも可愛い過ぎて……言葉が出なかったんだ。」
アフロディは、改めてアドニスの浴衣をじっと眺める。
「その柄…やっぱりよく似合うよ。」
アネモネの花言葉は『見放される』『見捨てられた』という悲しい花言葉もあるのだが、アドニスにはそんなイメージは無いし、むしろ彼女にぴったりだと思えた。
何よりこの花は彼女に溶け込むように馴染んでおり、とても良く似合っているのだ。
「良かった…。ありがとうございます。キャプテンも着て来たんですね!浴衣。」
照れながらもアドニスは、アフロディが着ている浴衣をじっと眺める。彼の浴衣は濃紺の生地に薄めのグレーの帯というシンプルなものだった。それがスマートでかっこ良く見えた。
「…あ、ああ。変かな?」
アフロディは少し恥ずかしくなったのか自分の着ている浴衣に目をやる。
「いえ、そんな!とても素敵ですよ。」
その言葉を聞いたアフロディは嬉しそうに微笑むと、手を彼女の方へ伸ばす。彼は彼女の手を取り指を絡めたかと思うとそのまま手を繋いだ。
「キャプテン?」
「ふふ、こうすれば迷子にならないだろう?さ、行こう!」
「はい!」
そして2人は祭りの会場へと足を運ぶのだった。
しばらく2人で夜店を楽しんでいると、花火の打ち上げ時間が迫って来ている事を知らせるアナウンスが聞こえてきたので、花火がよく見える場所まで移動する事にしたのだが。
「…人が多いですね……」
花火の打ち上げ場所は、かなりの人で埋め尽くされており2人が座れるスペースは無さそうだった。
どうしようか…とアドニスが悩んでいると、突然アフロディに腕を引っ張られる。
「キャプテン?」
彼は何も言わずにどんどん歩いて行き、ある場所で立ち止まった。
そこは他に人がおらず、2人の目の前には1本の大木があったのだ。その枝葉はかなり高い所まで伸びており、そこからなら花火を見る事が出来るだろうと思われた。
「こんな場所あったんですね!」
「そうなんだ……ってアドニス、浴衣が着崩れしているじゃないか!」
アドニスは慣れない下駄と浴衣で歩き回ったせいか、帯が緩んでしまっていた。アフロディは直してあげようと彼女の後ろに回ると、帯を締める手伝いをする事にしたのだった。
「あ、ありがとうございます。」
アドニスは、少し照れながらお礼を言った。
そんな時だ___突然大きな音が辺りに響いたかと思うと花火が打ち上がったのだ。
2人は大木に登ると、空を見上げる。するとそこには色鮮やかな花火がいくつも咲いていた。
「わぁ……!!」
アドニスは目を輝かせながら花火に見入る。花火は次々と打ち上げられ、夜空を明るく彩った。
「綺麗ですね……」
アドニスは花火から目を離さずに言う。その目は輝いていた。
そんな彼女の頬にアフロディの掌がそっと触れる。驚いた彼女は彼の方へ顔を向けた。
そこには、真剣な表情をした彼の顔があったのだった。
2人の視線が交わる。アフロディの金色の髪が風に靡き、その美しい顔を縁取るように流れ落ちると彼の端整な顔立ちが露になった。
宵闇に、赤い瞳が宝石のように美しく光っているように見えた。
アドニスはその美しさに息を飲む。
そんなアドニスを見てアフロディはくすっと笑うと、彼女の頬から手を離す。
「ほら……花火を見ないとね?」
「…あ!そ、そうですよね……」
我に返ったアドニスは、再び花火へ視線を移した。
花火の打ち上げは最高潮を迎えており、2人は花火を存分に楽しむのだった。
そして一時間後。
花火が終わると、辺りは一気に静まり返っていた。
祭りに来ていた人達も帰路に就いている様で先程よりも人がまばらになっている。
そんな中、アドニスとアフロディはまだ大木の上に居た。
「花火凄かったですね…!」
アドニスは興奮が覚めない様子で先程の花火の感想を言っている。
そんな様子を見て、アフロディは微笑む。
「本当に…キミと見れて良かったよ。」
「私の方こそ、浴衣…ありがとうございました。」
アドニスは改めてお礼を言った。アフロディに買ってもらった浴衣の着心地はとても良かったし、花火が綺麗で感動した。
この浴衣を着て夏祭りに行く事が出来て、本当に良かったと思ったのである。
「キミが喜んでくれて良かった。」
アフロディはアドニスの頭を撫でる。その優しい手つきが心地よくて、彼女は目を細めたのだった。
その後、2人で木から降りようとした時である___
「あ…」
アドニスは木の幹に少し引っ掛かりバランスを崩してしまい、そのまま落ちそうになったのだが、それをアフロディが慌てて抱き留める。
2人の身体が密着する形になり……お互いの心臓の音が高鳴るのを感じた。
「ご、ごめんなさい…!」
アドニスはすぐさま離れようとするがアフロディはそのまま彼女を抱きしめた。
「キャプテン……?」
彼の体温が伝わってくる。とても心地が良いものだった。アドニスは恐る恐るアフロディの背中に腕を回すと、それに応えるかのように抱きしめる腕に力が込められたのが分かった。
暫くの間、そのままの体勢でいたがやがてどちらからともなく身体を離す。
心地良い風が吹き、アフロディの金色の髪が風に吹かれて揺れていた。
「そろそろ帰ろうか。」
「そうですね。」
アドニスは笑顔で答えると、2人は帰路へ就く事にしたのである。
「アドニス。来年も……キミと一緒に過ごせると嬉しいな。」
アフロディは、アドニスの手を握りながら彼女に聞こえないくらいの声でそう呟いたのだった。
その頬は、ほんのりと赤く染まっていた。